まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。

「成功する人は決断が早い」に惑わされない——誰かのYESで、自分のNOを上書きしない


 

今日、もう一つ気づいたことがありました。

 

それは、

 

「成功する人は決断が早い」

 

「チャンスをつかむ人は、すぐに決める」

 

「本当にやりたいことなら、借金してでもやったほうがいい」

 

というような言葉についてです。

 

私は以前、こうした言葉を聞いて、

 

「そういうものなのかな」

 

と思っていました。

 

そして実際に、決断を急いだこともありました。

 

でも今日になって、ずっとどこかにあったモヤッとした感覚が、ようやく言葉になりました。

 

その人にとっての正解と、私にとっての正解は違う。

 

当たり前のことのようですが、私はこの大切なことを、以前は十分に理解できていなかったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「借金してでもやった」の前には、何があったのだろう


 

例えば、

 

「私はどうしてもこれをやりたかったから、借金してでも飛び込みました」

 

という人がいたとします。

 

その人にとっては、本当にそれほどやりたいことだったのかもしれません。

 

「借金という負担を引き受けてでもやりたい」

 

と思うほどの、強い気持ちがあった。

 

だからその人は、自分でそのリスクを引き受けて、その道を選んだ。

 

それは、その人自身の選択です。

 

でも、それを聞いた別の人が、

 

「私はそこまでではないんだけど……」

 

と思っていたとしたらどうでしょう。

 

借金してまではやりたくない。

 

少し興味はある。

 

できるならやってみたい。

 

でも、大きな負担を抱えてまでやりたいわけではない。

 

本当はそう感じている。

 

それなのに、

 

「でも成功した人が、借金してでも飛び込んだほうがいいと言っている」

 

「ここで決めなかったらチャンスを逃すのかな」

 

「運をつかめない人になるのかな」

 

「決断できない人になってしまうのかな」

 

「この機会を逃したら損するのかな」

 

そんな不安から飛び込んだとしたら。

 

外から見える行動は同じ、

 

「借金をしてでもやる」

 

だったとしても、その二人の内側で起きていることはまったく違います。

 

 

 

 

 

 

同じ行動でも、出発点が違う


 

一人目は、

 

「どうしてもやりたい」が先にあり、そのためにリスクを引き受けた。

 

もう一人は、

 

「そこまでやりたいわけではない」があるのに、恐れから自分の気持ちを押し切った。

 

この二つは、同じ行動ではあっても、同じ選択ではないと思うのです。

 

私は以前、この違いをよく分かっていませんでした。

 

だから、

 

「決断が早い人がチャンスをつかむ」

 

と言われると、

 

早く決めなければ。

 

チャンスを取り逃したくない。

 

損をしたくない。

 

乗り遅れたくない。

 

運をつかめない人になりたくない。

 

決断できない人になりたくない。

 

そんな気持ちから、勢いで決めてしまったことがありました。

 

でも今振り返ると、それは「やりたい」という気持ちからの選択というより、

 

恐れや不安に急かされた選択

 

だったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「決断が早い」と「自分で決断する」は違う


 

早く決めること自体が悪いわけではありません。

 

本当にやりたいことなら、

 

「やりたい!行く!」

 

と一瞬で決めることもあります。

 

それも自分の答えです。

 

でも、

 

「魅力的ではあるけれど、今は分からない」

 

と思うことだってあります。

 

そんなときに、

 

「成功する人は即断即決する」

 

という言葉を使って自分を追い立てる必要はないと思うのです。

 

「今日は決められないから、今日は決めない」

 

これだって、一つの決断です。

 

「今日までに決めなければ、この機会はなくなります」

 

と言われたときに、

 

「それなら今回は見送ります」

 

と決めることだってできます。

 

大切なのは、

 

決断の速さではなく、自分が納得して決めているかどうか。

 

なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「そこまでではない」も、大切な答え


 

私が今回とても大切だと思ったのは、

 

「そこまでではない」

 

という感覚です。

 

やってみたい。

 

でも借金してまでではない。

 

興味はある。

 

でも今ではない。

 

欲しい。

 

でもその金額では選ばない。

 

魅力的だと思う。

 

でもリスクを引き受けてまで欲しいわけではない。

 

これは優柔不断なのではなく、

 

自分の気持ちの濃淡を感じ取っている

 

ということなのだと思います。

 

すべてが、

 

「絶対YES!」

 

か、

 

「絶対NO!」

 

である必要はありません。

 

30%くらい興味があることもある。

 

70%くらいやってみたいこともある。

 

「お金に余裕があったらやってみたい」ということもある。

 

それも全部、自分の本当の感覚です。

 

その微妙な感覚を、

 

「成功する人ならやる」

 

という誰かの強い言葉で上書きしなくていい。

 

 

 

 

 

 

その人が「何をしたか」だけを真似しない


 

成功した人の体験談を聞くとき、私たちはつい、

 

「その人が何をしたのか」

 

に注目してしまいます。

 

借金して飛び込んだ。

 

会社を辞めた。

 

即決した。

 

大きなリスクを取った。

 

知らない土地へ行った。

 

でも、本当に大切なのは、その行動だけではないのかもしれません。

 

その人は、なぜそれを選んだのか。

 

そこまで見てみる。

 

もしかすると、その人には、

 

「どうしてもこれをやりたい」

 

という、とても強い気持ちがあったのかもしれない。

 

だとしたら、その人の人生から受け取るものは、

 

「成功したければ借金しなさい」

 

ではなく、

 

「その人は、自分が本当にやりたかったことを自分で選んだ」

 

ということなのかもしれません。

 

それなら私たちが真似するべきなのは、表面的な行動ではありません。

 

その人と同じ選択をすることでもありません。

 

むしろ、

 

「では、私はどうしたい?」

 

と自分に戻ってくることなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かのYESで、自分のNOを上書きしない


誰かにとって、

 

「借金してでもやりたい」

 

が本当のYESなら、それはその人の答えです。

 

でも私にとって、

 

「借金してまではやりたくない」

 

が本当の気持ちなら、それが私の答えです。

 

そこに優劣はありません。

 

勇気がある、ないでもありません。

 

成功者だから正しい。

 

迷っているから間違っている。

 

そんなことでもない。

 

その人には、その人の人生があります。

 

私には、私の人生があります。

 

だから私は、

 

誰かのYESで、自分のNOを上書きしない。

 

これを大切にしたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

人生の決定権を、自分に戻す


 

経験豊富な人から話を聞くことはできます。

 

専門家から知識を教えてもらうこともできます。

 

成功した人から、その人がうまくいった方法を聞くこともできます。

 

それらは、とてもありがたい情報です。

 

でも、それはあくまでも、

 

自分が決めるための材料

 

なのだと思います。

 

その人が、私の人生の答えを持っているわけではありません。

 

最終的に、

 

「私はどうしたいのか」

 

を決められるのは、自分だけです。

 

そして、その答えがすぐに分からないことだってあります。

 

そんなときには、

 

「今は分からない」

 

でもいい。

 

「私は迷っている」

 

でもいい。

 

分からない自分を追い立てて、誰かの答えを借りてこなくてもいい。

 

私は私の声が聞こえてくるまで、私と一緒にいる。

 

それも、自分との信頼関係なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の人生の操縦席には、自分が座る


 

誰かから地図をもらうことはできます。

 

「私はこの道を通って、ここへたどり着いたよ」

 

と教えてもらうこともできます。

 

その地図が、とても参考になることもあるでしょう。

 

でも、その人と私では、出発地点も違えば、行きたい場所も違います。

 

持っているものも、背負えるリスクも、価値観も違います。

 

だから最後にハンドルを握るのは、自分です。

 

右へ行くのか。

 

左へ行くのか。

 

今日は進まないのか。

 

少し戻るのか。

 

それを決める席は、誰にも渡さなくていい。

 

大切なのは、

 

「早く決められる私」になることではなく、

 

「自分の声を聞いて、自分で決められる私」でいること。

 

チャンスを逃さないことよりも、

 

自分自身を置き去りにしないこと。

 

誰かの人生の正解を生きるのではなく、

 

自分の人生を、自分で選んでいくこと。

 

今日ずっと感じていたモヤッとしたものを言葉にしてみて、私は改めてそう思いました。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



人に会わなくてもいい時期があっていい——私の「小さな鎖国時代」


 

「人とのご縁を大切にしましょう」

 

「人に会うことで、新しいご縁やチャンスが生まれます」

 

「家に閉じこもっていないで、外に出ましょう」

 

そんな言葉を、これまで何度も聞いてきました。

 

確かに、人との出会いから新しい世界が広がることはあります。

 

人からご縁をいただくこともあれば、知らなかったことを教えてもらったり、新しい刺激を受けたりすることもあります。

 

私自身、人との出会いや交流からいただいたものはたくさんあります。

 

でも今日、ふと思ったことがありました。

 

人が運んでくるものは、「良いご縁」だけではないんですよね。

 

人と関われば、その人の考え方や価値観、情報、感情、期待など、いろいろなものが自分の世界に入ってきます。

 

もちろん自分自身も、相手の世界に何かを運んでいる存在です。

 

そう考えると、

 

「人に会えば会うほどいい」

「外に出れば出るほどいい」

 

とは、必ずしも言えないのではないかと思ったのです。

 

 

 

 

 

 

ご縁を求めて、意味もなく出かけていた頃


 

以前の私は、

 

「外に出たほうがいい」

「人に会ったほうがいい」

「そうすれば何か新しいご縁があるかもしれない」

 

という言葉を聞いて、特に目的もないのに出かけたことが何度かありました。

 

その頃は、自分でも気づいていなかったけれど、どこかに期待があったんです。

 

出かければ、何かいいことがあるかもしれない。

 

素敵なご縁があるかもしれない。

 

新しい情報が入ってくるかもしれない。

 

でも今振り返ってみると、そこには期待だけではなく、恐れもあったように思います。

 

「動かなかったら、何かを逃してしまうのではないか」

 

「置いていかれるのではないか」

 

「運のいい人になれないのではないか」

 

「人生の波に乗れなくなってしまうのではないか」

 

だから私は、「出かけたいから出かける」のではなく、

 

何かを逃さないために出かけていた。

 

そんなところがあったのだと思います。

 

そして不思議なことに、そうやって無理に出かけたときに、特別印象に残るようなご縁や出来事があったかというと、私の場合はそうではありませんでした。

 

 

 

 

 

 

今の私は、ちょっとした「鎖国時代」


 

今の私は、以前とは反対に、必要最低限の人との交流をしながら、かなり静かに過ごしています。

 

もちろん仕事などで必要なお声掛けをいただいたときには、可能な限り喜んでお応えしています。

 

人との交流を拒絶しているわけでもありません。

 

でも、自分から積極的に人に会いに行ったり、人脈を広げようとしたりはしていません。

 

私は今のこの時期を、ちょっと面白く、

 

「私の鎖国時代」

 

と呼びたくなりました。

 

歴史上の日本の「鎖国」も、外国との交流を完全にゼロにしていたわけではありません。

 

江戸幕府の対外関係が制限された1630年代以降も、長崎を通じたオランダ・中国との交易、対馬藩を通じた朝鮮との関係、薩摩藩を介した琉球との関係、松前藩を通じたアイヌとの交易など、限られた窓口を通じて外との関係は続いていました。

 

私も今、そんな感じなのかもしれません。

 

すべてを閉ざしたいわけではない。

 

必要な交流はある。

 

でも、むやみに外から何かを入れようとはしていない。

 

なぜなら今の私は、

 

自分のことをもっと知りたいから。

 

そして、自分自身と過ごすこの時間が、今の私にとって本当に心地よい。

 

むしろ、至福の時間だと感じているからです。

 

 

 

 

 

 

人に会う時間だけでなく、自分に会う時間もある

 

 

人に会えば、刺激があります。

 

情報も入ってきます。

 

相手の価値観にも触れます。

 

それはとても豊かなことでもあります。

 

でも、人に会うことも、SNSを見ることも、本を読むことも、ある意味では「外から何かを入れる時間」なのだと思います。

 

そして最近、私はこんなことを感じるようになりました。

 

入れる時間と、生まれる時間は違う。

 

外から入ってくるものを少し減らしてみる。

 

人の声を少し減らしてみる。

 

すると、その余白から今まで聞こえなかった自分の声が聞こえてくることがあります。

 

「私はこれが嫌だったんだ」

 

「私はこういうものが好きなんだ」

 

「本当はこんなことをしてみたい」

 

「私はこういう世界を作りたい」

 

外から何かを入れているときには聞こえなかったものが、静かな時間の中から少しずつ生まれてくる。

 

だから、人に会う時間と同じくらい、

 

自分に会う時間も大切なのだと思います。






 

「行きたくない」も、大切な自分の声


 

以前の私は、自分以外の誰かが言ったことを、自分の感覚より正しいもののように感じることがありました。

 

特に知識や経験が豊富な人、肩書きのある人、何かの分野で結果を出している人の言葉には、

 

「きっと、この人の言っていることが正しいんだ」

 

と思いやすかったように思います。

 

今振り返ると、それは自分自身の声よりも、外の声を聞くことに意識が向いていたからなのかもしれません。

 

自分とのつながりや、自己信頼がまだ弱かった。

 

だから外の声の影響を受けやすかったのだと思います。

 

でも本来、人はもっと単純なところもあります。

 

眠ければ眠りたい。

 

食べたければ食べたい。

 

好きなら好き。

 

行きたいなら行きたい。

 

行きたくないなら行きたくない。

 

もちろん社会生活をしていれば、行きたくなくても行かなければならない場所や、やりたくなくてもやる必要のあることもあります。

 

でも、少なくとも自分で自由に選べる日常の中では、

 

「私はどうしたい?」

 

をもっと大切にしていいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

自分の声を、聞き捨てにしない


 

「本当は家にいたい」

 

と思っているのに、

 

「外に出なきゃ運を逃すよ」

 

という外の声を優先して出かける。

 

「私はこれは選びたくない」

 

と思っているのに、

 

「みんなやっているから」

 

と選んでしまう。

 

一つ一つは小さなことに見えるかもしれません。

 

でも、自分にとっては決して小さなことではありません。

 

それを繰り返すことは、

 

「私はこうしたい」

 

という自分の声より、

 

「外の誰かがこう言っている」

 

という声を優先し続けることでもあります。

 

反対に、

 

「今日は家にいたい」

 

「そうなんだね。じゃあ今日は家にいよう」

 

「これは嫌だな」

 

「そうなんだね。じゃあ選ばなくていいよ」

 

と、自分の声を聞いてあげる。

 

私は、こういう小さな積み重ねが、自分との信頼関係を作っていくのだと思います。

 

そして、どうしてもその希望を叶えてあげられないときには、

 

「本当は行きたくないよね。でも今日は仕事だから行く必要があるんだ」

 

と、自分に話しかけてあげればいい。

 

すべての願いを叶えられなくてもいい。

 

でも、

 

自分の声を、なかったことにしない。

 

それがとても大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

今は、自分という国の文化を育てている


 

私は今、人とのご縁を広げることより、自分とのご縁を深めたいと思っています。

 

人に会わないから人生が止まっているわけではありません。

 

外から見れば何も起きていないような静かな時間の中で、むしろ私は、自分自身についてたくさんのことを発見しています。

 

何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何をしたいのか。

 

どんな世界を作りたいのか。

 

どんなふうに生きたいのか。

 

今の「小さな鎖国時代」は、外との関係を拒絶する時間ではなく、

 

自分という国の文化を育てる時間

 

なのかもしれません。

 

そして、また外へ出たくなったら、そのとき出ればいい。

 

誰かに会いたくなったら、会えばいい。

 

「人に会ったほうがいいから会う」のではなく、

 

「私はこの人に会いたいから会う」。

 

「外に出れば何かあるかもしれないから出る」のではなく、

 

「私は今日ここへ行ってみたいから行く」。

 

そんなふうに、自分の感覚から選んでいきたい。

 

ご縁をつかむために、自分を置き去りにするのではなく。

 

まずは、自分自身とのご縁を大切にする。

 

今の私にとって、この静かな時間は何かが足りない時間ではありません。

 

自分自身と一緒にいられる、とても豊かで、至福の時間なのです。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション





「ちゃんとできるようになってから」を待たなくていい


 

前回、自分を知ることと、自分を固定することは違う、ということについて書きました。

 

「私は三日坊主だから」

 

「私は飽き性だから」

 

「今までやったことがないから」

 

過去の出来事から自分にラベルを貼り、そのラベルで未来の自分まで決めなくていい。

 

今、

 

「面白そう」

 

「やってみたい」

 

と思ったなら、とりあえずやってみてもいい。

 

そんなことを考えていました。

 

すると、また一つ、自分の中にあるものに気づきました。

 

私はどうやら、

 

「人前でやるなら、ちゃんとできるようになってから」

 

と思っているところがあるようなのです。

 

 

 

 

 

 

「面白そう」のあとに、審査が始まる


 

たとえば何かを見て、

 

「これ面白そう!」

 

と思う。

 

「ライブでちょっとやってみようかな」

 

「このテーマで動画を撮ってみようかな」

 

そんな気持ちがふっと湧いてくる。

 

でも、その直後、

 

「でも、この世界にはプロの人がいるし……」

 

「詳しい人から見たら、ど素人がやっていると思われるんじゃないかな」

 

「ダメ出しされたらどうしよう」

 

「もう少しちゃんとできるようになってからのほうがいいかな」

 

という考えが出てくることがあります。

 

せっかく、

 

「面白そう!」

 

と小さな火がついたのに、自分で審査を始めてしまうのです。

 

そして審査に合格するまで、始めることを許可しない。

 

でも、考えてみたら不思議です。

 

私はいつから、

 

何かを楽しむために、プロになる必要がある

 

と思うようになったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

専門家として教えることと、初心者としてやってみることは違う


 

もちろん、専門性が必要な領域はあります。

 

医療や法律、安全に関わること、資格が必要なことなどを、十分な知識もなく専門家のように扱っていいという話ではありません。

 

また、誰かに何かを「教える」「指導する」となれば、その内容に応じた知識や責任も必要でしょう。

 

でも、

 

興味を持った一人の人として、自分でやってみること

 

とは別です。

 

たとえばASMRを見て、

 

「なんか面白そう。私もやってみたい」

 

と思った。

 

だったら、

 

「初めてだけど、ちょっとやってみました」

 

でもいい。

 

それは、

 

「私はASMRの専門家です」

 

と言っているわけではありません。

 

ただ、

 

面白そうだから、やってみた人。

 

それでいいんですよね。

 

 

 

 

 

 

「素人」は現在地であって、禁止札ではない


 

私はここで、自分に「素人」というラベルを貼っていたことにも気づきました。

 

「私は素人だから」

 

そして、その後に無意識に、

 

「人前でやってはいけない」

 

「動画にしてはいけない」

 

「もっと上手になってからでなければ」

 

という意味までつけていた。

 

でも、

 

「やったことがない」

 

ということと、

 

「やってはいけない」

 

は全然違います。

 

「この分野について、今の私はほとんど経験がない」

 

なら、それはただの現在地です。

 

前回の記事で、

 

「3日でやめた」は出来事。

 

「私は三日坊主」は人格のラベル。

 

と書きました。

 

それと同じです。

 

「まだ経験がない」は事実。

 

でも、

 

「だから私は人前でやってはいけない」

 

は、自分で作ったルールです。

 

だったら、

 

「やったことない。じゃあ、初めてやってみよう」

 

でもいいのです。

 

 

 

 

 

 

プロを、自分の参加資格を決める審査員にしなくていい


 

「この世界のプロから見たら、どう思われるだろう」

 

そんなことを考えることもあります。

 

でも実際にその人がどう思うのかは、確認できません。

 

「初心者なのに」と思う人もいるかもしれない。

 

「楽しそうでいいね」と思う人もいるかもしれない。

 

何とも思わないかもしれない。

 

そもそも、見ないかもしれない。

 

分からないことです。

 

それなのに、頭の中でその人を審査員にして、

 

「この人からOKをもらえるくらいにならないと、私はやってはいけない」

 

というルールを作ってしまったら、自分の世界がどんどん狭くなってしまいます。

 

プロは、その世界について多くの経験を積んできた人。

 

でも、

 

その人が上手だからといって、私が初心者として楽しむ権利が減るわけではありません。

 

ここでも、以前書いた言葉につながります。

 

刺激や感動は持って帰る。

でも、順位表は持って帰らない。

 

「あの人、すごいな!」

 

それでいい。

 

「だから私はやってはいけない」

 

まで持って帰らなくていいのです。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんとできるようになってから」では、いつまでも始まらないことがある


 

そして、ここでもう一つ気づきました。

 

「ちゃんとできるようになってから始めよう」

 

という言葉には、少し不思議なところがあります。

 

なぜなら、

 

やらなければ、できるようにならないからです。

 

最初は分からない。

 

やってみる。

 

「あれ?」

 

となる。

 

またやってみる。

 

「こうするといいのかな」

 

と気づく。

 

もう一度やってみる。

 

「私はこういうやり方が好きだな」

 

と分かってくる。

 

そうやって少しずつ、自分なりのものができていく。

 

だから、

 

「ちゃんとできる私になってから、やる」

 

ではなく、

 

「やりながら、できるようになっていく」

 

でもいいのだと思います。

 

そして、別にできる人にまでならなくてもいい。

 

3回やって、

 

「楽しかった! もう満足!」

 

でもいい。

 

 

 

 

 

 

「これさえ学べば、自信がつく」の繰り返し


 

このことを考えていて、私は気功やヒーリングを学んできた中でのことを思い出しました。

 

学んでいると、

 

「これを学べば、もっとちゃんとできるようになるかもしれない」

 

「これさえ身につければ、自信がつくかもしれない」

 

と思うことがあります。

 

そして学ぶ。

 

知識や技術が増える。

 

でも、しばらくすると、

 

「私はまだまだだ」

 

と思う。

 

そして、

 

「もう少し学んでから」

 

と、また新しいことを学ぶ。

 

もちろん、学ぶことそのものは素晴らしいことです。

 

知識を増やすことにも、技術を磨くことにも価値があります。

 

でも、

 

「十分な自信がつくまで実践しない」

 

という条件をつけると、いつまでもスタート地点が先へ動いていくことがあります。

 

学べば学ぶほど、知らないことが見えてくることだってあるからです。

 

「全部分かってから」

 

「十分できるようになってから」

 

を待っていたら、その日はなかなか来ないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

実践そのものが、学びになる


 

練習で身につくことは、たくさんあります。

 

でも、実際の場に出なければ分からないこともあります。

 

予想していなかった反応が返ってくる。

 

思ったように進まない。

 

いつもの方法が通用しない。

 

その場で考える必要が出てくる。

 

そして、

 

「あれ?」

 

となる。

 

考える。

 

工夫する。

 

もう一度やってみる。

 

少し分かる。

 

また新しい疑問が出る。

 

こういう経験は、実践の中だからこそ得られるものです。

 

だから学びは、

 

学ぶ → 完成する → 実践する

 

という一直線だけではなく、

 

学ぶ → やってみる → 分からないことが出る → 学ぶ → またやってみる

 

という往復でもいいのだと思います。

 

すると「学ぶ」の意味まで変わります。

 

「今の自分では足りないから学ばなければ」

 

ではなく、

 

「やってみたら、もっと知りたいことが出てきた」

 

になる。

 

私は、こちらの学び方もとても好きです。

 

 

 

 

 

 

自信がついてからやる、だけではない


 

そして、ここで「自己信頼」の話にもつながりました。

 

自信というと、

 

「私はちゃんとできる」

 

「きっとうまくいく」

 

と思えることを想像しやすいかもしれません。

 

でも、もう一つの自信があるのだと思います。

 

それは、

 

「うまくいくかは分からない。でも、どちらになっても私は大丈夫」

 

という感覚です。

 

うまくいった。

 

「やった!」

 

それでいい。

 

うまくいかなかった。

 

「なるほど。ここが分かった」

 

それもいい。

 

間違えた。

 

「じゃあ、次はこうしてみよう」

 

思った以上にグダグダになった。

 

「初めてだし、こんなこともある(笑)」

 

そしてまた考える。

 

これは、

 

「失敗しない自分への自信」ではなく、「何かあってもまた考えて進んでいける自分への信頼」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

うまくいかなかった経験も、次の一つのピースになる


 

何かをやって、うまくいかなかった。

 

以前なら、

 

「失敗した」

 

という一言で終わらせていたかもしれません。

 

でも今は、

 

次にうまくいくための一つのピースが増えた

 

とも考えられると思っています。

 

「あの方法ではうまくいかなかった」

 

ということが分かった。

 

「ここでは緊張するんだ」

 

と分かった。

 

「この準備が必要だったんだ」

 

と分かった。

 

「私はこういうやり方のほうが好きなんだ」

 

と分かった。

 

全部、実際にやったから分かったことです。

 

だから、

 

うまくできた経験だけが価値のある経験なのではありません。

 

うまくいかなかった経験も、自分の中に残る大切な一つのピースです。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんとしなければ」も、自分を固定する言葉だった


 

ここまで考えて、もう一つ気づきました。

 

「やるからには、ちゃんとしなければ」

 

「失敗してはいけない」

 

「間違ってはいけない」

 

「完璧にやらなければ」

 

こういう言葉も、自分を固定することにつながっているのかもしれません。

 

以前の記事で、

 

「私は優しい人だから、怒ってはいけない」

 

という例を書きました。

 

これと似ています。

 

「私は優しい」

 

で終わればいい。

 

優しい私だって、怒ることはあります。

 

同じように、

 

「私はこれをやってみたい」

 

で終わってもいい。

 

やってみたい私だって、失敗することはあります。

 

最初から上手にできないこともあります。

 

間違えることだってあります。

 

それなのに、

 

「やるなら、うまくできる私でなければならない」

 

という条件をつけると、まだ何もしていない自分を、先に一つの型へ入れてしまいます。

 

 

 

 

 

 

「うまくできる自分」だけをOKにしない


 

自己信頼とは、

 

「私は絶対失敗しない」

 

と信じることではないのだと思います。

 

だって、失敗することはあります。

 

間違えることもあります。

 

分からなくなることもあります。

 

それでも、

 

「そのときは、そのときの私と一緒に考えよう」

 

と思える。

 

それも自己信頼なのではないでしょうか。

 

成功する私だけを信頼するのではなく、

 

失敗するかもしれない私も、

 

戸惑う私も、

 

分からなくなる私も含めて、

 

「それでも私は大丈夫」

 

と思える。

 

そうすると、失敗の可能性があっても動けます。

 

「絶対成功するからやる」

 

ではなく、

 

「どうなるか分からないけれど、やってみよう」

 

ができるようになります。

 

 

 

 

 

 

「失敗してもいい」は、雑にやるという意味ではない


 

ここは大切にしたいところです。

 

「失敗してもいい」

 

というのは、

 

「適当にやればいい」

 

ということではありません。

 

必要な準備をする。

 

自分なりに丁寧にやる。

 

人に関わることなら、必要な責任を持つ。

 

専門性が必要なところでは、その境界を守る。

 

そのうえで、

 

結果まで完璧に支配しようとしない。

 

丁寧に取り組むことと、

 

完璧でなければならないことは違います。

 

私は、自分なりに大切にやった。

 

その結果、うまくいかなかった。

 

なら、そこからまた考えればいい。

 

それで十分なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「まだこんな自分がいた」も、また一つの自己理解


 

そして今回、

 

「まだ私の中に、こんな『ちゃんとしなきゃ』があったんだ」

 

とも思いました。

 

でも、ここでもまた同じことです。

 

「私は完璧主義な人なんだ」

 

と、新しいラベルを貼らなくてもいい。

 

ただ、

 

「こういう場面では、私は『ちゃんとしなきゃ』と思うことがあるんだな」

 

と知ればいい。

 

それも一つの自己理解です。

 

また同じものが出てきたら、

 

「あ、また出てきた」

 

と気づけばいい。

 

それを追い出す必要もない。

 

「こんな考えがまだあるなんて、私はダメ」

 

とする必要もない。

 

ここでも、

 

自分を知る。でも、自分を固定しない。

 

なんですよね。

 

 

 

 

 

 

「面白そう」から始めていい


 

結局、また最初のところへ戻ってきます。

 

「これ、面白そう」

 

と思った。

 

だったら、やってみる。

 

うまくいったら嬉しい。

 

うまくいかなかったら、何か一つ分かる。

 

思っていたのと違ったら、やめてもいい。

 

すごく好きになったら、もっとやればいい。

 

そしてもっと知りたくなったら、そのとき学べばいい。

 

始める前から、

 

「これは将来何になる?」

 

「仕事になる?」

 

「プロになれる?」

 

「続けられる?」

 

「ちゃんとできる?」

 

と、未来の自分を審査しなくてもいい。

 

今日の私は、これを面白がってみたい。

 

それだけで始めてもいい。

 

 

 

 

 

 

自分を固定しないということは、体験の結末も固定しないこと


 

今回、私にとって新しく見えてきたのはここでした。

 

自分を固定しないというのは、

 

「私は○○な人」

 

と人格を決めつけないことだけではない。

 

「こういう結果にならなければならない」

 

と、これから起こる体験の結末まで固定しないことでもあるのだと思います。

 

成功してもいい。

 

失敗してもいい。

 

続いてもいい。

 

やめてもいい。

 

夢中になってもいい。

 

「なんだこりゃ(笑)」で終わってもいい。

 

結果を決めてから人生を体験するのではなく、

 

体験してから、自分が何を感じるのかを知る。

 

そのほうが、私は面白いと思います。

 

 

 

 

 

 

自己信頼とは、「何があっても自分と一緒にいられること」なのかもしれない


 

ここまで考えて、私にとっての自己信頼というものが、また少し見えてきたように思います。

 

「私は必ず正しくできる」

 

でもない。

 

「私は絶対に失敗しない」

 

でもない。

 

「私はいつでも自信がある」

 

でもない。

 

うまくいくこともある。

 

うまくいかないこともある。

 

間違えることもある。

 

不安になることもある。

 

途中で考えが変わることもある。

 

それでも、

 

そのときの自分と一緒に考えて、また次を選んでいける。

 

それを信じられること。

 

もしかすると、それが私にとっての自己信頼なのかもしれません。

 

失敗しないから、自分を信じられるのではない。

 

失敗した自分とも一緒にいられるから、やってみることができる。

 

だから、新しいものに手を伸ばせる。

 

だから、「面白そう」を追いかけられる。

 

だから、まだ知らない自分に出会える。

 

 

 

 

 

 

 

結局、また自分のところへ戻ってきた



 

嫉妬について考えるところから始まった今回の一連の話。

 

人と比べること。

 

外側からの評価。

 

自己価値。

 

年齢や性別、肩書きというカテゴリー。

 

「私は○○な人」という自己イメージ。

 

三日坊主。

 

何者かにならなくてもいいということ。

 

そして、

 

「ちゃんとできるようになってから」

 

「失敗してはいけない」

 

という思い。

 

一見すると、どんどん違う話へ進んでいるように見えました。

 

でも振り返ると、全部が同じところにつながっているように感じます。

 

外側の物差しで、自分を決めない。


過去の自分で、今の自分を決めない。


結果によって、自分の価値を決めない。

 

そして、

 

そのとき、そのときの自分と一緒に生きていく。

 

うまくできてもいい。

 

うまくできなくてもいい。

 

笑ってもいい。

 

怒ってもいい。

 

不安になってもいい。

 

夢中になってもいい。

 

飽きてもいい。

 

やってみて、

 

「違った!」

 

でもいい。

 

その全部を体験しながら、

 

「じゃあ、今の私はどうしたい?」

 

とまた自分に戻ってくる。

 

人生を完璧に進めることより、

 

その都度、自分とつながりながら次を選んでいくこと。

 

それができるなら、失敗することも、間違えることも、もう人生から排除しなくていいのかもしれません。

 

失敗しない人生より、

 

失敗しても、自分を置いていかない人生。

 

私は、そんなふうに自分と一緒に歩いていきたいと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



自分を知ることと、自分を決めつけることは違う


 

これまで、人を一つの物差しで測らないことについて考えてきました。

 

年齢。

 

性別。

 

学歴。

 

職業。

 

出身地。

 

それらは、その人について知る一つの情報ではあるけれど、その人そのものではありません。

 

だから私は、

 

「○歳だから」

 

「男性だから、女性だから」

 

「○○大学卒だから」

 

「この仕事をしているから」

 

というカテゴリーから人を決めるのではなく、

 

「この人は、どんな人なんだろう?」

 

と、その人自身を見ていきたいと思っています。

 

でも、ここまで考えたところで、もう一つ大切なことに気づきました。

 

それは、

 

他人だけではなく、自分自身のこともカテゴリーに入れなくていい

 

ということです。

 

そして、これは年齢や性別だけの話ではありません。

 

私たちは、ときに自分自身の過去の経験から、

 

「私はこういう人」

 

というラベルを作ってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「私は○○な人」という自己イメージ


 

たとえば、

 

「私は飽き性だから」

 

「私は三日坊主だから」

 

「私は何をやっても続かないから」

 

そんなふうに、自分について思うことがあります。

 

私自身も、以前はそんなふうに思っていたことがありました。

 

何かを始めても長く続かなかった。

 

途中で興味がなくなった。

 

そんな経験が何度かあると、

 

「私は飽き性なんだ」

 

「私は三日坊主なんだ」

 

と、自分自身を説明する言葉になっていきます。

 

でも今考えてみると、

 

「3日でやめた」という出来事と、「私は三日坊主な人」という自己定義は、まったく同じではありません。

 

3日でやめた。

 

これは出来事です。

 

でも、

 

「だから私は三日坊主な人間だ」

 

となった瞬間、その出来事が人格のラベルになります。

 

 

 

 

 

 

出来事を、人格のラベルに変換しなくていい


 

これは、とても大切なことだと思います。

 

たとえば以前、何かを3日でやめたとします。

 

それは、

 

「そのとき、そのことを3日でやめた」

 

という事実です。

 

でも、そこから、

 

「私は続けられない人」

 

と決める必要はありません。

 

なぜなら、それは過去についての出来事であって、未来についての答えではないからです。

 

ところが、

 

「私は三日坊主」

 

というラベルを自分につけてしまうと、次に何か面白そうなものを見つけたとき、

 

「やってみたい!」

 

とワクワクした直後に、

 

「でも私、三日坊主だからな」

 

「どうせまた続かないだろうな」

 

という言葉が出てくることがあります。

 

まだ始めてもいないのに。

 

前回の出来事から作った自己イメージによって、これから起こることまで予測してしまう。

 

せっかく小さな火が灯ったのに、

 

自分でその火を消してしまう。

 

それは、とてももったいないことだと思います。

 

 

 

 

 

 

「やったことがない」も未来の答えではない


 

同じように、

 

「今までやったことがないから」

 

という言葉もあります。

 

確かに、今までやったことがない。

 

それは事実です。

 

でも、それが意味しているのは、

 

「今日まで経験していない」

 

ということだけです。

 

「今までやったことがない」

 

と、

 

「これからもやらない」

 

は違います。

 

「今まで経験していない」

 

と、

 

「私には向いていない」

 

も違います。

 

今までやったことがなくても、

 

「なんか面白そう」

 

と思ったなら、やってみてもいい。

 

むしろ、やったことがないからこそ、

 

まだ知らない自分に出会えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、やってみればいい


 

最近私は、何かに興味を持ったとき、

 

「続けられるかな?」

 

を最初に考えなくてもいいと思っています。

 

まず、

 

「やりたい」

 

と思った。

 

それなら、とりあえずやってみる。

 

やってみて面白かったら、またやる。

 

もっと知りたくなったら、学ぶ。

 

夢中になったら、夢中になればいい。

 

気づいたら半年、1年、10年と続いていることだってあるかもしれません。

 

反対に、やってみたら、

 

「あれ? 思っていたのと違う」

 

となることもある。

 

「これは私の好みじゃなかったな」

 

「もう十分かな」

 

と思うこともある。

 

だったら、やめてもいい。

 

それは失敗なのでしょうか。

 

私は、そうは思いません。

 

やってみたからこそ、

 

「これは今の私が求めているものではなかった」

 

と分かったのです。

 

それも、自分について知ったことの一つです。

 

 

 

 

 

 

続けることには価値がある。でも、続けられる人のほうが価値があるわけではない


 

もちろん、継続することには価値があります。

 

何年も続けることでしか身につかない技術もあるでしょう。

 

長く続けたからこそ見える世界もあります。

 

だから、

 

「継続なんて意味がない」

 

という話ではありません。

 

続けることには、続けることの価値がある。

 

でも、

 

「続けられる人のほうが、人として価値がある」

 

とは思いません。

 

ここは、まったく別の話です。

 

10年間続けた。

 

素晴らしい。

 

3日でやめた。

 

そうだったんだね。

 

それだけでいい。

 

「10年間続けたから、私は価値がある」

 

「3日でやめたから、私はダメ」

 

と、自分自身の価値までそこへ乗せなくていいのです。

 

これは、これまで考えてきた、

 

「評価と自己価値を切り離す」

 

ということと同じです。

 

続けたか。

 

続かなかったか。

 

それは一つの結果。

 

でも、自分の価値を測る採点結果ではありません。

 

 

 

 

 

 

「今の私は、まだこれをやりたい?」

 

私は、何日続いたかよりも、

 

「今の私は、まだこれをやりたい?」

 

ということのほうを大切にしたいと思います。

 

やりたい。

 

だったら続ける。

 

もういいかな。

 

だったらやめる。

 

分からない。

 

だったら少し休んでもいい。

 

そして、一度やめたことを半年後に、

 

「やっぱりまたやりたい」

 

と思ったら、また始めてもいい。

 

一度やめたら、二度と戻ってはいけないわけでもありません。

 

自分の気持ちは変わります。

 

興味も変わります。

 

それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自己理解は、自分を固定することではない

 

 

私は、自分を知ることはとても大切だと思っています。

 

私は何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何を心地よいと感じるのか。

 

何を大切にしたいのか。

 

どんなことに心が動くのか。

 

そうやって自分自身を知っていく。

 

でも、

 

自己理解と自己固定は違います。

 

「私はこれが好き」

 

と知ることと、

 

「私はこれを好きでいなければならない」

 

は違います。

 

今、大好きでもいい。

 

そして数年後、興味がなくなってもいい。

 

「昔の私は大好きだった。でも今は違うみたい」

 

それだけです。

 

昨日まで興味がなかったことに、今日突然惹かれてもいい。

 

「へえ、今の私、こんなものに興味を持つんだ」

 

と、新しい自分を知ればいい。

 

自己理解とは、

 

完成した自分の取扱説明書を作ることではなく、変化していく自分と、その都度出会い直すこと

 

なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

プラスのラベルなら、楽しく使えばいい


 

では、

 

「私は魅力的」

 

「私は優しい」

 

「私は明るい」

 

という、肯定的な自己イメージはどうでしょう。

 

私は、こういうものは楽しく持っていていいと思っています。

 

「私って魅力的」

 

うふふ。

 

それで終わり(笑)。

 

「私って優しいな」

 

それで終わり。

 

自分でそう思って、ちょっと嬉しくなったり、ニヤニヤしたり、気分が上がったりする。

 

そのくらいラフでいいと思います。

 

問題になるとしたら、その後に、

 

「だから○○しなければならない」

 

がついたときです。

 

 

 

 

 

 

「私は優しい。だから怒ってはいけない」は、もう別のもの


 

「私は優しい」

 

で終わればいい。

 

でも、

 

「私は優しい人だから、怒ってはいけない」

 

となったらどうでしょう。

 

「私は明るい人だから、落ち込んではいけない」

 

「私は自信のある人だから、不安になってはいけない」

 

「私は強い人だから、弱音を吐いてはいけない」

 

そうなった瞬間、もともとは自分を肯定するための言葉だったものが、

 

自分を縛るルール

 

に変わってしまいます。

 

優しい人だって怒ります。

 

明るい人だって落ち込みます。

 

自信がある人だって不安になります。

 

魅力的な人だって、変顔くらいします(笑)。

 

それで魅力がなくなるわけではありません。

 

人間には、いろいろな面があります。

 

一つの言葉だけで、その人全部を説明することなんてできないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「自分らしさ」のために、本当の自分を追い出さない


 

これは考えてみると、とても不思議なことです。

 

「私は明るい人」

 

という自分らしさを守るために、

 

今、本当に悲しんでいる自分へ、

 

「悲しんではいけない」

 

と言う。

 

「私は優しい人」

 

という自分らしさを守るために、

 

今、本当に怒っている自分へ、

 

「怒ってはいけない」

 

と言う。

 

それでは、

 

「自分らしさ」を守るために、今ここにいる自分を否定する

 

という逆転が起きてしまいます。

 

私は、それは少し違うと思います。

 

悲しいなら、悲しい。

 

怒っているなら、怒っている。

 

今日は自信がないなら、

 

「今日はちょっと不安なんだな」

 

でいい。

 

それも全部、自分です。

 

 

 

 

 

 

自分らしさは、固定されたキャラクターではない


 

もしかすると、自分らしさとは、

 

「私は明るくて、優しくて、前向きで……」

 

という固定されたキャラクターではないのかもしれません。

 

楽しい私。

 

悲しい私。

 

怒っている私。

 

自信のある私。

 

不安な私。

 

何かに夢中な私。

 

急に飽きた私。

 

10年続けた私。

 

3日でやめた私。

 

全部、自分です。

 

そのたびに、

 

「だから私は○○な人」

 

と結論を出さなくてもいい。

 

ただ、

 

「今の私は、そうなんだね」

 

と知る。

 

それでいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

何者かにならなくても、やっていい


 

そして、ここからもう一つ思うことがあります。

 

何かをするために、

 

「何者か」にならなくてもいい。

 

絵を描きたいなら、描けばいい。

 

「アーティスト」にならなくてもいい。

 

踊りたいなら、踊ればいい。

 

「ダンサー」と名乗らなくてもいい。

 

文章を書きたいなら、書けばいい。

 

何かを学びたいなら、学べばいい。

 

もちろん、仕事上必要な肩書きを使うこともあるでしょう。

 

自分が気に入っている肩書きを名乗るのもいい。

 

でも、

 

肩書きは、行動するための許可証ではありません。

 

「私は○○な人だから、これをしていい」

 

ではなく、

 

「やりたいから、やってみる」

 

でいい。

 

ただ何かをやっている。

 

ただ楽しんでいる。

 

それだけでも十分なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

過去の自分にも、今の自分を決めてもらわなくていい


 

ここまで考えてくると、以前の記事からずっと続いてきた話が、また一つにつながりました。

 

他人の物差しで、自分を測らなくていい。

 

自分の物差しで、他人を決めなくていい。

 

年齢や性別や肩書きで、自分を決めなくていい。

 

そして、

 

過去の自分から作った物差しで、今の自分を決めなくてもいい。

 

「昔の私はこうだった」

 

それは事実。

 

でも、

 

「だから今の私もこう」

 

とは限りません。

 

「今までやったことがない」

 

それも事実。

 

でも、

 

「だからこれからもやらない」

 

とは限りません。

 

過去は、自分について知るための大切な情報です。

 

でも、

 

過去は、未来の自分についての決定書ではありません。

 

 

 

 

 

 

自分を知りながら、自分を固定しない


 

結局、最後はまた自分のところへ戻ってきました。

 

私は何が好き?

 

私は今、何に興味がある?

 

私はこれをまだやりたい?

 

もう十分?

 

ちょっと休みたい?

 

またやってみたい?

 

その都度、自分に聞いてみる。

 

昨日と答えが違ってもいい。

 

一年前と違ってもいい。

 

途中でやめてもいい。

 

また始めてもいい。

 

新しいことに夢中になってもいい。

 

自分を知る。

でも、自分を決めつけない。

 

自分を理解する。

 

でも、自分を型にはめない。

 

自分を肯定する。

 

でも、その肯定さえ「こうでなければならない」という義務にしない。

 

そして、

 

「これ、やってみたい!」

 

と思うものが現れたら、

 

過去の自分に審査してもらわずに、とりあえずやってみる。

 

その先で、

 

まだ自分でも知らなかった自分に出会うかもしれません。

 

自分と仲良くなるということは、

 

「私はこういう人です」

 

と自分を完成させることではなく、

 

変わっていく自分と、その都度また仲良くなっていくこと

 

なのかもしれません。

 

今日の私は、今日の私。

 

明日はまた、少し違う私かもしれない。

 

それを楽しみながら生きていけたら、人生にはまだまだ、自分でも知らない自分と出会える余白がたくさん残っているのだと思います。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



年齢や肩書きではなく、「その人」を見る


 

前回、自分の価値を外側の評価に決めてもらわないことについて書きました。

 

賞を取った。

 

いい学校に入った。

 

仕事で評価された。

 

役職を任された。

 

誰かから褒められた。

 

それらは、それぞれ嬉しい出来事です。

 

喜びは自分の中へ持って帰っていい。

 

でも、

 

他人との順位表まで、自分の内側へ持って帰らなくていい。

 

そんなことを考えていました。

 

すると今度は、「年齢」について思うことが出てきました。

 

そしてさらに考えていくと、これは年齢だけの話ではありませんでした。

 

男性だから。

 

女性だから。

 

○○大学卒だから。

 

この仕事をしているから。

 

○○出身だから。

 

私たちは知らないうちに、いろいろな「属性」を通して人を見ていることがあります。

 

でも、その属性を知ることと、

 

その人を知ることは、本当に同じなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

年齢は、生まれてきたタイミングの違い


 

私はもともと、人の年齢にあまり興味がありません。

 

年齢って、とてもシンプルに考えれば、

 

生まれてきたタイミングの違い

 

だと思っているからです。

 

誰もが同じように一年ずつ年齢を重ねていく。

 

ただ、そのスタートした時期が違う。

 

それだけなんですよね。

 

もちろん、生きてきた年月が違えば、経験できた時代や時間の長さには違いがあります。

 

でも、

 

「若いから価値が高い」

 

とも思わないし、

 

「長く生きているから人として優れている」

 

とも思いません。

 

年齢は、その人についての一つの情報。

 

それ以上でも、それ以下でもない。

 

私はそんなふうに感じています。

 

 

 

 

 

 

「何歳ですか?」という質問が、私は少し苦手


 

これは私個人の経験ですが、私は出会って間もない人から、

 

「何歳ですか?」

 

と聞かれることがこれまで何度もありました。

 

もちろん、年齢を聞くこと自体が悪いとは思いません。

 

仕事や医療など、年齢という情報が必要な場面もあります。

 

また、単純に年齢が気になるという人もいるでしょう。

 

ただ私自身は、プライベートな場面で年齢を聞かれることを、あまり心地よく感じません。

 

なぜなら、これまでの私自身の経験では、年齢を答えたあと、

 

「えっ、見えない!」

 

「若いね!」

 

「○歳くらいだと思った!」

 

というように、実年齢と見た目年齢を比較する話になることがとても多かったからです。

 

もちろん、その人は褒め言葉として言っているのかもしれません。

 

でも私は、「若く見える」と言われたいわけではありません。

 

だから、それを言われても特別嬉しいとは感じないのです。

 

むしろそこから会話の中心が、

 

「私がどんな人なのか」ではなく、「私は何歳に見えるのか」

 

になってしまうことのほうが、私は少し残念に感じます。

 

 

 

 

 

 

「若く見える」が褒め言葉になるとは限らない


 

「若く見えるね」

 

という言葉を嬉しいと感じる人もいると思います。

 

それなら、素直に喜んでいいと思います。

 

でも、すべての人にとって「若く見えること」が価値なのではありません。

 

これは前回書いた、

 

評価と自己価値を切り離す

 

という話にもつながっています。

 

若く見えると言われた。

 

嬉しいなら、嬉しいでいい。

 

でも、

 

「実年齢より若く見える=価値が高い」

 

「年齢相応に見える=普通」

 

「実年齢より上に見える=価値が低い」

 

という順位表まで、自分の内側へ持ち込む必要はありません。

 

ここでも、

 

喜びは持って帰る。

でも、順位表は持って帰らない。

 

でいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

年齢が分からなくても、会話はできる


 

「年齢が分かったほうが、話題を振りやすい」

 

という考え方もあると思います。

 

でも私は、年齢を知らなくてもいいと思っています。

 

たとえば音楽について話していて、

 

「この曲、知っていますか?」

 

と聞けばいい。

 

「知ってる!」

 

なら、そこから話せばいい。

 

「知らない」

 

なら、それもまた会話になります。

 

若いから昔の音楽を知らないとは限りません。

 

親の影響で昔の曲をたくさん知っている人もいるでしょう。

 

反対に、ある時代を実際に生きていても、その頃流行していたものにまったく興味がなかった人もいます。

 

本も、映画も、アニメも、スポーツも、歴史も同じです。

 

年齢から「知っているはず」「知らないはず」と予測するより、本人に聞けばいい。

 

私はそのほうがシンプルだと思います。

 

 

 

 

 

 

「○歳の人」ではなく、「この人」を知りたい


 

私が人について興味を持つのは、年齢とは少し違うところです。

 

何に興味を持っているんだろう。

 

どんなことを面白いと思うんだろう。

 

これまで、どんな人生を生きてきたんだろう。

 

どんな経験をしてきたんだろう。

 

どんな考え方をするんだろう。

 

何を大切にしているんだろう。

 

どんな感性を持っているんだろう。

 

私は、そういうところに惹かれます。

 

「○歳です」

 

という数字を知っても、その人がどんな人なのかはほとんど分かりません。

 

でも、

 

「こんなことが大好きなんです」

 

という話を聞いたら、その人の世界が少し見えてくる。

 

「昔こんな経験をして、こんなふうに考えるようになったんです」

 

と聞いたら、さらにその人が立体的になってくる。

 

私が知りたいのは、

 

年齢というカテゴリーではなく、その人自身なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

これは年齢だけの話ではなかった


 

ここまで考えていて、

 

「あれ? これって年齢だけじゃないな」

 

と思いました。

 

男性だから。

 

女性だから。

 

○○大学卒だから。

 

この職業だから。

 

○○出身だから。

 

そういった属性から、

 

「きっとこういう人だろう」

 

と人物像を作ることがあります。

 

もちろん、属性はその人について知る一つの情報です。

 

でも、

 

属性はその人についての情報であって、その人そのものではありません。

 

たとえば、

 

「○○県出身です」

 

と聞いたとします。

 

そこから、

 

「じゃあ、きっとこういう人ですね」

 

と決めるのではなく、

 

「そこでの暮らしはどうでした?」

 

と聞いてみる。

 

すると、

 

「大好きだった」

 

という人もいれば、

 

「早く出たかった」

 

という人もいるかもしれない。

 

「子どもの頃に引っ越したから、ほとんど覚えていない」

 

という人だっているでしょう。

 

同じ属性を持っていても、その人が経験したことや感じたことは違います。

 

だから私は、

 

属性は会話の入口にはなっても、その人についての結論にはならない

 

と思います。

 

 

 

 

 

 

「男性だから」「女性だから」も同じ


 

性別についても同じです。

 

「男性だから、きっとこう考える」

 

「女性だから、これが好きだろう」

 

と考えるより、

 

「あなたはどう?」

 

と本人を見たほうがいい。

 

男性の中にも、いろいろな人がいる。

 

女性の中にも、いろいろな人がいる。

 

同じ年齢でも違う。

 

同じ学校を出ていても違う。

 

同じ仕事をしていても違う。

 

同じ地域で育っていても違う。

 

人は、それほど単純ではありません。

 

だからこそ面白いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

カテゴリーから人を見るのではなく、その人からその人を知る


 

属性を先に置いて、

 

「この人は○○だから、きっとこうだ」

 

と考える。

 

これは、

 

カテゴリーから、その人を見ること

 

だと思います。

 

でも私は、

 

「この人は何が好きなんだろう?」

 

「どんなことを考えるんだろう?」

 

「どんなところで笑うんだろう?」

 

「どんなことに心を動かされるんだろう?」

 

と、その人とのやり取りの中で知っていきたい。

 

これは、

 

その人から、その人を知っていくこと

 

なのだと思います。

 

すると、

 

「えっ、そんなことが好きなんだ!」

 

「そんな経験していたんだ!」

 

「そんなふうに考えるんだ!」

 

という意外なものがたくさん出てくる。

 

私は、そこが人と関わる面白さだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分にも、同じことをしなくていい


 

そしてこれは、他人を見るときだけの話ではありません。

 

自分自身についても同じです。

 

「私はもう○歳だから」

 

「女性だから」

 

「この仕事をしているから」

 

「この経歴だから」

 

と、カテゴリーから自分を見る必要もない。

 

「○歳の私は何をすべきか」

 

ではなく、

 

「今の私は何をしたい?」

 

と自分に聞けばいい。

 

「この年齢なら、こういう服を着るべき」

 

ではなく、

 

「今の私は、何を着たい?」

 

「この年齢なら、もう遅い」

 

ではなく、

 

「私は今、それをやってみたい?」

 

と聞いてみる。

 

年齢や性別や肩書きが、自分の人生の答えを持っているわけではありません。

 

答えを持っているのは、自分自身です。

 

 

 

 

 

 

他人の物差しで自分を測らない。そして自分の物差しで他人を決めない


 

前回、

 

外側の世界の物差しを、自分の内側へ持ち込まなくていい

 

ということを書きました。

 

今回考えてみて、それにはもう一つの方向があることに気づきました。

 

自分を他人の物差しで測らない。

 

そして同時に、

 

自分が持っている物差しで、他人を決めつけない。

 

自分をカテゴリーに押し込めない。

 

相手もカテゴリーに押し込めない。

 

「○歳の人」ではなく、この人。

 

「男性」「女性」ではなく、この人。

 

「○○大学卒の人」ではなく、この人。

 

「○○という仕事をしている人」ではなく、この人。

 

もちろん属性は、その人の一部分として存在しています。

 

でも、その一部分だけで、その人全部を知ったことにはならない。

 

人はもっと複雑で、もっと意外で、もっと一人ひとり違っています。

 

だから私は、

 

「この人は、どんな人なんだろう?」

 

というところから人を見ていたいと思います。

 

 

 

 

 

 

人を、一つの物差しで測らない


 

嫉妬について考えたことから始まり、

 

人との比較、

 

恋愛、

 

「選ばれる」という感覚、

 

社会からの評価、

 

学歴や肩書き、

 

自己価値、

 

そして年齢や性別などの属性へと、話がつながってきました。

 

一見すると、全部違う話のように見えます。

 

でも、その根っこには同じものがあるように思います。

 

それは、

 

人を、一つの物差しで測らないこと。

 

誰かと比べて、自分の価値を決めない。

 

社会からの評価で、自分の価値を決めない。

 

年齢や肩書きで、自分を決めない。

 

そして同じように、

 

誰かの年齢や性別、学歴、職業、出身地だけで、その人を決めない。

 

外側にある情報は、情報として受け取る。

 

でも、

 

「私は誰なのか」

「この人はどんな人なのか」

 

というところまで、外側の物差しに決めてもらわない。

 

自分については、自分自身とつながりながら知っていく。

 

誰かについては、その人自身と関わりながら知っていく。

 

そうやって一人ひとりを見ていったら、

 

「○歳だから」

 

「男性だから」

 

「女性だから」

 

「○○出身だから」

 

というカテゴリーの向こう側に、

 

その人にしかない一つの世界

 

が見えてくるのかもしれません。

 

私は、その世界のほうに興味があります。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


自分の価値を、外側の世界に決めてもらわない


 

恋愛について考えていたことから、話が思いがけず「自己価値」というところまで広がっていきました。

 

たとえば、好きな人が自分ではなく別の人を好きになったとき、

 

「私は選ばれなかった」

 

「私には魅力がなかったんだ」

 

「もう一人の人のほうが、私より素敵だったんだ」

 

と感じることがあります。

 

でも、本当にそうなのでしょうか。

 

私は今、そうは思いません。

 

相手が別の人を好きになったとしても、それは、

 

「私とその人を比べて、その人のほうが人間として優れていた」

 

ということではないと思うからです。

 

ただ、その人の心がそちらへ動いた。

 

相手が、自分の人生の中で一つの選択をした。

 

それだけのこともあります。

 

私と誰かは、そもそも比較対象ではありません。

 

そして相手の選択によって、私自身の価値が上がったり下がったりするわけでもありません。

 

そんなことを考えていたら、これは恋愛だけの話ではないことに気づきました。

 

 

 

 

 

 

私たちは、小さい頃から「評価」の世界にいる


 

考えてみると、私たちは子どもの頃から、たくさんの評価に囲まれて生きています。

 

運動会では順位がつく。

 

テストでは点数がつく。

 

コンクールでは賞が決まる。

 

大会では優勝者が決まる。

 

受験では合否が出る。

 

そして、

 

「あの高校に合格した。すごいね」

 

「あの大学に行った。すごいね」

 

と言われる。

 

社会に出れば、

 

「あの会社に勤めている」

 

「こんな役職についている」

 

「これくらい収入がある」

 

「こんな資格を持っている」

 

「こんな実績がある」

 

というものが、その人を見る一つの基準になることもあります。

 

もちろん、それらが悪いわけではありません。

 

大会で優勝することも素晴らしい。

 

行きたかった学校に合格することも嬉しい。

 

努力して資格を取ることも素敵なこと。

 

仕事で評価されたり、役職を任されたりすることも、その人が積み重ねてきたものの一つでしょう。

 

でも、ここで一つ、とても大切なことがあると思います。

 

それは、

 

「評価」と「自己価値」は別のものだということ。

 

 

 

 

 

 

「すごいことをした」と「価値のある人」は同じではない


 

100メートル走で1位になった。

 

それは、

 

「そのレースで一番速かった」

 

という結果です。

 

難関大学に合格した。

 

それは、

 

「その大学の入学試験に合格した」

 

という結果です。

 

仕事で昇進した。

 

それは、

 

「その組織の中で、その役割を任された」

 

ということです。

 

どれも素晴らしいことです。

 

でも、

 

「だから、この人は人間として価値が高い」

 

とはならないと思うのです。

 

「すごいことをした」

 

と、

 

「人間として価値が高い」

 

は、別の話です。

 

ところが、ここが一緒になると、

 

「いい結果を出した私は価値がある」

 

となります。

 

そして、その裏側には必ず、

 

「結果を出せない私は価値がない」

 

という考え方が生まれます。

 

評価されたら自分の価値が上がる。

 

評価されなかったら自分の価値が下がる。

 

そんなふうに、自分の価値が外側の出来事によって上がったり下がったりするものになってしまいます。

 

 

 

 

 

 

比較の世界では、下にいても上にいても安心できない


 

他人と比べて、

 

「あの人より私は劣っている」

 

と思えば苦しくなります。

 

でも逆に、

 

「私はあの人より優れている」

 

と思えれば、ずっと安心できるのでしょうか。

 

私は、必ずしもそうではないと思います。

 

今度は、

 

「この位置を失いたくない」

 

「抜かれたくない」

 

「次も結果を出さなければ」

 

「これからも、すごい人でいなければ」

 

という不安が生まれることがあります。

 

比較によって自分の価値を確認する世界では、

 

下にいても苦しい。

上にいても、その場所を失うことが怖い。

 

そうなると、最初は好きで始めたことだったのに、

 

「評価され続けるため」

 

「負けないため」

 

「すごい人だと思われ続けるため」

 

に続けるようになることもあるかもしれません。

 

そして気づいたら、本来自分が進みたかった方向とは違うところへ進んでいる。

 

自分自身の価値観よりも、外側の評価を基準に人生を選ぶようになっている。

 

そんなこともあるように思います。

 

 

 

 

 

 

外の世界には順位があってもいい


 

だからといって私は、競争や評価をなくしたほうがいいとは思いません。

 

外の世界には、順位があってもいい。

 

大会で競ってもいい。

 

テストで点数がついてもいい。

 

仕事で評価されてもいい。

 

賞をもらったら、

 

「やったー!」

 

と喜んでいい。

 

褒められたら、

 

「嬉しい!ありがとう」

 

と受け取っていい。

 

私は、その喜びまで手放す必要はないと思っています。

 

大切なのは、

 

外側の評価を、そのまま自分自身の価値にしないこと。

 

なのだと思います。

 

外で賞をもらったら、喜びは自分の中へ持って帰る。

 

でも、

 

順位表まで自分の内側へ持ち込まなくていい。

 

 

 

 

 

 

肩書きは、自分そのものではない


 

学校名も同じです。

 

会社名も同じ。

 

役職も同じ。

 

資格も、収入も、実績も同じです。

 

それらは、その人についての一つの情報です。

 

でも、その人そのものではありません。

 

「私は部長です」

 

というより、

 

「私は今、この会社で部長という役割を担っています」

 

と考えると、少し違って見えます。

 

まず「私」がいる。

 

その私が、今、一つの役割を担っている。

 

役職が自分を作っているのではなく、

 

自分という人間の人生の中に、一つの役職がある。

 

学校も仕事も資格も実績も同じです。

 

全部、自分の人生の一部分。

 

それらを全部集めたものが、自分の価値なのではありません。

 

 

 

 

 

 

「人の役に立つこと」さえ、自己価値の条件にしなくていい


 

そして、もう一つ気づいたことがあります。

 

それは、

 

「人の役に立つこと」

 

についてです。

 

人の役に立てたら嬉しい。

 

誰かに喜んでもらえたら嬉しい。

 

「ありがとう」と言われたら嬉しい。

 

それは、とても自然なことだと思います。

 

でも、

 

「人の役に立てる私は価値がある」

 

となると、その裏側には、

 

「人の役に立てない私は価値がない」

 

ができてしまいます。

 

仕事をしていないとき。

 

疲れて何もできないとき。

 

誰かから必要とされている実感がないとき。

 

そんなとき、自分自身の価値までなくなったように感じてしまう。

 

でも、

 

「今日は誰かの役に立った」

 

ということと、

 

「だから今日は私に価値がある」

 

ということは別です。

 

誰かの役に立つことには意味がある。

 

でも、それを自分自身の価値を成立させる条件にしなくてもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の価値に条件をつけない


 

ここまで考えてきて、私は一つのところへたどり着きました。

 

自分の価値に、条件をつけなくてもいい。

 

選ばれたから価値がある。

 

愛されたから価値がある。

 

評価されたから価値がある。

 

賞を取ったから価値がある。

 

有名な学校を出たから価値がある。

 

立派な肩書きがあるから価値がある。

 

たくさん稼いでいるから価値がある。

 

誰かの役に立っているから価値がある。

 

もし、それらが自分の価値を成立させる条件なら、その条件を失った瞬間、自分の価値まで失うことになります。

 

でも、本当はそうではないと思うのです。

 

賞を取ったら嬉しい。

 

恋人から愛されたら嬉しい。

 

仕事で評価されたら嬉しい。

 

誰かの役に立てたら嬉しい。

 

でも、

 

嬉しいことと、自分自身の価値は別。

 

評価と自己価値を切り離す。

 

それだけでも、ずいぶん生き方が変わるような気がします。

 

 

 

 

 

 

比較するなら、過去の自分。でも競争しなくてもいい


 

もし何かと比べるのなら、私は他人ではなく、過去の自分を見たいと思います。

 

でもそれも、

 

「昨日の自分より優れなければ」

 

という競争ではありません。

 

「以前は、こんなことで悩んでいたな」

 

「以前はこう考えていたけれど、今はこんなふうに感じるんだな」

 

「私、ずいぶん変わったな」

 

そんなふうに、自分が歩いてきた道を見る。

 

昨日の自分に勝つ必要もない。

 

ただ、自分の変化を知る。

 

それは比較というより、

 

自分自身の人生を振り返ること

 

に近いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の内側に、順位表を持ち込まない


 

外の世界には、いろいろな物差しがあります。

 

学校の物差し。

 

会社の物差し。

 

スポーツの物差し。

 

社会の物差し。

 

そして、一人ひとりが持っている物差し。

 

それらは、それぞれの場面では必要なこともあります。

 

でも私は、

 

自分の内側にまで、その順位表を持ち込まなくていい

 

と思っています。

 

誰かが私より高く評価されたからといって、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが私より多く稼いでいても、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが恋愛で別の人に心を惹かれたとしても、私の価値が減るわけではない。

 

誰かが私を評価しなかったとしても、私自身がなくなるわけではない。

 

外側の世界では、評価されてもいい。

 

褒められてもいい。

 

競争してもいい。

 

成功してもいい。

 

それを思いきり喜んでもいい。

 

でも、

 

それらに「私の価値を決める権利」まで渡さなくていい。

 

自分の内側は、自分と誰かを競わせる場所ではなく、

 

自分自身とつながる場所。

 

「私はどう感じている?」

 

「私は何を大切にしたい?」

 

「私はどう生きたい?」

 

「私は何を選びたい?」

 

そこへ戻ってくる。

 

自分の価値を外側に探し続けるのではなく、自分自身との関係の中で感じていく。

 

それが、自分と仲良くなること。

 

そして、自分自身を信頼して生きることにもつながっていくのだと思います。

 

評価は評価として受け取る。

結果は結果として受け取る。

肩書きは肩書きとして持つ。

 

でも、

 

自分の価値は、それらとは別のところに置いておく。

 

外の世界の順位表を、自分の内側まで持ち込まない。

 

そうすることで、私たちはもっと自由に、自分自身の人生を選んでいけるのかもしれません。








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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




私は「選ばれる人」ではなく、自分の人生を選ぶ人


 

恋愛について話していて、私はある言葉に違和感を覚えました。

 

それは、

 

「選ばれなかった」

 

という言葉です。

 

たとえば、好きな人の気持ちが自分から離れて、別の人を好きになったとします。

 

そんなとき、

 

「あの人ではなく、私は選ばれなかった」

 

と考えることがあります。

 

以前の私なら、そんな捉え方をしたこともあったと思います。

 

でも今の私は、そうは思いません。

 

相手が別の人を好きになったとしても、

 

「私は選ばれなかった」

 

とは感じないのです。

 

相手はただ、自分の人生の中で違う選択をした。

 

私には、それくらいの感覚なのです。

 

 

 

 

 

 

恋愛は、誰かと誰かの優劣を決めるものではない

 

 

人を好きになることは、採点ではありません。

 

「こちらは80点」

 

「こちらは90点」

 

「だから90点の人を選びました」

 

というものではないと思います。

 

私ともう一人の誰かは、そもそも比較対象ではありません。

 

外見も違う。

 

性格も違う。

 

価値観も違う。

 

経験してきた人生も違う。

 

同じ物差しの上に並べて、

 

「どちらが優れているか」

 

と決めるようなものではないと思うのです。

 

ただ、その人の心がどちらに惹かれたのか。

 

それだけのこともあります。

 

だから、相手の気持ちが別の人へ動いたとしても、

 

「あの人のほうが私より優れていた」

 

とは思いません。

 

ただ、

 

相手の気持ちが動いた。

 

そして私は、それを悲しいと思う。

 

それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

悲しむことと、自分の価値を疑うことは別


 

もちろん、好きだった人との関係が終わったら、私は悲しいと思います。

 

きっと泣くこともあるでしょう。

 

「残念だな」

 

「もっと一緒にいたかったな」

 

と思うこともあると思います。

 

人間ですから。

 

でも、その悲しみに、

 

「私は選ばれなかった」

 

「私には何かが足りなかった」

 

「あの人のほうが私より魅力的だった」

 

という話まで加える必要はないと思っています。

 

関係を失った悲しみと、自分自身の価値は別のことです。

 

ただでさえ別れは悲しいのに、

 

「私は誰かに負けた」

 

という物語まで自分で作ったら、苦しみをもう一つ増やすことになります。

 

私は、それはもういらないなと思うのです。

 

 

 

 

 

 

私は「選ばれる存在」ではなく「選ぶ存在」


 

今の私は、

 

「私は選ばれる存在ではなく、私が選ぶ存在」

 

という感覚を持っています。

 

これは、

 

「私のほうが偉い」

 

という意味ではありません。

 

相手にも、自分の人生を選ぶ権利があります。

 

そして私にも、自分の人生を選ぶ権利があります。

 

相手は相手の人生の主体。

 

私は私の人生の主体。

 

相手が、

 

「私は違う道へ行く」

 

と決めたなら、それは相手の選択です。

 

では私はどうするのか。

 

私は、

 

「わかりました。では私は私の道へ行きます」

 

と、自分の人生を選ぶ。

 

誰かの人生の選択によって、私の人生の決定権まで失われるわけではありません。

 

 

 

 

 

 

だから私は、復縁を望まない


 

これはあくまで私自身の恋愛観ですが、私は復縁を望みません。

 

別れたのには、別れた理由があるからです。

 

以前、私は一度、

 

「ダメなものは、もうダメなんだ」

 

と思ったことがありました。

 

でもその後、

 

「本当にそうなのかな」

 

「もう一度信じてみてもいいんじゃないかな」

 

と思い直した時期もありました。

 

もう一度、信じてみた。

 

その経験をしたうえで、私は改めて、

 

「やっぱり、ダメなものはダメなんだな」

 

という自分なりの答えにたどり着きました。

 

だから今は、終わった関係について、

 

「もう一度チャンスを」

 

とは思いません。

 

これは「復縁はうまくいかない」と言いたいわけではありません。

 

離れている間にお互いが変化して、再会したときには以前とは違う二人になっていて、もう一度一緒に生きることを選ぶ。

 

そんな恋愛もあるでしょう。

 

それを望む人がいてもいい。

 

でも、

 

私はそれを選ばない。

 

ただそれだけです。

 

 

 

 

 

 

相手が戻りたいと思うことは、相手の課題


 

もし、相手が別の人を好きになって別れたとします。

 

そして時間が経って、

 

「やっぱり戻りたい」

 

と思ったとします。

 

それは、相手の気持ちです。

 

相手が後悔したこと。

 

考えが変わったこと。

 

もう一度やり直したいと思ったこと。

 

それは相手の人生の中で起きていることです。

 

だから、それによって私が、

 

「もう一度チャンスを与えるべきなのかな」

 

と考える必要はないと思っています。

 

相手には、

 

「戻りたい」

 

と思う自由がある。

 

そして私には、

 

「私は戻りません」

 

と選ぶ自由がある。

 

相手の課題まで、私が引き受けなくていい。

 

 

 

 

 

 

誰かに比較されたとしても、その物差しはその人のもの


 

もちろん現実には、条件によって人を比較して恋愛相手を決める人もいると思います。

 

「こちらの人のほうが収入が多い」

 

「こちらの人のほうが社会的地位が高い」

 

「こちらの人のほうが自分の理想の条件に近い」

 

もし本人が実際にそう考えて決めたのなら、その人の中では比較が行われています。

 

でも、それでも私は思います。

 

それは、その人の物差しです。

 

その人が、

 

「私は恋愛相手を選ぶとき、収入を大切にする」

 

と決めているだけ。

 

それによって、

 

「収入の高い人のほうが、人間として価値が高い」

 

という事実が生まれたわけではありません。

 

だから、誰かが私を自分の物差しで比較したとしても、

 

その物差しを受け取って、自分まで自分を採点しなくていい。

 

「ああ、この人はそういうものを大切にして相手を選ぶ人なんだな」

 

それは、その人について知る一つの情報です。

 

でも私は、

 

「では、その物差しで私は何点だったんだろう?」

 

と考えなくていい。

 

 

 

 

 

 

自己信頼とは、自分の選択を自分で信頼すること


 

こうして考えていくと、結局また「自己信頼」に戻ってきました。

 

誰かから愛されることで、自分の価値を確認するのではない。

 

誰かに選ばれることで、自分の価値を証明するのでもない。

 

自分自身が、

 

「私はどう感じている?」

 

「私はどうしたい?」

 

「私は何を選ぶ?」

 

と、自分に聞く。

 

そして、自分で出した答えを自分で大切にする。

 

私は一度、

 

「もう一度信じてみよう」

 

という道も選びました。

 

だからこそ今、

 

「私はもう戻らない」

 

という自分の答えも知っています。

 

どちらかが正しいのではありません。

 

自分で経験して、自分で感じて、自分で答えを出した。

 

だから私は、その答えを信頼しています。

 

 

 

 

 

 

悲しくても、自分の人生の操縦席には自分がいる

 

 

恋愛が終わったら、悲しんでいい。

 

泣いてもいい。

 

寂しくてもいい。

 

「あの時間、楽しかったな」

 

と思い出してもいい。

 

でも、

 

悲しむことと、自分の人生の主導権を失うことは別です。

 

相手が違う人生を選んだなら、相手は相手の道へ行く。

 

私は私の道へ行く。

 

誰かが私を選んでくれるのを待つのではなく、

 

私は、自分の人生を自分で選んでいく。

 

そしてこれは、恋愛だけの話ではないように思います。

 

誰かが輝いて見えたときも。

 

嫉妬したときも。

 

誰かから評価されたときも。

 

誰かとの関係が終わったときも。

 

最後に戻ってくる場所は、

 

「私はどうしたい?」

 

という自分自身とのつながりです。

 

人を好きになる。

 

焼きもちを焼く。

 

嫉妬する。

 

別れたら泣く。

 

それでもまた、自分のところへ戻ってくる。

 

自己信頼とは、何も失わないための力ではなく、

 

何かを失うことがあっても、自分自身のところへ帰ってこられる力

 

なのかもしれません。

 

そして私はこれからも、自分の人生の操縦席に座って、
自分で自分の人生を選んでいきたいと思います。






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恋愛の嫉妬は、愛情の深さなのだろうか


 

恋愛について考えていて、ふと「嫉妬」について思うことがありました。

 

恋愛には嫉妬がつきもの。

 

好きだから嫉妬する。

 

愛情が深いほど嫉妬する。

 

そんなふうに捉えられることがあります。

 

でも私は最近、

 

本当に「好き=嫉妬」なのだろうか?

 

と思うようになりました。

 

もちろん、好きな人だからこそ心が動くことはあります。

 

好きな人が誰かから好意を寄せられている。

 

誰かと楽しそうに話している。

 

そんな姿を見て、

 

「なんか嫌だな」

「ちょっとムッとする」

 

ということもあるでしょう。

 

でも私の感覚では、それは重たい「嫉妬」というより、かわいらしい「焼きもち」に近いものです。

 

「ちょっと嫌だな」

「私のことも見てよ」

 

そんなふうに少し拗ねる。

 

でも、根底では相手を信頼している。

 

だから少し心が揺れても、またすぐ安心できるところへ戻ってくる。

 

私にとっての焼きもちは、そんな感じです。

 

 

 

 

 

 

嫉妬と焼きもちは、私の中では少し違う


 

これはあくまで私自身の感覚ですが、私は「焼きもち」と「嫉妬」を少し違うものとして感じています。

 

焼きもちは比較的軽いもの。

 

一方、嫉妬には、

 

「誰かに取られてしまうかもしれない」

 

「好きな人が他の人を好きになったらどうしよう」

 

「私ではなく、あの人のところへ行ってしまうかもしれない」

 

という、もう少し重く苦しい感覚があります。

 

そして、ここには「好き」という気持ちだけではなく、

 

二人の関係の中に、どれくらい安心・安全を感じられているのか

 

ということも関係しているのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

安心できる場所があると、嫉妬から戻ってこられる


 

たとえば、好きな人が誰かと楽しそうに話している。

 

一瞬、

 

「ちょっと嫌だな」

 

と思ったとしても、

 

「でも、この人は私との関係を大切にしてくれている」

 

「私はこの人を信頼している」

 

「私たちの関係は大丈夫」

 

という安心感があれば、ずっとそこに囚われ続けることは少ないように思います。

 

焼きもちを焼いても、また安心へ戻ってくる。

 

一瞬嫉妬しても、すっと消えていく。

 

反対に、二人の関係そのものに安心を感じられなかったらどうでしょう。

 

同じ出来事を見ても、

 

「もしかして、あの人のことが好きなのかな」

 

「私よりあの人のほうがいいのかな」

 

「いつか私から離れていくんじゃないかな」

 

と、どんどん不安が膨らんでいくこともあるかもしれません。

 

だから私は、恋愛における嫉妬を考えるとき、

 

「嫉妬するほど愛している」

 

と単純に捉えるのは、少し違うような気がしています。

 

嫉妬の奥には、ときに、

 

「安心したい」

 

「大切にされていると感じたい」

 

「この関係を失いたくない」

 

という、表からは見えない気持ちがあるのかもしれません。

 

もちろん、嫉妬にはさまざまな要因があるので、必ず何か満たされない思いが隠れているとは限りません。

 

それでも、

 

「私は今、何を怖いと感じているんだろう?」

 

と自分に戻ってみることには意味があると思います。

 

 

 

 

 

 

大切なのは、相手への信頼だけではなかった


 

そして、ここまで考えていて、もう一つ大きなことに気づきました。

 

安心できる恋愛に必要なのは、

 

二人の間の信頼だけではない。

 

もう一つ、

 

自分自身への信頼

 

があるのだと思います。

 

相手をどれだけ信頼していても、未来のことまで完全に保証することはできません。

 

人の気持ちは変化することがあります。

 

どれほど好きだったとしても、いつか気持ちが離れる可能性をゼロにすることはできません。

 

もし、

 

「この人が絶対に私から離れない」

 

という保証によってしか安心できないのだとしたら、安心は相手の行動次第になってしまいます。

 

でも、

 

「私は大丈夫」

 

という自分自身への信頼があったらどうでしょう。

 

私は私で大丈夫。

 

相手も相手で大丈夫。

 

今、お互いが一緒にいたいと思っているから、一緒にいる。

 

そして、もし未来に気持ちが変化することがあったとしても、そのときはそのとき。

 

悲しくないわけではありません。

 

きっと悲しいでしょう。

 

泣くことだってあると思います。

 

でも、

 

関係が終わることと、自分自身の価値が失われることは別のことです。






 

安心できる恋愛とは、何も起こらない恋愛ではない


 

そう考えると、安心・安全な恋愛というのは、

 

嫉妬しないことでも、

 

焼きもちを焼かないことでも、

 

絶対に別れないことでもないのかもしれません。

 

人間だから心は動く。

 

好きな人だからこそ、

 

「むぅ」

 

となることだってある。

 

不安になる日だってある。

 

でも、そのたびに、

 

安心できるところへ戻ってこられる。

 

相手への信頼へ戻る。

 

そして、自分自身への信頼へ戻る。

 

だから嫉妬に関係全体を飲み込まれない。

 

私は、そんな恋愛が「安定した恋愛」なのではないかと思います。

 

そして結局ここでも大切になるのは、

 

自分とつながっていること。

自分と仲良くなっていること。

自分自身を信頼していること。

 

なのだと思いました。

 

恋愛だからこそ相手を大切にする。

 

でも同じくらい、自分自身との関係も大切にする。

 

「相手が大丈夫だから私は大丈夫」ではなく、

 

「まず私は大丈夫。そして相手も大丈夫」

 

そんなところから始まる恋愛なら、嫉妬がやってきたとしても、
それは二人の関係を支配するものではなく、
時々やってくる人間らしい心の揺れの一つになるのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

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嫉妬は、誰かの輝きに心が動いた瞬間なのかもしれない

 

 

最近、ふと「嫉妬」について考えることがありました。

 

恋愛関係の中で生まれる嫉妬もあれば、同性同士で感じる嫉妬もある。

 

自分より才能があるように見える人、活躍している人、魅力的に見える人を見て、

 

「いいな」

「羨ましいな」

 

と感じることもあります。

 

嫉妬というと、あまり良くない感情のように扱われることがあります。

 

でも私は最近、嫉妬ってもう少し違う見方もできるんじゃないかなと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

私たちは、その人の一部分しか見ていない


 

昔、私は誰かに嫉妬したことがありました。

 

その人が持っている才能か何かを見て、「いいな、羨ましいな」と感じていたのだと思います。

 

ところが、その人と話す機会があって、それまで歩んできた人生について本人から聞いたことがありました。

 

表からは見えなかったけれど、いろいろな苦労があったこと。

 

失敗したこと。

 

そこからまた進んできたこと。

 

そういう話を知ったとき、私は少し恥ずかしくなりました。

 

「私は何も知らないで嫉妬していたんだな」と。

 

今となっては、それが誰だったのか、何に嫉妬していたのかさえ忘れてしまいました。

 

でも、そのとき感じたことだけは残っています。

 

考えてみれば、私たちが誰かを見て羨ましいと思うとき、その人の人生すべてを知っているわけではありません。

 

今、目の前に見えている「輝いている部分」を見ているだけかもしれないのです。

 

その場所にたどり着くまで、どんな時間を過ごしてきたのか。

 

何度失敗したのか。

 

何に悩み、何を諦め、それでも何を続けてきたのか。

 

そんなことは、外から見ているだけではわかりません。

 

だからといって、知らずに嫉妬した自分を恥ずかしく思う必要もなかったのだと、今は思います。

 

知らなかったのだから仕方がない。

 

そして嫉妬すること自体も、人間の自然な心の動きの一つなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かの輝きは、ときに「いいショック」になる


 

もう一つ思ったことがあります。

 

誰かがものすごく輝いて見えた瞬間って、ちょっとした衝撃がありませんか?

 

「えっ、こんなことができるんだ」

 

「こんな一面があったんだ」

 

「すごい!」

 

予想していなかったものを見せられて、一瞬圧倒される。

 

私はこれを、ある意味で「いいショック」なのではないかと思います。

 

その人が積み重ねてきたものが、表現や作品、仕事、活動などを通してパッと表に現れた瞬間。

 

それを受け取った側の心が大きく揺さぶられる。

 

その最初の衝撃は、もしかすると純粋な感動なのかもしれません。

 

ところが、その次の瞬間、

 

「いいな」

「羨ましい」

「この人にはあるのに、私にはない」

 

という気持ちが出てくる。

 

そこで感動が、羨望や嫉妬へと枝分かれしていくこともあるのかもしれません。

 

「この人にはある。私にはない」

 

嫉妬が生まれたとき、そこには、

 

「この人は、自分にないものを持っている」

 

という感覚があるのかもしれません。

 

でも、そんなとき私は、

 

「私はこの人の何を見て、嫉妬しているんだろう?」

 

と考えてみるようになりました。

 

才能なのか。

 

評価されていることなのか。

 

自由に表現している姿なのか。

 

自信を持っているように見えることなのか。

 

好きなことを思い切りやっている姿なのか。

 

そこを見ていくと、意外な自分が見えてくることがあります。

 

たとえば、素晴らしいダンサーを見て、ものすごく羨ましくなったとします。

 

でも、

 

「じゃあ私は、この人のようなダンサーになりたいの?」

 

と自分に聞いてみたら、

 

「いや、それは別にやりたくない」

 

となるかもしれません。

 

それでも、なぜか目が離せない。

 

だったら、本当に心を動かされたものは「ダンス」ではないのかもしれません。

 

堂々と自分を表現している姿かもしれない。

 

好きなことに夢中になっている姿かもしれない。

 

人目を気にせず、自分の世界を表現している自由さかもしれない。

 

嫉妬の奥を見ていくと、

 

「私、本当はこういうものに惹かれるんだ」

 

という、自分でも気づかなかった願いや価値観が見えてくることがあります。

 

 

 

 

 

 

羨ましい。でも、私はそれをやりたい?


 

最近の私は、人を見て「すごいな」と思っても、その次の瞬間には、

 

「それはそれ」

 

と切り替わることが多くなりました。

 

なぜなら、その人と私は違うからです。

 

経験してきたことも違う。

 

外見も違う。

 

性格も違う。

 

価値観も、考え方も、望んでいる人生も違う。

 

同じことに興味を持っていたとしても、人生そのものを比べることはできません。

 

一人ひとりに物差しがあるとしても、その物差しそのものが違う。

 

だから、そもそも重ならないのです。

 

誰かを見て、

 

「すごいな」

「羨ましいな」

 

と思ったとしても、

 

「じゃあ、私はそれをしたい?」

 

と聞いてみる。

 

すると意外と、

 

「いや、私はやりたくないな」

 

ということもあります。

 

それなら、その人はその人。

 

私は私。

 

「あなた、すごいね」

 

それだけで終わってもいいのです。

 

 

 

 

 

 

嫉妬は、自分を知る入口にもなる


 

嫉妬を感じたからといって、必ず深く分析する必要もないと思います。

 

「あ、今ちょっと羨ましいと思ったな」

 

それだけで通り過ぎてもいい。

 

でも、どうしても気になる。

 

なぜか目が離せない。

 

何度もその人のことを考えてしまう。

 

そんなときには、

 

「私は、この人の何にこんなに心を動かされているんだろう?」

 

と自分に聞いてみるのも面白いと思います。

 

そして、もう一つ。

 

「この人にはあるけれど、私にはない」

 

と思ったその何かは、本当に自分にはないのでしょうか。

 

まだ表に出していないだけかもしれない。

 

まだやったことがないだけかもしれない。

 

その人とは違う形で、すでに自分の中にあるのかもしれない。

 

誰かの輝きに心を大きく動かされた瞬間。

 

それは、その人について何かを感じた瞬間であると同時に、

 

まだ自分でも知らなかった自分自身に出会った瞬間

 

なのかもしれません。

 

そう考えると、嫉妬もそれほど悪いものには見えなくなります。

 

誰かの輝きを見て、心が「うわっ」と動いた。

 

その心の動きから、

 

「私は何に惹かれたんだろう?」

 

と自分の方へ戻ってみる。

 

そして、自分も本当に望んでいることなら、自分なりの形でやってみればいい。

 

望んでいないなら、

 

「素敵だな。すごいな」

 

と、その人の輝きをその人のものとして眺めればいい。

 

誰かの人生を自分の物差しにする必要もないし、自分の人生を誰かの物差しで測る必要もない。

 

その人には、その人の物差しがある。

私には、私の物差しがある。

 

だからこそ誰かの輝きは、自分を小さくするものではなく、

 

「こんな輝き方もあるんだ」

 

と世界を少し広げてくれるものなのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




一つの答えで、世界のすべてを説明しなくていい



 

最近、スピリチュアルに関する発信を見ていて、

少し気になることがありました。

 

それは、自分が信じているものや、

自分が扱っているものの素晴らしさを伝えるために、

 

「こちらが本物で、あちらは偽物」

「それは間違っている」

「そんなものは意味がない」

 

というように、ほかの考え方や方法を強く否定する発信です。

 

 

もちろん、「私はこの考え方には賛同しません」と意見を伝えることと、

誰かや何かを否定したり馬鹿にしたりすることは違います。

 

私自身も、スピリチュアルの世界で言われていることに対して、

「それはちょっと違うんじゃないかな」と感じることはあります。

 

だから、疑問を持つことや批判的に考えること自体が悪いとは思いません。

 

 

 

でも私は何かを学ぶとき、

 

「ほかはダメだけれど、これはすごい」

 

という伝え方をされるものを、あまり学びたいとは思わないんですよね。

 

なぜなら、本当にそのものに魅力があるのなら、

ほかを下げなくても、その魅力を伝えることはできると思うからです。

 

 

 

 

 

 

「正解」は、本当に一つなのだろうか


 

そんなことを考えるきっかけの一つになったのが、誕生石についての話でした。

 

誕生石は国によって違いがあります。

 

そして、そもそも誕生石そのものも、絶対的な自然法則ではありません。

 

「この月に生まれた人は、絶対にこの石を持たなければならない」というものでもありませんよね。

 

誕生石を知って、

 

「自分の誕生月の石だから、なんだか親近感がある」

 

と思うのも素敵です。

 

でも、自分の誕生石より別の石のほうが好きなら、好きな石を選んでもいい。

 

それくらい自由でいいと私は思います。

 

ところが、一つの体系を「これが正しい」と決めた瞬間、そこから外れたものを「間違い」「偽物」としたくなることがあります。

 

これは誕生石だけの話ではありません。

 

考えているうちに、以前から私がスピリチュアルについて感じていた、

もっと大きな疑問につながっていきました。

 

 

 

 

 

 

「原因はすべて自分」という考え方に苦しくなった

 

 

以前の私は、

 

「自分に起こる出来事の原因は自分にある」

 

という考え方を、かなり広い範囲に当てはめていました。

 

自分の内側を見つめたり、自分にできることを考えたりするためには、役立つこともある考え方だと思います。

 

でも、あるとき疑問を感じました。

 

本当に、すべての出来事の原因を自分にする必要があるのだろうか?

 

人と人との間で起きる出来事には、自分だけではなく相手がいます。

 

相手にも意思があります。

相手にも選択があります。

相手にもその人自身の人生があります。

 

それなのに、そこで起きたことまで全部、

 

「私が引き寄せた」

「私の思考が作った」

「私の内側に原因があった」

 

と考える必要があるのでしょうか。

 

私は、そうではないと思うようになりました。

 

自分が原因ではない出来事もある。

 

でも、それは人生の主導権を失うこととは違います。

 

出来事の原因をすべて自分にしなくても、その後どう生きるかは自分で選べる。

 

このことに気づいたとき、私はとてもホッとしました。

 

 

 

 

 

 

そして思い出した「前世とカルマ」への疑問


 

今回いろいろ考えているうちに、以前から心のどこかに残っていた疑問を思い出しました。

 

それは、前世やカルマについてです。

 

スピリチュアルの世界ではときどき、

 

「今世で起きる苦しい出来事には、前世からのカルマが関係している」

 

というような説明を耳にすることがあります。

 

でも私は、以前からここに引っかかりを感じていました。

 

たとえば、小さな子どもが事故で命を落としたとします。

 

その出来事に対して、

 

「前世で悪いことをしたから、今世でその罪を償っている」

 

と説明したらどうでしょう。

 

私は、とても苦しくなります。

 

そもそも前世について、私は「絶対にある」と証明することもできなければ、「絶対にない」と証明することもできません。

 

わからないものは、わからない。

 

それでいいのではないでしょうか。

 

わからない出来事に対して、無理にスピリチュアルな説明をつけなくてもいい。

 

特に、人の命や深い苦しみに関わる出来事にまで、

一つの理論を当てはめて「だからこうなった」と説明する必要はないと、今の私は思っています。

 

 

 

 

 

 

一つの考え方を「万能の法則」にしない


 

ここまで考えて、ようやく一つにつながりました。

 

私が苦しくなっていたのは、スピリチュアルそのものではなかったのかもしれません。

 

一つの理論や仮説、考え方を、人生で起こるすべての出来事に適用しようとしていたこと。

 

そこに苦しさがあったのだと思います。

 

一つの考え方が、ある場面では自分を助けてくれることがあります。

 

でも、別の場面に同じものを当てはめた途端、自分や誰かを苦しめることもあります。

 

だったら、そこで一度立ち止まってもいい。

 

「この考え方は、ここにも本当に当てはまるのかな?」

 

「これを信じることで、私は生きやすくなっているかな?」

 

「自分や誰かを必要以上に責めることになっていないかな?」

 

そうやって、自分で考えていいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルを全部信じなくてもいいし、全部捨てなくてもいい


 

私はスピリチュアルが好きです。

 

でも、スピリチュアルで言われていることを、全部信じているわけではありません。

 

私にとってスピリチュアルは、

自分自身や人生を縛るためのものではなく、

より良く、より自分らしく生きるために役立てるものです。

 

だから私は、その中から自分にとってプラスになるものを選びたい。

 

自分だけではなく、誰かに伝えるのであれば、その人にとってもプラスになる可能性のあるものを伝えたい。

 

そして、その人自身が、

 

「私はこの考え方が好き」

「これは今の私には必要ない」

 

と選べる余白も残しておきたいと思っています。

 

何かを信じることと、それを絶対的な真実にすることは違います。

 

何かに疑問を持つことと、それを信じている人を馬鹿にすることも違います。

 

「私はこれを選びます」

 

それだけで、本当は十分なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

一つの答えで、世界を塗りつぶさない

 

 

世の中には、わからないことがたくさんあります。

 

なぜこんなことが起きたのだろう。

 

なぜ私だったのだろう。

 

なぜあの人だったのだろう。

 

考えても、答えの出ないことがあります。

 

そんなとき、人は答えが欲しくなるのかもしれません。

 

「カルマだから」

「引き寄せたから」

「思考が現実化したから」

 

そう説明できれば、一瞬、世界が理解できたような気持ちになることもあります。

 

でも、答えがないことを、答えがないままにしておくこともできる。

 

「確認できないことは、私にはわからない」

 

それも一つの誠実な態度だと思います。

 

そして、今の自分に役立つ考え方は取り入れて、苦しくなる考え方は手放してもいい。

 

一度取り入れた考え方を、途中でやめたっていい。

 

「前は信じていたけれど、今の私は違うと思う」

 

それだっていい。

 

一つの理論で、世界のすべてを説明しなくていい。

 

一つの答えで、世界全部を塗りつぶさなくていい。

 

何を信じるかさえ、自分で選んでいい。

 

私は最近、そう思えるようになったことで、スピリチュアルから離れたというよりも、むしろ以前より自由にスピリチュアルと付き合えるようになった気がしています。

 

自分を怖がらせるためではなく。

自分を縛るためでもなく。

誰かを裁くためでもなく。

 

自分と仲良く、自分の人生を生きるために。

 

私はこれからも、自分で感じ、自分で考え、自分で選びながら、必要なものだけを大切にしていきたいと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



自分の世界は、自分で選んでいい――「一人一宇宙」という自由

 

 

前回、「怖いときは、決めなくていい」ということについて書きました。

 

何か新しい考え方を知ったとき、すぐに信じなくてもいい。

 

すぐに否定しなくてもいい。

 

怖いと感じたなら、一度立ち止まって、

 

「私はこれをどう感じている?」

 

「私はこの考え方と一緒に生きたい?」

 

と、自分のところへ戻ってきてもいい。

 

そう考えたとき、私はなんだか、自分の人生の主導権が自分に戻ってきたような感覚がありました。

 

自分の人生の操縦席に、もう一度自分が座ったような感覚です。

 

そして、そこからもう一つ気づいたことがあります。

 

そもそも私たちは、誰もがすでに、自分なりの「世界」を作りながら生きているのではないか。

 

ということです。






 

同じ世界にいても、見えている世界は少しずつ違う


 

私たちは、同じ世界で生きています。

 

けれど、一人ひとり経験してきたことは違います。

 

育ってきた環境も違う。

 

出会った人も違う。

 

嬉しかったことも、傷ついたことも違う。

 

何に安心を感じるかも違えば、何を怖いと思うかも違う。

 

好きなものも、大切にしたいものも違います。

 

同じ出来事を経験しても、感じ方が違うことがあります。

 

同じ本を読んでも、心に残るところは違います。

 

同じ人に会っても、

 

「素敵な人だな」

 

と思う人もいれば、

 

「私はちょっと合わないな」

 

と思う人もいる。

 

そう考えると私たちは、生まれてから経験したこと、知ったこと、感じたこと、考えたことを材料にしながら、

 

「人間って、こういうもの」

 

「人生って、こういうもの」

 

「幸せって、こういうもの」

 

「私は、こういう人」

 

という、自分なりの世界の見取り図を少しずつ作っているのだと思います。

 

つまり、

 

私たちはもともと、自分なりの世界観を持って生きている。






 

外から入ってきた情報も、自分の世界を作る材料になる


 

そして、その世界の中には、外からさまざまな情報が入ってきます。

 

本。

 

動画。

 

学校で教わったこと。

 

親から言われたこと。

 

先生から教わったこと。

 

尊敬している人の言葉。

 

スピリチュアルな教え。

 

心理学や哲学。

 

社会の常識。

 

それらを知るたびに、

 

「なるほど、世界ってそういうものなのか」

 

「人間ってこういうものなんだ」

 

と、自分の世界観に少しずつ加えていきます。

 

でも、ここで一つ気をつけたいことがあります。






 

「その人の世界観」が「世界の絶対的な法則」に変わるとき


 

たとえば、有名な人が本の中で、

 

「思考が現実を作ります」

 

「あなたの波動に合った現実が引き寄せられます」

 

「起きる出来事の原因は自分にあります」

 

と書いていたとします。

 

本になっている。

 

たくさんの人が読んでいる。

 

有名な人が言っている。

 

自信を持って語られている。

 

そうすると、その言葉はとても真実味を帯びて感じられることがあります。

 

そして、いつの間にか、

 

「この人は、こういうふうに世界を見ている」

 

という一つの考え方が、

 

「世界は、本当にこういう仕組みで動いている」

 

に変わることがあります。

 

もちろん、本当に事実として確認できることもあります。

 

そういうものについては、根拠を確認すればいい。

 

でも、科学的に確認できないことや、哲学、価値観、スピリチュアルな世界観については、

 

「これは一つの世界の見方でもあるんだな」

 

と、少し距離を置いて眺めてもいいのだと思います。






 

思想を「全部入り」で採用しなくてもいい


 

そして、ここで私は、とても自由なことに気づきました。

 

一つの思想を、全部そのまま採用しなくてもいい。

 

たとえば「引き寄せの法則」の中に、

 

「自分が望んでいる方向を意識してみよう」

 

「自分が本当に望んでいることに目を向けよう」

 

「希望を持って、その方向へ動いてみよう」

 

という考え方があったとします。

 

私はそこには魅力を感じる。

 

だったら、そこは自分の人生に取り入れてもいい。

 

でも、

 

「ネガティブなことを考えたら、ネガティブな現実を引き寄せる」

 

という部分は、自分を怖がらせ、自分の思考を監視することにつながる。

 

だったら、

 

「そこは私は採用しない」

 

でもいい。

 

「原因は自分」という考え方についても同じです。

 

何かが起きたとき、

 

「私にもできることがあったかな?」

 

「私はここから何を変えられるかな?」

 

と自分を振り返ることには意味を感じる。

 

でも、

 

「自分に起きたことは、すべて自分が原因」

 

というところまでは採用しない。

 

それでもいい。

 

思想を、パッケージごと受け取らなくてもいいのです。

 

自分にとって大切なところを受け取って、

 

違和感のあるところは保留にして、

 

必要ないと思ったものは置いていく。

 

そんな自由があっていいと思います。






 

それは「都合よく信じる」ということなのだろうか?

 

 

もしかすると、

 

「そんなふうに好きなところだけ取るのは、都合がよすぎるのでは?」

 

と思う人もいるかもしれません。

 

でも、私は必ずしもそうは思いません。

 

そもそも私たちは、これまでだってそうやって自分の世界観を作ってきたからです。

 

たくさんの人と出会い、

 

たくさんのことを経験し、

 

たくさんの情報に触れ、

 

「これは好き」

 

「これは違うと思う」

 

「以前はこう思っていたけれど、今は違う」

 

と変化しながら生きています。

 

だったら、スピリチュアルな考え方だけを特別扱いして、

 

「一度受け入れたら、全部信じ続けなければならない」

 

と考える必要もないのではないでしょうか。

 

自分の経験と照らし合わせながら、

 

今の自分が何を大切にしたいのかを選んでいく。

 

それも、自分の世界観を育てるということなのだと思います。






 

自分の世界観を、他人の正解にしなくてもいい


 

そして、自分なりの世界観ができたからといって、それを他の人にも信じてもらう必要はありません。

 

「私は今、こんなふうに世界を見ています」

 

それだけでもいい。

 

相手には相手の人生があります。

 

相手が経験してきたことがあります。

 

相手が大切にしているものがあります。

 

だから、

 

私には私の世界観があり、あなたにはあなたの世界観がある。

 

それでいい。

 

自分の世界観を大切にすることと、他人の世界観を尊重することは、両立できると思います。

 

 

 

 

 

 

「一人一宇宙」と考えてみる


 

私は以前から、「一人一宇宙」という言葉が好きです。

 

もちろん、

 

「一人ひとりが物理的に別の宇宙を作っている」

 

という意味ではありません。

 

これは、私にとっての比喩です。

 

一人ひとり、

 

経験してきたことが違う。

 

感じることが違う。

 

大切なものが違う。

 

世界を見る角度が違う。

 

その人にしかない世界の見え方がある。

 

それを一つの「宇宙」と呼んでみる。

 

そう考えると、私はなんだかとても自由な気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則に従う」から、「自分の宇宙を育てる」へ


 

以前の私は、

 

「宇宙の法則がこうなら、それに自分を合わせなければ」

 

と思うことがありました。

 

ネガティブにならないようにする。

 

波動を下げないようにする。

 

悪い現実を引き寄せないように、自分の思考を整える。

 

でも今は、少し違います。

 

どこか外側にある「正しい宇宙」に、自分を合わせ続けなくてもいい。

 

それよりも、

 

「私は、どんな世界観と一緒に生きたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

希望を持てるもの。

 

自分自身と仲良くなれるもの。

 

人生が少し豊かに感じられるもの。

 

世界への好奇心が広がるもの。

 

そんなものを、自分の世界に迎え入れていく。

 

そして、

 

「これはもう私には合わないな」

 

と思ったものは、手放してもいい。

 

私は、そのほうが好きです。

 

 

 

 

 

 

世界観は、完成しなくてもいい


 

そして、自分の世界観を完璧に完成させる必要もないと思います。

 

今日、

 

「私はこう思う」

 

と思っていたことを、

 

5年後には、

 

「あれ? 今はもうそう思わないな」

 

と思うかもしれません。

 

それでいい。

 

新しい経験をすれば、新しいことを感じる。

 

新しいことを知れば、考え方が変わる。

 

以前大切だったものが必要なくなることもあれば、昔は分からなかったものが、後になって大切になることもあります。

 

だから、

 

自分の宇宙を完成させるのではなく、自分と一緒に育てていく。

 

そんな感覚でもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

人生の主導権を、自分に戻す

 

自分の人生の主導権を持つということは、

 

世界で起きるすべてを、自分の思い通りにすることではない。

 

未来を完全にコントロールすることでもない。

 

私は今、

 

何を自分の世界に迎え入れるのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

そして、どんな方向へ歩いていきたいのか。

 

それを、自分自身で決められることなのではないかと思っています。

 

誰かの世界観を、そのまま自分の世界にしなくてもいい。

 

有名な人が言ったことも、

 

本に書いてあったことも、

 

スピリチュアルな教えも、

 

一度、自分の前に置いてみる。

 

「私はどう思う?」

 

「私はこれに魅力を感じる?」

 

「これは、今の私の人生を豊かにしてくれる?」

 

そうやって、自分と相談しながら選んでいく。

 

そして、迷ったら保留にしてもいい。

 

後から選び直してもいい。

 

自分の世界を作る決定権は、自分にある。

 

そう思えると、私は自分の人生の操縦席に、自分自身が戻ってきたような気がします。

 

「正しい世界」を探して、その世界に自分を合わせ続けなくてもいい。

 

自分自身と一緒に、

 

自分が生きたい世界を少しずつ育てていく。

 

それが私にとっての、

 

「一人一宇宙」

 

なのだと思います。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


怖いときは、決めなくていい

――自分の世界観を守るためのバウンダリー


 

前回、「自分の世界観を決める権利を、自分自身に戻していく」ということについて書きました。

 

スピリチュアルな世界には、さまざまな考え方があります。

 

「引き寄せの法則」

 

「原因は自分にある」

 

「思考が現実をつくる」

 

「波動」

 

「宇宙の法則」

 

私は、これらをすべて否定したいわけではありません。

 

今でもスピリチュアルな世界には好きなところがありますし、自分の人生を豊かにしてくれたものもあります。

 

だからこそ、

 

「スピリチュアルを信じるか、信じないか」

 

という二択ではなく、

 

「私は、何を自分の世界観として採用したいのだろう?」

 

と考えてみたいのです。

 

そして、そのために一つ、とてもシンプルな基準があることに気づきました。

 

怖いときは、決めなくていい。






 

不安や恐怖を感じたら、一旦立ち止まる


 

私は以前、

 

「不安や恐怖を感じさせるものは、採用しなくていい」

 

と考えていました。

 

今でも、その考え方は自分を守るうえで大切だと思っています。

 

でも、もう少し丁寧に考えてみると、

 

正しい情報であっても、怖いと感じることはあります。

 

健康について大切なことを知らされたとき。

 

災害についての情報を知ったとき。

 

自分にとって大きな問題に直面したとき。

 

真実かどうかと、怖いと感じるかどうかは、必ずしも同じではありません。

 

だから私は、

 

「怖いから間違っている」

 

と判断するのではなく、

 

「怖いと感じたから、今は決めない」

 

という選択があってもいいと思うようになりました。

 

採用しないと決めなくてもいい。

 

信じると決めなくてもいい。

 

否定もしなくていい。

 

ただ、

 

一旦、保留にする。

 

それだけです。

 

 

 

 

 

 

「すぐに決めない」ことも、バウンダリー


 

バウンダリーというと、

 

「NOと言うこと」

 

「断ること」

 

「ここから先には入れません、と線を引くこと」

 

というイメージがあるかもしれません。

 

でも、

 

「今は決めません」

 

というのも、一つのバウンダリーだと思います。

 

情報を受け取ったからといって、すぐ自分の中に入れなくてもいい。

 

本に書いてあるからといって、すぐ信じなくてもいい。

 

尊敬している人が言っているからといって、自分の世界観に採用しなくてもいい。

 

一度、自分の前に置いて眺めてみる。

 

「私はこれをどう感じている?」

 

「本当にそうなのかな?」

 

「私はこれを、自分の中に入れたい?」

 

そう考える時間を、自分に与えてもいい。

 

自分の内側にも、玄関があっていい。

 

訪ねてきた考え方を、すべてそのまま家の中に通さなくてもいいのです。

 

 

 

 

 

 

怖いと感じた自分を、今度は信じてみる


 

以前の私は、スピリチュアルな考え方を知って怖くなったとき、

 

「怖いけれど、宇宙の法則なら仕方がない」

 

という方向へ考えることがありました。

 

「ネガティブなことを考えたら、ネガティブな現実を引き寄せる」

 

そう聞いて怖くなったとしても、

 

「だったら、ネガティブにならないようにしなきゃ」

 

と、自分のほうを変えようとする。

 

でも今なら、

 

「あ、私、この考え方を聞いて怖くなっている」

 

と、まず自分の感覚に戻ることができます。

 

そして、

 

「じゃあ、今は採用しなくていいよ」

 

と、自分に言ってあげることができます。

 

怖さをなくしてから決めなくてもいい。

 

怖がっている自分を説得しなくてもいい。

 

まず、その自分と一緒に立ち止まる。

 

それだけでもいいのだと思います。






 

不安は「従いなさい」という命令ではない


 

不安や恐怖を感じると、

 

「怖いということは、きっとこれは重要なことなんだ」

 

「従わなかったら、本当に悪いことが起きるかもしれない」

 

と思うことがあります。

 

でも、

 

怖いと感じたことと、その情報が正しいことは別です。

 

同じように、

 

怖いと感じたことと、その情報が間違っていることも別です。

 

だから、不安や恐怖を「答え」にしなくてもいい。

 

私は、不安や恐怖を、

 

「一度、自分に戻ろう」

 

というサインとして扱ってもいいのではないかと思っています。

 

怖い。

 

じゃあ、少し待とう。

 

不安だ。

 

じゃあ、今は決めなくていい。

 

そうやって、判断するための時間を自分に返していく。






 

「正しいか」だけではなく、「私はこれに魅力を感じる?」


 

そして、もう一つ大切にしたい問いがあります。

 

それは、

 

「私は、この考え方に魅力を感じるだろうか?」

 

ということです。

 

世界観というものは、「正しいか、間違っているか」だけで選ばなくてもいいものもあると思います。

 

もちろん、事実について考えるときには、根拠を確かめることは大切です。

 

でも、哲学や価値観、人生をどう捉えるかというところには、

 

「私はどんな考え方と一緒に生きたい?」

 

という問いもあっていい。

 

この考え方を持っていると、私は自分を好きでいられるだろうか。

 

自分自身と仲良くなれるだろうか。

 

人生に希望を感じられるだろうか。

 

それとも、

 

自分を監視するようになるだろうか。

 

自分を怖がるようになるだろうか。

 

自分の感情を否定するようになるだろうか。

 

そんなふうに、自分との相性を確かめてもいい。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則だから」より、「私はどう感じている?」


 

以前なら、

 

「宇宙の法則なのだから、私が合わせなければ」

 

と思っていたことを、

 

今は、

 

「私は、この考え方と一緒に生きたい?」

 

と問い直すことができます。

 

これは、とても大きな違いです。

 

情報を基準にして、自分を評価するのではなく、

 

自分を基準にして、情報との関係を考える。

 

「この教えに合わない私は間違っている」

 

ではなく、

 

「この考え方は、今の私に合っている?」

 

と考える。

 

決定権が、自分のところに戻ってきます。






 

怖いときに急いで決めないことは、自分を守ること


世の中には、不安や恐怖、そして「時間がない」という感覚によって、人の判断を急がせるものがあります。

 

「今すぐ決めなければいけない」

 

「今を逃したら大変なことになる」

 

「これをしなければ悪いことが起きる」

 

そんな言葉を聞いて怖くなったときほど、

 

今すぐ決めなくてもいい。

 

もちろん、本当に急ぐ必要がある状況もあります。

 

だから「急かされたものは全部間違い」という意味ではありません。

 

ただ、

 

恐怖によって自分の判断が狭くなっていると感じたら、一度立ち止まる。

 

可能なら、時間を置く。

 

情報を確認する。

 

別の視点からも見てみる。

 

誰かに相談してみる。

 

そして、自分自身にも聞いてみる。

 

それは、自分の決定権を守るための大切なバウンダリーになると思います。

 

 

 

 

 

 

新しい「掟」を作らなくてもいい

 

そして、ここでまた一つ気をつけたいことがあります。

 

「怖いものは採用してはいけない」

 

という新しい掟を、自分の中に作らなくてもいいということです。

 

それでは、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

という以前のルールが、

 

「怖いものを信じてはいけない」

 

に変わっただけになってしまいます。

 

だから、

 

怖いものを信じてもいい。

 

あとで考えが変わってもいい。

 

一度手放した考え方を、また信じそうになってもいい。

 

迷ってもいい。

 

自分の世界観を、一度できれいに完成させなくてもいい。

 

その都度、

 

「今の私はどう思う?」

 

と、自分に戻ってくればいい。

 

 

 

 

 

 

縛りをほどくように、少しずつ自由になる


 

「ネガティブになったら、悪いことを引き寄せる」

 

「今起きていることは、過去の自分が作った」

 

「波動を下げてはいけない」

 

そうした考え方を深く信じていたなら、

 

「今日からやめます」

 

と言っただけでは、完全には消えないかもしれません。

 

それでもいい。

 

一本ずつ、結び目をほどいていくように、

 

「これは本当なのかな?」

 

「私はこれを持っていたい?」

 

「怖いなら、今日は決めなくてもいいよ」

 

と、自分に聞いていく。

 

そして少しずつ、

 

自分で自分を縛っていたものから、自分自身を自由にしていく。

 

私は、それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

何を信じるかを決める前に、自分のところへ帰ってくる

 

不安になってもいい。

 

怖くなってもいい。

 

迷ってもいい。

 

その感情を消してからでなければ、人生を選べないわけではありません。

 

怖かったら、

 

「怖いね。じゃあ、今は決めなくていいよ」

 

と、自分と一緒に立ち止まる。

 

そして落ち着いたら、

 

「これは事実として確認できる?」

 

「私はこれに魅力を感じる?」

 

「この考え方と一緒に生きたい?」

 

「この考え方を持つことで、私は自分自身と仲良くなれる?」

 

と、もう一度考えてみる。

 

答えは、そのとき出なくてもいい。

 

保留でもいい。

 

後から変わってもいい。

 

自分の世界観を決める権利は、自分にある。

 

そう思えるだけでも、

 

「この法則からは逃れられない」

 

という怖さから、少しずつ自由になっていけるのではないでしょうか。

 

怖いときは、決めなくていい。

 

まず、自分のところへ帰ってくる。

 

そして、自分と一緒に考える。

 

私は、それも自分自身と仲良くなるための、大切なバウンダリーなのだと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「宇宙の法則」って、そもそも何だろう?

――信じてきた世界観を、自分に優しく選び直す

 

 

スピリチュアルな世界には、私は今でも好きなところがあります。

 

だから、スピリチュアルそのものを否定したいわけではありません。

 

けれど最近、「原因は自分説」や「引き寄せの法則」について改めて考えている中で、一つ気づいたことがありました。

 

それは、

 

一度、自分の中に出来上がった世界観は、そんなに簡単には手放せない

 

ということです。

 

「この考え方は、もう私には必要ない」

 

そう決めれば、すぐ自由になれる。

 

必ずしも、そんなに簡単ではないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かに縛られたわけではない


 

私の場合、誰か一人から、

 

「これを信じなさい」

 

と言われたわけではありません。

 

何かの団体に所属して、決められた教義を教え込まれたわけでもありません。

 

自分で本を読み、いろいろなことを知り、自分が興味を持ったものを自分なりに取り入れてきました。

 

「思考が現実をつくる」

 

「引き寄せの法則」

 

「波動」

 

「原因は自分にある」

 

そうしたさまざまな考え方を知り、それらが少しずつ自分の中でつながっていきました。

 

そしていつしか、

 

「世界とは、こういう仕組みで動いている」

 

という、自分なりの世界観が出来上がっていったのだと思います。






 

自分の中に「スピリチュアルな世界と掟」ができていく


 

その世界観の中では、

 

ポジティブなことを考えれば、ポジティブな現実につながる。

 

ネガティブなことを考えれば、ネガティブな現実につながる。

 

自分の波動が、経験する現実に影響する。

 

起きたことの原因を、自分の中に探す。

 

そんなさまざまな考え方がつながっていきます。

 

すると、それは単なる「知識」ではなくなります。

 

いつしか、

 

「この世界では、こう生きなければならない」

 

という、まるで自分の中の「掟」のようになっていくことがあります。

 

誰かが監視しているわけではありません。

 

誰かが罰を与えるわけでもありません。

 

けれど、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

「波動を下げてはいけない」

 

「そうしなければ、幸せになれないかもしれない」

 

と、自分自身が自分を監視するようになる。

 

自分で作り上げた世界観の中で、自分自身がそのルールを守ろうとするようになるのです。

 

 

 

 

 

 

なぜ、簡単には手放せないのだろう?


 

でも、あるとき、

 

「私はもう、この考え方は好きじゃない」

 

と思ったとしても、簡単には離れられないことがあります。

 

なぜなら、自分の人生を振り返ったときに、

 

「あのとき願っていたことが本当に叶った」

 

「嫌なことを考えていたら、本当に嫌なことが起きた」

 

「気分がよかった時期には、いいことが続いた」

 

という経験を思い出すことがあるからです。

 

すると、

 

「やっぱり、あの法則は本当なのではないか」

 

と思います。

 

本に書いてあったから信じるだけではありません。

 

自分自身の経験が「証拠」のように感じられる。

 

だから、頭では、

 

「もう、この考え方から離れたい」

 

と思っていても、

 

心のどこかでは、

 

「でも、本当だったらどうしよう」

 

という怖さが残る。

 

だから簡単には離れられないこともあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「経験したこと」と「その経験についての説明」は別


 

ここで私は、一つ大切なことに気づきました。

 

自分が経験したことと、

その経験について自分が与えた説明は、同じものではない。

 

たとえば、

 

「願っていたことが実現した」

 

これは、自分が経験したことです。

 

でも、

 

「私の思考の波動が宇宙に作用して、その現実を引き寄せた」

 

となると、それは経験そのものではなく、経験についての一つの説明です。

 

願っていたから、そのために行動したのかもしれない。

 

願っていたから、関連する情報に気づきやすくなったのかもしれない。

 

周りの人との関わりが影響したのかもしれない。

 

偶然が重なったのかもしれない。

 

いろいろな要因があったのかもしれない。

 

あるいは、

 

なぜそうなったのかは、確認できない。

 

それでもいい。

 

自分の経験を否定する必要はありません。

 

ただ、

 

「私はこう経験した」と「だから宇宙はこういう法則で動いている」の間には、まだ距離がある。

 

そう考えるだけでも、少し余白が生まれます。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則」――ところで、その宇宙って何だろう?


 

そして、ここで究極的ともいえる、とてもシンプルな疑問が浮かびました。

 

スピリチュアルな本では、

 

「宇宙に願いを届ける」

 

「宇宙が応援してくれる」

 

「宇宙の法則」

 

「宇宙に委ねる」

 

といった表現を目にすることがあります。

 

私自身も「宇宙」という言葉を使ってきました。

 

でも、ふと思ったのです。

 

「この“宇宙”って、一体何なのだろう?」

 

天文学や物理学で扱われている、星や銀河や時空を含む宇宙のことでしょうか。

 

それとも、何らかの意思を持った存在なのでしょうか。

 

神のようなものなのでしょうか。

 

集合的な意識なのでしょうか。

 

エネルギーなのでしょうか。

 

それとも、目には見えない大きなものを表現するための比喩なのでしょうか。

 

私は、ここについて明確な答えを持っていません。

 

だから、

 

「確認できません」

 

というところに、一度置いてみてもいいのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

分からないことを、分からないままにしてもいい


 

もちろん、「宇宙」という言葉を使ってはいけないわけではありません。

 

「私にとって宇宙という言葉は、大きな流れを象徴する言葉です」

 

という使い方だってできます。

 

詩的な表現として使ってもいい。

 

自分の感覚を表現するために使ってもいい。

 

私は、そういう世界まで否定したいわけではありません。

 

ただ、

 

その「宇宙」が何を指しているのか自分でも分からないのに、

「宇宙の法則だから絶対に従わなければならない」と自分を怖がらせる必要があるのだろうか。

 

ここは、問い直してもいいのではないでしょうか。

 

「ネガティブなことを考えたら、宇宙がそれに合った現実を返してくる」

 

もし、それが怖くて不安を感じることさえ怖くなっているのなら、

 

一度、

 

「ところで、それは誰が確認した法則なのだろう?」

 

と立ち止まってみてもいい。

 

分からないことを「宇宙の法則」という言葉で確定させなくてもいい。

 

分からないなら、

 

「私には分からない」

 

でいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

信じるのをやめようとして、また信じてもいい


 

そして、一度深く信じた世界観なら、問い直したからといって翌日から完全に消えるわけではありません。

 

嫌なことが起きたとき、

 

「あ……昨日ネガティブなことを考えていたからかな」

 

と思うこともあるかもしれません。

 

それでもいい。

 

そこで今度は、

 

「また引き寄せを信じてしまった」

 

「こんな考え方をする私はダメだ」

 

と自分を責めたら、監視する対象が変わっただけです。

 

以前は、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

だったものが、

 

今度は、

 

「スピリチュアルなことを考えてはいけない」

 

になってしまいます。

 

それでは、やっぱり苦しい。

 

だから、

 

「ああ、私はまだそう結びつけることがあるんだな」

 

でいい。

 

そして、

 

「でも、本当にそれが原因だったかは分からないよね」

 

と、ほんの少し余白を作ってみる。

 

それくらいの優しい選び直しでもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルを捨てるのではなく、自分に決定権を戻す


 

私は、スピリチュアルのすべてを捨てたいわけではありません。

 

好きなものは、これからも好きでいていいと思っています。

 

自分の人生を豊かにしてくれるもの。

 

世界を見ることを楽しくしてくれるもの。

 

希望を感じられるもの。

 

自分自身と深くつながれるもの。

 

そういうものは、自分の中に残していい。

 

でも、

 

自分を怖がらせるもの。

 

自分を嫌いにさせるもの。

 

自分の思考を監視させるもの。

 

自分の感情を「悪いもの」にしてしまうもの。

 

それについては、

 

「これは本当に、これからの私が持っていたい考え方なのだろうか?」

 

と問い直してもいい。

 

すぐに答えが変わらなくてもいい。

 

少しずつ選び直していけばいい。

 

大切なのは、

 

自分の世界観を決める権利を、自分自身に戻していくこと。

 

なのだと思います。






 

「現実を創造する」という言葉も、もっと自由に考えていい


 

そして私は、「現実を創造する」という言葉そのものまで捨てなくてもいいと思っています。

 

ただ、その意味を少し変えてみる。

 

思考だけで宇宙を操作して、望んだ出来事を引き寄せる。

 

そういう意味ではなく、

 

私はこう生きたいという希望を持つ。

 

その方向へ一歩進んでみる。

 

何かを選ぶ。

 

行動する。

 

人と出会う。

 

ときには予定外のことが起きる。

 

そこでまた感じ、考え、次を選ぶ。

 

そうやって、自分の人生を少しずつ作っていく。

 

それもまた、「現実を創造する」ということなのではないでしょうか。

 

世界のすべてをコントロールできなくてもいい。

 

嫌なことが起きても、自分のせいにしなくていい。

 

不安になっても、未来を壊したと思わなくていい。

 

それでも、

 

「私は、ここからどんな方向へ歩いていきたい?」

 

という問いは、自分の手元にあります。






 

世界を支配する責任から降りて、自分の人生を生きる


 

すべての現実の原因を、自分にしなくてもいい。

 

すべての思考を、ポジティブに管理しなくてもいい。

 

「宇宙の法則」に背かない自分になろうとしなくてもいい。

 

分からないことは、分からないままでいい。

 

ネガティブな自分が出てきてもいい。

 

そして、以前信じていたものをまた信じそうになったっていい。

 

そのたびに、

 

「私は今、どう感じている?」

 

「私は何を信じたい?」

 

「私はどう生きたい?」

 

と、自分に戻ってくればいい。

 

すべての現実の原因は自分ではない。

でも、ここからの人生をどう生きたいか、その決定権は自分にある。

 

世界を支配する責任から降りても、

 

自分の人生まで手放す必要はありません。

 

むしろ、

 

世界を支配しようとすることから自由になったとき、

ようやく自分の人生を、自分の足で歩いていけるのかもしれません。

 

スピリチュアルを信じるか、信じないか。

 

その二択でなくてもいい。

 

好きなものは大切にして、

 

分からないものは分からないままにして、

 

怖くなったら立ち止まって、

 

そしてまた、自分で選ぶ。

 

そんなふうに、自分自身と仲良くしながら世界観を作っていくこともできる。

 

私は今、そのくらい自由でいいのではないかと思っています。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


「原因は自分」を手放しても、人生は自分で選べる


 

「ネガティブなことを考えていたから、ネガティブな出来事を引き寄せた」

 

スピリチュアルな世界では、ときどきそんな言葉を耳にします。

 

以前の私も、こうした考え方についていろいろ考えてきました。

 

けれど今、改めて考えてみると、とてもシンプルなことに気づきました。

 

そもそも、その出来事を「ネガティブな出来事」と決めているのは誰なのだろう?

 

ということです。






 

出来事そのものと、私の評価は別のもの


 

何かが起きたとします。

 

その出来事に対して、

 

「嫌なことが起きた」

「最悪な出来事だった」

「いいことが起きた」

「ラッキーだった」

 

と私たちは表現します。

 

でも、ここには「出来事」と「私の評価」という二つのものがあります。

 

出来事そのものに、最初から「ポジティブ」「ネガティブ」という札が貼られているわけではありません。

 

私はこれが好き。

 

私はこれは嫌だ。

 

私にとってこれは嬉しい。

 

私にとってこれは困る。

 

そうやって、自分自身がその出来事を感じ、評価し、意味づけしています。

 

もちろん、だからといって「どんな出来事もポジティブに考えよう」という話ではありません。

 

嫌なものは嫌でいい。

 

悲しいものは悲しいし、腹が立つことだってあります。

 

大切なのは、

 

「ネガティブな出来事が存在した」ということと、

「私はその出来事をネガティブだと評価した」ということは、厳密には同じではない

 

ということです。






 

「ネガティブ思考がネガティブな出来事を引き寄せた」という物語


 

たとえば、

 

「最近ずっとネガティブなことを考えていた」

 

その後、

 

「自分にとって嫌だと感じる出来事が起きた」

 

とします。

 

すると、

 

「ネガティブなことを考えていたから波動が下がり、その波動に合った出来事を引き寄せた」

 

と説明することもできます。

 

でも、確実に起きたことだけを取り出してみれば、

 

「ネガティブなことを考えていた」

 

「その後、ある出来事が起きた」

 

「私はその出来事を嫌だと感じた」

 

ということでもあります。

 

前に起きたことと、後に起きたこと。

 

この二つが時間的につながっているからといって、前者が後者を発生させたとは限りません。

 

 

 

 

 

 

そもそも「時間」って何だろう?


 

私たちは普段、時間を過去から現在、そして未来へと続いていく一本の流れのように感じています。

 

だから、その中で起きた出来事についても、

 

「あのあとに、これが起きた」

 

「こう考えていたときに、こんなことが起きた」

 

というように、前後の出来事を自然につなげて考えます。

 

でも、

 

前に起きたことと後に起きたことがつながって見えることと、

前の出来事が後の出来事を起こしたことは同じではありません。

 

私たちは時間の中で起きたさまざまな出来事をつなぎ合わせながら、自分なりの「物語」として理解していることがあります。

 

だから、ときにはその物語を少しほどいて、

 

「これは本当に原因と結果なのかな?」

 

「ただ前と後に起きただけなのかな?」

 

と見てみてもいいのだと思います。

 

すべてを一本につなげなくてもいい。

 

そう考えるだけでも、過去に今の原因を探し続けることから、少し自由になれるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

原因は自分にしなくても、人生は自分で選べる



 

では、「すべての原因は自分ではない」と考えたら、人生の主体性まで失われてしまうのでしょうか。

 

私は、むしろ逆なのではないかと思います。

 

何かが起きた。

 

それを私はどう感じるのか。

 

そして、ここからどうするのか。

 

Aを選ぶのか。

 

Bを選ぶのか。

 

何も選ばず、しばらく立ち止まるのか。

 

それは今の自分が決めることができます。

 

そして一つ選択すれば、その行動によって、その後に起こりうることも変わっていきます。

 

もちろん、選んだからといって、すべてが思い通りになるわけではありません。

 

自分以外の人も生きています。

 

社会も動いています。

 

自然もあります。

 

偶然もあります。

 

自分にはコントロールできないことが、世界にはたくさんあります。

 

だからこそ、

 

「世界のすべてを私が作っている」必要なんてないのです。

 

 

 

 

 

 

過去の自分を原因にしなくてもいい


 

「今こんなことが起きているのは、過去の私の思考が悪かったから」

 

「私の波動が低かったから」

 

「私がこの現実を引き寄せたから」

 

そうやって、今起きていることの原因を、いつも過去の自分の中から探さなくてもいいのだと思います。

 

今起きていることは、さまざまな要因が重なって起きているのかもしれない。

 

あるいは、私には原因が分からないことだってある。

 

分からないものは、分からないままでいい。

 

それでも私は、今ここからどうするのかを選ぶことができます。

 

過去の自分に今の責任を背負わせなくても、今の自分の人生を生きることはできるのです。

 

 

 

 

 

 

「ネガティブになってはいけない」という新しい苦しさ


 

そして、「ネガティブな思考がネガティブな出来事を引き寄せる」と考えると、もう一つの問題が生まれます。

 

「だったら、ネガティブなことを考えないようにしよう」

 

「嫌なことを引き寄せないように、ポジティブでいよう」

 

と思うようになることです。

 

実際、以前の私もそうでした。

 

嫌な出来事を引き寄せたくない。

 

嬉しいことが起きてほしい。

 

だったら、なるべくポジティブでいよう。

 

一見すると、自分を幸せにするための考え方に見えます。

 

でも、それがいつの間にか、

 

不安になってはいけない。

 

怒ってはいけない。

 

悪いことを考えてはいけない。

 

落ち込んではいけない。

 

という、自分の内側への監視に変わってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

ネガティブなことを考えるのも、人間として自然なこと


 

そもそも人間には、危険を察知し、自分の身を守るための仕組みがあります。

 

「大丈夫かな?」

 

「危険はないかな?」

 

「こんなことになったらどうしよう」

 

未来について心配したり、良くない可能性を考えたりすること自体は、人間として不自然なことではありません。

 

不安も恐れも、ときには私たちを守るために働きます。

 

だから、

 

不安を感じたというだけで、自分の状態が悪いことにはならない。

 

ネガティブなことを考えたからといって、自分を修正しなければならないわけでもありません。

 

嬉しいことを考えてもいい。

 

怖いことを考えてもいい。

 

希望を持ってもいい。

 

不安になってもいい。

 

人間なのだから、いろんなことを考えていい。

 

 

 

 

 

 

「ポジティブでいなければ」は、自分への抑圧になることもある


 

本当は怖い。

 

本当は悲しい。

 

本当は腹が立っている。

 

それなのに、

 

「こんなことを考えたら、悪いものを引き寄せてしまう」

 

と思って、その感情や思考を押し込める。

 

それでは、自分を幸せにするために始めたはずの考え方によって、自分自身の自由を奪ってしまいます。

 

私は、それは自分自身への抑圧になってしまうことがあると思います。

 

少し強い言葉を使うなら、

 

自分を守ろうとして、自分で自分をいじめてしまう。

 

そんな状態にもなり得るのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

不安になった自分を直すより、自分を知っていく


 

不安を感じたとき、

 

「こんなことを考えちゃダメ」

 

と消そうとするのではなく、

 

「私は、どうして不安なんだろう?」

 

と自分に聞いてみる。

 

すると、

 

傷つくことが怖かった。

 

失敗したくなかった。

 

大切なものを失いたくなかった。

 

安心したかった。

 

本当はこうしたかった。

 

そんな自分自身の気持ちが見えてくることがあります。

 

だから私は、ネガティブな思考をなくすことよりも、

 

「今、自分は何を感じ、何を考えているんだろう?」

 

と、自分自身を知っていくことのほうを大切にしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

思考は、ただの「思考」でもいい


 

私たちは普段、

 

「ポジティブ思考」

 

「ネガティブ思考」

 

という言葉を使います。

 

もちろん、物事を理解したり、人に伝えたりするためには便利な言葉です。

 

でも私は、それも人間が理解しやすいように分類し、名前をつけたものだと捉えています。

 

思考は、思考。

 

最初から「いい思考」「悪い思考」という札が貼られているわけではありません。

 

「ああ、今私はこんなことを考えているんだな」

 

それだけでもいい。

 

そう考えると、自分の中に浮かんだ思考と戦わなくてもよくなります。

 

 

 

 

 

 

過去の自分を責めず、今の自分を抑圧せず、ここから選ぶ


 

私は今、この三つがとても大切なのではないかと思っています。

 

過去の自分を、今起きていることの原因にして責めない。

 

今の自分に、「ポジティブでいなさい」と命令して抑圧しない。

 

そして、

 

今ここから、自分がどうしたいのかを選ぶ。

 

世界で起きるすべてのことを、自分が引き寄せたことにしなくてもいい。

 

自分の思考を完璧に管理しなくてもいい。

 

それでも、人生の主体性は失われません。

 

何を考えてもいい。

 

何を感じてもいい。

 

そして、その自分と一緒に、

 

「じゃあ、私はここからどうしたい?」

 

と考えればいい。

 

過去の自分が今を引き寄せたのではなく、

今の私は、ここから何を選ぼう?

 

私にとっては、こちらのほうがずっと自由です。

 

世界のすべての原因にならなくても、私は私の人生を生きることができる。

 

すべてをコントロールできなくても、そのとき、そのときの自分と一緒に選んでいくことはできる。

 

人生とは、過去の自分が作ってしまった現実を背負い続けることではなく、

 

今ここから、何度でも自分の足で歩いていけるもの。

 

そんなふうに考えると、
人生はもう少し自由で、もう少し軽やかなものになるのかもしれません。






 

魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「ネガティブに考えたから、嫌なことが起きた」は本当なのか?

――原因は自分説について考える

 

 

スピリチュアルな世界では、

ときどきこんな言葉を耳にします。

 

「ネガティブなことを考えていたから、波動が下がって嫌な出来事を引き寄せた」

 

「自分の波動に見合った出来事が現実に起きている」

 

以前の私は、

こうした考え方についていろいろ考えてきました。

 

けれど今、改めて考えてみると、

とてもシンプルなことに気づきました。


 

そもそも、その出来事を「ネガティブな出来事」と決めているのは誰なのだろう?

 

ということです。






 

出来事そのものと、私の評価は別のもの


 

何かが起きたとします。

 

その出来事に対して、

 

「嫌なことが起きた」

「最悪な出来事だった」

「いいことが起きた」

「ラッキーだった」

 

と感じることがあります。

 

でも、ここには「出来事」と「私の評価」という二つのものがあります。

 

出来事そのものに、最初から「ポジティブ」「ネガティブ」という札が貼られているわけではありません。

 

起きたことに対して、

 

私はこれが好き。

私はこれは嫌だ。

私にとってこれは嬉しい。

私にとってこれは困る。

 

そうやって、自分自身がその出来事を感じ、評価し、意味づけしています。

 

もちろん、だからといって「どんな出来事もポジティブに考えよう」という話ではありません。

 

嫌なものは嫌でいい。

 

悲しいものは悲しいし、腹が立つことだってあります。

 

大切なのは、

 

「ネガティブな出来事が存在した」ということと、

「私はその出来事をネガティブだと評価した」ということは、厳密には同じではない

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

「ネガティブ思考がネガティブな出来事を引き寄せた」という説明


 

ここで、いわゆる「原因は自分説」に戻ります。

 

たとえば、

 

「最近ずっとネガティブなことを考えていた」

     ↓

「嫌だと感じる出来事が起きた」

     ↓

「ネガティブな思考によって波動が下がり、その波動に合ったネガティブな出来事を引き寄せた」

 

という説明です。

 

一見すると、きれいにつながっているように見えます。

 

でも、私は今、この二つを因果関係として結びつける必要はないと思っています。

 

ネガティブなことを考えていた。

 

そして、ある出来事が起きた。

 

私はその出来事を嫌だと感じ、「ネガティブな出来事」と評価した。

 

それだけかもしれないからです。

 

つまり、

 

「ネガティブ思考をしていたこと」と「その出来事が発生したこと」は、

別々の出来事として考えることができます。

 

たまたま同じ時期に存在していたからといって、前者が後者を生み出したとは限りません。

 

 

 

 

 

 

「波動によって引き寄せた」は科学的に証明されているのか

 

 

2026年8月現在、私がここでいう、

 

「ネガティブな思考をすると波動が下がり、その波動と同質の外部の出来事が物理的に引き寄せられる」

 

という仕組みが、科学的事実として確立されているとは確認できません。

 

これは大切なところだと思います。

 

「科学で証明されていない=絶対に存在しない」という意味ではありません。

 

科学がまだ説明できていないこともあります。

 

けれど同時に、

 

「科学で否定できない=本当に存在する」でもありません。

 

わからないことは、わからない。

 

確認できていないことは、確認できていない。

 

私は、それでいいと思っています。

 

だから私は、スピリチュアルな考え方を楽しむことと、それを「現実に起きた出来事の原因」と断定することは分けて考えたいと思います。

 

 

 

 

 

 

「私が嫌だと思った」と「私が引き寄せた」はまったく違う


 

ここが、今回私が一番大切だと思ったところです。

 

何か嫌なことが起きたとき、

 

「私はこの出来事が嫌だ」

 

これは、自分自身の感覚です。

 

けれど、

 

「私がネガティブだったから、この出来事を引き寄せた」

 

となると、話が変わります。

 

これは自分の感覚ではなく、出来事がなぜ発生したのかという原因についての説明だからです。

 

私は雨が嫌いかもしれない。

 

でも、「雨を嫌だと思ったこと」と「雨が降った原因」は別です。

 

誰かの言葉に傷ついたとしても、「私はその言葉で傷ついたこと」と「その人がその言葉を発した原因」は別です。

 

この二つを混ぜなくてもいいのだと思います。






 

「原因は自分」ではなく、「評価しているのは自分」

 

 

そう考えていくと、私の中ではとてもシンプルになりました。

 

起きた出来事すべての原因が自分なのではなく、

その出来事を自分にとってどう感じ、どう評価するかは自分の内側にある。

 

「いいことが起きた」

 

「悪いことが起きた」

 

「今日は最悪だった」

 

「今日は最高だった」

 

私たちは普段、当たり前のようにこんな言葉を使います。

 

けれど、より丁寧に見れば、

 

「私にとって嬉しい出来事が起きた」

 

「私はこの出来事を嫌だと感じた」

 

「今日起きたことを、私はとても辛いと感じている」

 

ということなのかもしれません。

 

そこには、自分自身の価値観や好み、大切にしているもの、期待、過去の経験などが反映されています。

 

だからこそ、同じ出来事でも人によって感じ方が違うのでしょう。






 

自分の責任ではない。でも、自分の感覚は大切にする


 

私は、この考え方のほうが自分にとって自然です。

 

何か嫌なことが起きたとき、

 

「私がネガティブだったからだ」

 

「私の波動が低かったからだ」

 

「私がこの現実を引き寄せたんだ」

 

と、すべてを自分の責任にしなくてもいい。

 

ただ、

 

「私は、この出来事を嫌だと感じている」

 

それは大切にしていい。

 

出来事を起こした責任を自分に背負わせることと、自分が感じていることを自分のものとして受け止めることは、まったく別のことです。

 

むしろ私は、この二つを分けることで、自分自身の感覚が以前よりはっきり見えてくるように思います。

 

世界で起きるすべてのことを、自分の内側の状態と結びつけなくてもいい。

 

世界には、自分とは関係なく動いていることがたくさんあります。

 

その中でさまざまな出来事に出会い、

 

私はどう感じるのか。

私はどう受け止めるのか。

私はどうしたいのか。

 

そこに、自分自身の領域がある。

 

「すべての原因は自分」なのではなく、

「起きたことをどう感じているのかを知っているのは自分」。

 

今の私は、そのくらいの距離感で世界と自分を見ていたいと思っています。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



私はこれまで、ずっとどこかでモヤモヤしていたことがありました。

 

それは、

 

「人生に起こる出来事の原因は、すべて自分にある」

 

という考え方です。

 

本やSNS、スピリチュアルな世界などでも、似たような言葉を目にすることがあります。

 

自分の現実は自分がつくっている。

自分の内側が外側の世界に現れる。

起きた出来事には、自分にも原因がある。

 

私はこうした言葉を、自分の人生に起こるさまざまな出来事に当てはめて考えていました。

 

だから、人間関係で傷ついたときにも、

 

「こういう人と出会ったのは、私に何か原因があったからなのかな」

 

「私の振る舞いが悪かったのかな」

 

「相手がこういう態度を取ったのも、私の何かがそうさせたのかな」

 

そんなふうに考えてしまうことがありました。

 

確かに、どの出来事を振り返ってみても、そこには必ず「私」がいます。

 

だから、

 

「すべての出来事に共通しているのは自分なのだから、原因も自分なのではないか」

 

と思ってしまったのです。

 

でも今回、ふと気づきました。

 

人間関係の出来事には、私一人がいるわけではありません。

 

そこには、必ず相手もいる。

 

私には私の考えがあります。

 

私には私の感情があります。

 

そして、私は自分で選択して行動します。

 

でも、それは相手も同じです。

 

相手にも相手の考えがあり、

相手にも相手の感情があり、

相手も自分の意思で何かを選択し、行動しています。

 

そう考えたとき、

 

人と人との間で起きたことを、「すべて自分が原因」と考えることには無理がある

 

ということに気づきました。

 

もちろん、自分自身を振り返ることはできます。

 

「あのとき、私は本当は嫌だったのにNOと言えなかったな」

 

「もう少し早く距離を取ってもよかったな」

 

「相手に合わせすぎていたかもしれない」

 

「自分の気持ちをもっと大切にしてもよかったな」

 

そうやって、自分が選択したことや行動したことを振り返ることはできます。

 

そこは、自分の領域だからです。

 

でも、

 

相手が何を考えたのか。

相手がどんな目的を持っていたのか。

相手がどんな言葉を使ったのか。

相手が私に対してどんな行動を選んだのか。

 

それは相手の領域です。

 

私が境界線をうまく引けなかったことと、相手がどんな行動を選んだのかは、別の話なのです。

 

ここが、私にとってとても大きな気づきでした。






 

「原因」ではなく、「自分が選べること」に責任を持つ


 

さらに考えていくと、「すべて自分が原因」という言葉そのものについても、少し違って見えてきました。

 

自分の人生で起こることだとしても、すべてを自分が引き起こしているわけではありません。

 

天候も、社会も、偶然も、他人の行動も、自分だけでは決められません。

 

だから、

 

「人生で起きることは、すべて自分が原因」

 

なのではなく、

 

「自分が選べることについては、自分で選び、その選択を自分のものとして引き受ける」

 

ということなのだと思います。

 

私は何を大切にしたいのか。

 

私は何を選びたいのか。

 

私はどんな人と関わりたいのか。

 

私は何をしたくて、何をしたくないのか。

 

何かが起こったとき、私はこれからどうしたいのか。

 

これは自分で選ぶことができます。

 

だから、ここには自分の責任があります。

 

「責任」という言葉は、少し厳しく聞こえるかもしれません。

 

でも、この意味での責任は、

 

「悪いことが起きたのだから自分のせい」

 

という意味ではありません。

 

むしろ、

 

「私が選べるところについては、私が選ぶ」

 

ということ。

 

これは自分を責めるための責任ではなく、自分の人生を自分の手に戻すための責任なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の人生の操縦席に座るということ


 

私はこれまで、「自分の人生の操縦席に自分が座る」ということを大切にしてきました。

 

今回、この意味もさらに深くわかった気がします。

 

操縦席に座るというのは、

 

「私の身に起こることは全部、私が引き起こしている」

 

と思うことではありません。

 

他人が何を考えるかは、私には決められません。

 

他人がどんな行動をするかも、私には決められません。

 

予想もしなかった出来事が起こることだってあります。

 

それでも、

 

起きたことを受けて、私はこれからどうするのか。

 

そこには、自分で握ることのできるハンドルがあります。

 

誰かに嫌なことをされたとき、

 

「こんなことをされたのは、私に原因があるからだ」

 

と考えなくてもいい。

 

でも、

 

「私はこの人とこれからも付き合いたいのかな」

 

「嫌だったことを伝えたいのかな」

 

「少し距離を取りたいのかな」

 

「私はこれから、どんな人間関係をつくっていきたいのかな」

 

ということは、自分に問いかけることができます。

 

相手のハンドルまで握ろうとせず、自分のハンドルを自分で握る。

 

それが、自分の人生を生きることなのだと思います。






 

「こういう人と出会ったのも私のせい」と思わなくていい

 

 

私はこれまで、

 

「こういう人が自分の周りにいるということは、自分にも原因があるのかな」

 

「こういうご縁があったのは、自分の行いに何か問題があったからなのかな」

 

と考えてしまうことがありました。

 

でも今は、そこまで自分の責任として引き受けなくてもいいのだと思っています。

 

出会った相手がどんな人なのか。

 

相手が私に対してどんな振る舞いをするのか。

 

それは、私だけが決めていることではありません。

 

ただ、その人と出会ったあと、

 

私はどう感じたのか。

私はどうしたいのか。

その関係を続けるのか。

距離を取るのか。

何を許容し、何を許容しないのか。

 

そこは、私が選ぶことができます。

 

自分の領域は自分が引き受ける。

 

でも、相手の領域まで自分の荷物として背負わない。

 

この境界が、私には必要だったのだと思います。






 

一つの考えを、人生のすべてに当てはめなくてもいい


 

そして今回、もう一つ、とても大きなことに気づきました。

 

それは、

 

本やSNSなどで知った一つの考え方を、人生のあらゆる出来事に当てはめなくてもいい

 

ということです。

 

どんなに素晴らしい言葉でも、

どんなに有名な人が言っていることでも、

どんなに自分が信頼している思想でも、

 

「これは本当に、この場面にも当てはまるのかな?」

 

と、一度自分で考えてみてもいい。

 

ある場面では、とても役に立つ考え方が、

別の場面では、自分を必要以上に責める考え方になってしまうこともあります。

 

「自分の人生は自分で選ぶ」という考え方は、私に自分の人生を生きる力を与えてくれます。

 

でも、それを、

 

「だから、他人からされたことまで全部自分が原因」

 

と広げてしまったら、まったく違うものになってしまいます。

 

大切なのは、言葉をそのまま人生に当てはめることではなく、

 

その言葉が何を意味しているのか。

どこまでなら自分にとって本当なのか。

今の出来事にも、本当に当てはまるのか。

 

自分で感じ、自分で考えてみることなのだと思います。

 

それもまた、自分を知ることなのかもしれません。

 

そして、誰かが出した答えをそのまま自分の人生の正解にするのではなく、自分自身で確かめていく。

 

それこそが、自分の人生の操縦席に座ることなのだと思います。

 

今回、長い間どこかでモヤモヤしていたものが、少しほどけました。

 

すべてを自分のせいにしなくていい。

 

相手の選択は、相手のもの。

 

私の選択は、私のもの。

 

そして私は、

 

自分の責任ではないものまで背負うのではなく、自分が選べることを、自分で選んで生きていけばいい。

 

そのことに気づいたとき、「自己責任」という少し厳しく感じていた言葉が、私には少し違って見えました。

 

責任とは、自分を責めることではない。

 

自分の人生を、自分に返してあげること。

 

そして、誰かの言葉をそのまま正解にするのではなく、自分で考え、自分で感じ、自分で確かめながら生きていく。

 

私はこれからも、そんなふうに自分の人生をつくっていきたいと思います。







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現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



私たちは、何かを得ようとするとき、

 

「もっと知ろう」

「もっと学ぼう」

「もっと情報を集めよう」

 

と考えることがあります。

 

本を読んだり、誰かの話を聞いたり、動画を見たり。

 

もちろん、何かを知ること、学ぶことはとても大切です。

 

知らなかった世界を知ることで、今まで考えたこともなかったことを考えられるようになることもあります。

 

でも最近、私はふと思いました。

 

入れることと、生まれることには、違う時間が必要なのかもしれない。

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

本を見えないところに移したら、言葉が出てきた


 

今住んでいる家に引っ越してきた頃、私は寝室の見えるところにたくさんの本を置いていました。

 

私にとって本は大切なものです。

 

大好きな本だから、いつでも手に取れるようにしておきたい。

 

そんな気持ちで、自分のそばに置いていました。

 

ところが、その頃なぜか、ブログに書きたいことがあまり浮かばなくなりました。

 

何を書こう。

 

何について書こう。

 

考えても、なかなか出てこない。

 

そんな状態が1か月ちょっと続いていたと思います。

 

あるとき、ふと思いました。

 

「本を少し見えにくいところに移してみようかな」

 

そこで、同じ寝室のクローゼットへ本を移してみました。

 

捨てたわけでもありません。

 

別の部屋へ持っていったわけでもありません。

 

ただ、視界から外しただけです。

 

ところが、そのあと不思議と、

 

「これを書きたい」

「あれについても書きたい」

 

と、ブログで取り上げたいことがスラスラと出てくるようになりました。

 

本を見えなくしたことが直接の原因だったのかは分かりません。

 

でも私にとっては、とても印象に残っている体験でした。






 

情報は、多ければ多いほどいいわけではないのかもしれない


 

本があることは悪いことではありません。

 

本から得られるものはたくさんあります。

 

でも、情報というものは、

 

たくさんあれば、それだけ自分の中から何かが生まれやすくなる

 

とは限らないのかもしれません。

 

むしろ、外から入ってくるものが少なくなったときに初めて、自分の中にすでにあったものが見えてくることもある。

 

そんなことを思いました。

 

本を読めば、誰かが考えたことに触れることができます。

 

動画を見れば、誰かが作った世界に触れることができます。

 

SNSを見れば、次々と誰かの言葉や考えが入ってきます。

 

それらは私たちの世界を広げてくれます。

 

でも、それとは別に、

 

誰の言葉も入ってこない時間

 

も必要なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

入れる時間と、生まれる時間


 

何かを知るためには、入れる時間が必要です。

 

でも、自分の中から何かが生まれるためには、

 

何も入れない時間

 

も必要なのかもしれません。

 

入れる。

 

そして、いったん止める。

 

何も入れずに過ごす。

 

すると、それまでに見たもの、聞いたもの、経験したこと、感じたことが、自分の中で混ざり始める。

 

そしてあるとき、

 

「そういえば……」

 

「もしかすると……」

 

「こんなことをやってみたい」

 

というものが、ふっと出てくる。

 

それが、アイデアだったり、

 

ひらめきだったり、

 

想像だったり、

 

自分なりの考えだったりするのかもしれません。

 

そう考えると、

 

空白とは、何もない場所ではなく、何かが生まれるための場所なのかもしれない。

 

と思いました。






 

想像するためには、「まだない」が必要なのかもしれない


 

想像するということも、考えてみれば不思議です。

 

目の前にすべてが完成した状態で存在していたら、想像する必要はありません。

 

まだない。

 

まだ分からない。

 

まだ決まっていない。

 

だからこそ、

 

「こんなものがあったらいいな」

 

「こんなふうになったら面白いな」

 

「私はこうしてみたいな」

 

と、人は想像することができます。

 

何もないところに、心の中で何かを描いてみる。

 

そして、その中からアイデアが生まれる。

 

そう考えると、

 

「何もない」ということは、創造の始まりでもあるのかもしれません。






 

人生にも、空白が必要なのかもしれない


 

そして、このことを考えていたら、

 

これは本や情報だけではなく、人生にも同じことが言えるのではないかと思いました。

 

私たちは、空白ができると不安になることがあります。

 

予定がない。

 

やることがない。

 

次に何をするのか決まっていない。

 

目標がまだない。

 

これからどうなるのか分からない。

 

そんなとき、

 

「何かしなくちゃ」

 

「次を決めなくちゃ」

 

「この時間を無駄にしてはいけない」

 

と、急いで空白を埋めようとすることがあります。

 

でも、もしかすると、

 

その空白をすぐに埋めないからこそ、生まれてくるものもあるのではないでしょうか。

 

何も決めていないから、

 

「私は本当は何をしたいんだろう」

 

という問いが生まれる。

 

予定がないから、

 

「今日は何をしたい?」

 

と自分に聞くことができる。

 

誰かの答えを入れていないから、

 

「私はどう思う?」

 

という自分自身の声が聞こえてくる。

 

空白があるからこそ、自分の内側が動き始めることがあるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

空白は、「欠けている」ということではない


 

何もない状態を見ると、

 

「足りない」

 

と感じることがあります。

 

でも、

 

空白と不足は、同じではないのかもしれません。

 

何もないから、足りないとは限らない。

 

そこにはただ、

 

これから何かが生まれることのできる余地がある。

 

そう考えることもできます。

 

真っ白な紙に何も描かれていないからこそ、何を描くこともできるように。

 

予定のない一日だからこそ、その日の自分が選ぶことができるように。

 

何も決まっていない未来だからこそ、自分で作っていくことができるように。






 

空白の中で、自分から何が生まれるのか


 

最近私は、寝室にあった本を別の部屋へ移しました。

 

今度はさらに、寝室に残っている文字のあるものや時計なども減らしてみようと思っています。

 

できるだけ情報を少なくして、

 

心と体を休める部屋にしてみる。

 

そして、その空白の中で自分がどう感じるのかを、実際に体験してみたいと思っています。

 

何も変わらないかもしれません。

 

もっと落ち着くかもしれません。

 

新しいアイデアが生まれるかもしれません。

 

逆に、やっぱり何かを置きたいと思うかもしれません。

 

それは、やってみなければ分かりません。

 

だからこそ、楽しみです。






 

「何かを入れる」だけが、自分を育てることではない

 

学ぶことは大切です。

 

知ることも大切です。

 

誰かの言葉によって、自分では開けなかった扉が開くこともあります。

 

でも、

 

何かを入れることだけが、自分を育てることではないのかもしれません。

 

何も入れずに、

 

静かにして、

 

空白を作って、

 

その中から自分自身のものが生まれてくるのを待つ。

 

そんな時間も必要なのだと思います。

 

入れる時間と、生まれる時間には、違う時間が必要なのかもしれない。

 

たくさん知ったあとには、何も入れない時間を作ってみる。

 

たくさん考えたあとには、考えることさえ少しやめてみる。

 

そして空いたところから、

 

何が生まれてくるのかを見てみる。

 

空白は、

 

何もない場所ではなく、

 

まだ何にでもなれる場所。

 

もしかすると私たちは、その空白から、

 

新しいアイデアだけではなく、

 

次の自分や、

 

これからの生き方さえも、

 

少しずつ生み出しているのかもしれません。



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現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


「自分を知る」ということについて、私は最近よく考えています。

 

 

自分は何が好きなのか。

何が嫌なのか。

何を大切にしているのか。

どんなふうに生きたいのか。

 

こうしたことを自分に問いかけたり、自分の感情を感じたりすることも、

自分を知るためにはとても大切なことだと思います。

 

でも最近、もう一つ大切なことがあると感じました。

 

それは、

 

実際にやってみること。

 

考えているだけでは分からない自分が、そこにはいるからです。






 

知識だけでは分からない「私の答え」


 

本を読めば、いろいろな知識を得ることができます。

 

誰かの経験を聞けば、「そんな方法もあるんだ」と知ることもできます。

 

そして、自分の頭で考えることもできます。

 

「きっとこうしたほうがいいだろう」

「私はこういうものが好きなんだろう」

「これは私に必要なものだろう」

 

そんなふうに、自分なりの答えを考えることはできます。

 

でも、それが本当に今の自分に合っているのかは、実際にやってみなければ分からないことがあります。

 

知識として知ることと、自分自身が体験して知ることは、やっぱり少し違うんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

寝室から本を移してみた



 

私は最近、寝室に置いていた本を、隣の部屋へ移してみました。

 

寝室には、いつでも読めるようにと、たくさんの本を置いていました。

 

私にとって本は大切なものです。

 

ずっと大切に持っている本もあります。

 

一方で、まだ読んでいない本もたくさんあります。

 

でも、それらを全部まとめて「大切な本」として、自分のすぐそばに置いていました。

 

そして今回、それを隣の部屋へ移しました。

 

別に捨てたわけではありません。

 

ほんの数メートル歩けば、いつでも手に取ることができます。

 

それなのに、移動させることには意外なくらい勇気が必要でした。

 

大切なものが自分のそばからなくなることに、どこか寂しさを感じていたのだと思います。

 

「なんで隣の部屋に移すだけなのに、こんなに抵抗があるんだろう?」

 

自分でも不思議でした。






 

「大切」と「そばに置いておきたい」は同じなのか




 

そこで、ふと思いました。

 

私は、

 

「大切なものは、自分のそばに置いておきたい」

 

という感覚を持っているのかもしれない、と。

 

もちろん、それが良いとか悪いとかいうことではありません。

 

ただ、

 

「ああ、私はこういう感覚を持っているんだな」

 

と気づいたのです。

 

これも一つの「自分を知る」なのだと思います。

 

そして、さらに興味深いのは、

 

大切なものだからといって、

本当にいつも自分のそばに置いておく必要があるのだろうか?

 

ということです。

 

本を隣の部屋へ移したからといって、その本の大切さが失われるわけではありません。

 

大切な本は、隣の部屋にあっても大切な本です。

 

まだ読んでいない本については、これから読んでみて、本当にずっと持っていたい本なのかが分かるかもしれません。

 

だから今は、答えを決めなくてもいい。

 

一度、自分のそばから少し離してみる。

 

そして、その状態で暮らしてみる。

 

これは私にとって、一つの実験になりました。







 

以前は、逆の実験をしたこともある




 

そういえば以前、断捨離をしていたときにも、少し変わったことを試したことがあります。

 

断捨離では、捨てるかどうか迷うものを「保留ボックス」に入れて、しばらく見えないところに置いておく方法があります。

 

たとえば3か月間使わなかったら、

 

「今の自分には必要ないのかもしれない」

 

と判断する方法です。

 

でも私は一度、それとは逆のことをしてみました。

 

保留にしたものを、あえて自分の部屋の見えるところに集めて置いたのです。

 

当然、情報量は増えます。

 

視界に入るので、気にもなります。

 

でも、だからこそ、そのものと向き合わざるを得なくなりました。

 

「私は本当にこれを持っていたいのかな?」

 

「どうして手放せないんだろう?」

 

「今の私に必要なのかな?」

 

一つ一つのものについて、自分の気持ちを見ることになりました。

 

そして結果的には、そのとき保留にしていたものは、ほとんど、あるいは全部手放したと思います。

 

私にとっては、この方法もとても良い実験でした。






 

見えるところに置く実験と、見えないところへ移す実験



 

今振り返ると、この二つは正反対の実験だったのだと思います。

 

以前は、

 

迷っているものを、あえて自分の目の前に置いてみる。

 

今回は、

 

大切だと思っているものを、あえて自分のそばから少し離してみる。

 

どちらにも共通しているのは、

 

環境を実際に変えてみて、そのとき自分がどう感じるのかを見ること。

 

なんですよね。

 

頭の中だけで、

 

「これは必要」

「これは大切」

「これは手放せない」

 

と考えているだけでは気づかなかった自分が、実際にものを動かしてみることで見えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

時計もなくしてみようと思う




 

今度は、寝室に残っている本や文字のあるもの、時計なども、少しずつ隣の部屋へ移してみようと思っています。

 

できるだけ文字から離れて、情報を減らして、

 

心と体を休めるための部屋

 

にしてみたいからです。

 

ふと思いついたことを書けるように、メモだけは置いておこうと思っています。

 

そして時計については、以前にも自分の部屋からなくして生活したことがあります。

 

そのとき私は、時計のない生活をとても心地よく感じました。

 

もちろん、大切な予定がある日はスマートフォンのアラームを使えばいい。

 

だから今回も、また時計を外してみようかなと思っています。

 

これも、やってみなければ今の自分に合うかどうかは分かりません。






 

 

正解を決めるのではなく、試してみる




 

ここで大切なのは、

 

「寝室には本を置かないほうがいい」

「時計はないほうがいい」

 

という正解を作ることではないと思っています。

 

人によっては、枕元に大好きな本があることで安心して眠れるかもしれません。

 

時計があるほうが安心する人もいるでしょう。

 

だから、大切なのは一般的な正解ではなく、

 

「私はどうなんだろう?」

 

ということ。

 

そして、その答えを知るために、

 

実際にやってみる。

 

もし違ったら、戻せばいい。

 

本を隣の部屋へ移してみて、やっぱり一冊だけそばに置きたいと思ったら戻せばいい。

 

時計がない生活をしてみて、不便だと思ったら戻せばいい。

 

一度決めたことを、一生続けなければいけないわけではありません。

 

そう考えると、いろいろなことをもっと気軽に試せるような気がします。






 

自分を知ることは、自分を「生きてみる」こと



 

私はこれまで、「自分を知る」ということについてたくさん考えてきました。

 

自分の感情を見ること。

なぜそう感じるのかを知ること。

自分が何を大切にしているのかを知ること。

自分の内側に問いかけること。

 

どれも大切です。

 

でも今回、改めて思いました。

 

自分を知るには、自分を実際に生きてみることも必要なんだ。

 

頭の中で考えているだけでは、まだ分からない。

 

本で知識を得るだけでも、まだ分からない。

 

「こうかもしれない」と思ったら、少しやってみる。

 

環境を変えてみる。

 

いつもと違う選択をしてみる。

 

そして、そのときの自分の心や体の反応を感じてみる。

 

そうすると、自分から返事が返ってくることがあります。

 

「これは心地いい」

 

「これは違うみたい」

 

「なくても大丈夫だった」

 

「やっぱりこれは大切だった」

 

その一つ一つが、自分についての新しい発見になっていく。






 

自分の人生を、自分自身で実験してみる



 

今回、本を寝室から隣の部屋へ移したあと、私は少し気持ちに余裕ができたように感じました。

 

そしてその日は、久しぶりにスパイスカレーを作りました。

 

最近はなかなか料理をする気持ちになれなかったのに、その日はすっと作ることができて、しかも苦ではありませんでした。

 

もちろん、本を移動したことが直接の原因なのかは分かりません。

 

でも、

 

「環境を少し変えてみたら、私はこう感じた」

 

という事実は、自分の中に残ります。

 

これから寝室の情報をさらに減らしていったら、自分はどう感じるのか。

 

本を自分のそばから少し離した生活を続けてみたら、寂しさはどう変化するのか。

 

それとも、やっぱり大切な本をそばに置きたいと思うのか。

 

今はまだ分かりません。

 

だからこそ、楽しみです。

 

これは、誰かから答えを教えてもらうための実験ではありません。

 

自分自身を知るための実験です。

 

考えて、分からなければ、やってみる。

 

やってみて、自分がどう感じるのかを見る。

 

違ったら、また変えてみる。

 

そんなふうにして、自分についての答えを、自分自身の体験から少しずつ見つけていく。

 

自分を知るということは、

 

自分についてたくさん考えることだけではなく、

 

自分の人生を実際に生きながら、自分自身を発見していくことなのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



人生の主役は自分。技術は「プラスアルファ」でいい



 

ヒーリング、気功、セラピー、願望実現のメソッド。

 

私は、こうした技術を否定したいわけではありません。

 

むしろ、人生をより豊かにしたり、自分では気づかなかったものに気づいたり、希望へ向かって進む助けになったりする素晴らしい技術もあると思っています。

 

だからこそ私は、技術との付き合い方を大切にしたいと思っています。

 

最近の私の感覚を一言で表すなら、

 

技術は「プラスアルファ」でいい。

 

ということです。





 

土台にあるのは、自分



 

私の中では、こんな順番があります。

 

自分を知る。

 

自分とつながる。

 

自分と仲良くなる。

 

自分を信頼する。

 

その中から、自分が本当に望んでいることを知る。

 

そして、自分で選んでいく。

 

ここまでが土台です。

 

そのうえで、

 

「これを使ってみたい」

 

と思ったら、ヒーリングでも、気功でも、セラピーでも、さまざまな技術を使ってみればいい。

 

私はそれくらいの関係が好きです。

 

自分が土台。

技術はプラスアルファ。

 

だから、ある方法が合わなくても大丈夫です。

 

やってみて違うと思ったら、やめてもいい。

 

途中で別の方法に変えてもいい。

 

何も使わないという選択をしてもいい。

 

技術よりも自分の感覚を上に置いているから、自由に選べます。






 

「絶対に叶う」よりも大切にしたいもの



 

私は、すべての願いが必ず思い通りになる人生を目指したいわけではありません。

 

もちろん、希望することが叶ったら嬉しいです。

 

思い描いていた方向へ人生が進んだら嬉しい。

 

でも、それ以上に大切にしたいのは、

 

結果によって自分との関係が壊れないこと。

 

です。

 

願いが叶った私も好き。

 

願いがまだ叶っていない私も大切にする。

 

うまくできた私を信じる。

 

うまくできなかった私とも一緒にいる。

 

そして、

 

「じゃあ、これから私はどうしたい?」

 

と、また自分に聞いてみる。

 

私は、そんな自分との関係を育てていきたいと思っています。






 

安心から希望へ



 

自分を信頼できる。

 

自分の気持ちを聞ける。

 

必要なら選び直せる。

 

私は私を見捨てない。

 

そんな内側の安心が育ってくると、その安心の上から未来を見ることができます。

 

「失敗したらどうしよう」だけではなく、

 

「私は何を経験してみたいんだろう?」

 

と考えられる。

 

「正解はどれだろう」だけではなく、

 

「私はどちらを選びたいんだろう?」

 

と自分に聞ける。

 

そうすると、希望は「これが叶わなければ私は幸せになれない」という条件ではなくなります。

 

私は今ここにいて、ここからこんな世界へ行ってみたい。

 

そんな、自分から未来へ伸びていくものになっていきます。

 

そこに必要なら、技術を少し足せばいい。

 

ヒーリングを使ってもいい。

 

気功を使ってもいい。

 

セラピーを使ってもいい。

 

魔術という世界に惹かれるなら、それを探究してみてもいい。

 

でも、人生の主役の席は渡さない。

 

そこには、いつでも自分がいる。






 

自分を信じる力を土台にして、生きる



 

私がこれから大切にしていきたいのは、

 

自分を知り、自分とつながり、自分を信じる力を育てること。

 

そして、その安心の上から、自分の希望する人生へ進んでいくことです。

 

願いを叶えるためだけに自分を変えるのではなく、

 

自分との関係そのものを育てながら人生を生きる。

 

その途中で、さまざまな技術の力も借りる。

 

でも最後には、また自分に戻ってくる。

 

私の人生を生きるのは、私だから。

 

そして私は、この「自分とのつながり」こそが、
どんな技術を使うときにも、その下にある大切な土台なのだと思っています。






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願いが叶ったから安心、ではなく「私は私を信じられるから安心」

 

 

 

「願いを叶えたい」

 

そう思うことは、とても自然なことだと思います。

 

好きな仕事をしたい。

 

豊かに暮らしたい。

 

大切な人と幸せな関係を築きたい。

 

健康でいたい。

 

安心できる場所で暮らしたい。

 

人によって願いは違っていても、

「こうなったらいいな」という希望を私たちは持っています。

 

私自身も、希望する人生を生きたいと思っています。

 

でも最近、願いが叶うことよりも、もっと大切なものがあるのではないかと思うようになりました。

 

それは、

 

願いが叶っているかどうかにかかわらず、

自分自身を信頼し、安心していられること。

 

です。

 

 

 

 

 

「願いが叶えば安心できる」という順番



 

私たちはつい、

 

これが手に入ったら安心できる。

 

この問題が解決したら安心できる。

 

願いが叶ったら幸せになれる。

 

そんなふうに考えることがあります。

 

もちろん、実際に問題が解決したことで安心することもあります。

 

欲しかったものが手に入って嬉しいこともあります。

 

それ自体は自然なことです。

 

でも、自分の安心をすべて「外側の結果」に預けてしまうと、人生はとても不安定になります。

 

なぜなら、自分では完全にコントロールできないことも、この世界にはたくさんあるからです。

 

だったら、

 

願いが叶ったから安心する

 

だけではなく、

 

願いがまだ叶っていなくても、自分を信頼できるから安心していられる

 

という土台を育てることも、大切なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

「私は私を見捨てない」という安心



 

私が考える自己信頼は、

 

「私は何でもできる」

 

「私は絶対に失敗しない」

 

と思い込むことではありません。

 

うまくいかないことがあってもいい。

 

間違えることがあってもいい。

 

途中で考えが変わってもいい。

 

一度決めたことを、選び直してもいい。

 

それでも、

 

私はそのときの自分の気持ちを聞き、考え、また自分で選んでいける。

 

そう思えること。

 

そして、

 

何が起こっても、私は私を置き去りにしない。

 

そんな感覚が、自分への信頼につながっていくのではないかと思います。

 

これは、「世界では嫌なことが何も起こらない」という安心とは違います。

 

未来を完全にコントロールできるから安心なのでもありません。

 

何が起こるかわからない世界の中でも、

 

私は私と一緒にいられる。

 

そのことから生まれる安心です。

 

 

 

 

 

 

幸せを未来だけに置かない



 

もし、

 

「この願いが叶ったら幸せになれる」

 

と考えていたら、願いが叶うまでの時間は「まだ幸せではない時間」になってしまいます。

 

でも人生は、願いが叶った瞬間だけではありません。

 

そこへ向かっている今日も人生です。

 

迷っている今日も。

 

考えている今日も。

 

休んでいる今日も。

 

何かに気づいた今日も。

 

全部、自分の人生です。

 

だからこそ私は、未来の願いを持ちながらも、

 

今の自分とも仲良く生きていたい。

 

と思っています。

 

願いが叶ったら幸せになるのではなく、

今の自分とのつながりを育てながら、その安心の上に希望を乗せていく。

 

そんな生き方なら、
願いが叶うまでの道のりそのものも、
大切な人生になっていくのではないでしょうか。






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どんなに素晴らしい技術よりも、まず大切にしたいこと




 

世の中には、願いを叶えるためのさまざまな方法があります。

 

 

ヒーリング、セラピー、気功、願望実現のメソッド。

そして昔から存在する魔術や呪術なども、

「何かを変えたい」「願いを実現したい」という人間の思いから生まれてきたものの一つなのかもしれません。

 

私自身も、これまでさまざまな技術や考え方に触れてきました。

 

そして最近、改めて思うことがあります。

 

それは、

 

どんなに素晴らしい技術があったとしても、

一番大切なのは、自分自身の内側なのではないか。

 

ということです。

 

もちろん、私は技術が必要ないとは思っていません。

 

ヒーリングにも、気功にも、セラピーにも、それぞれの良さがあります。

 

自分だけでは気づけなかったことに気づくきっかけになったり、今までとは違う視点を持てたり、一歩踏み出す助けになったりすることもあります。

 

だから、技術そのものを否定したいわけではありません。

 

ただ、私はそれよりも前に、

 

その技術を使う「自分」は、今どんな状態なのだろう?

 

ということを大切にしたいのです。






 

「この方法なら幸せになれる」に安心を預けない


 

新しい方法を知ったとき、

 

「これなら人生が変わるかもしれない」

 

と希望を感じることがあります。

 

その希望によって、今までできなかったことに挑戦できたり、物事を見る目が変わったりすることもあるでしょう。

 

でも、

 

「この方法さえあれば大丈夫」

 

「これを続けていれば願いが叶う」

 

「この先生についていけば幸せになれる」

 

というところに、自分の安心まで預けてしまったらどうでしょう。

 

その方法で思うような結果が出なかったとき、自分の安心まで一緒に揺らいでしまいます。

 

すると、

 

「もっと効果のある方法はないだろうか」

 

「もっとすごい先生はいないだろうか」

 

「もっと強力な技術が必要なのではないか」

 

と、答えを外へ外へと探し続けることにもなります。

 

でも本当に育てたかったものは、そこではないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

技術より先に、自分とのつながりを育てる



 

私が大切にしたいのは、

 

自分が何を感じているのかを知ること。

 

自分が本当は何を望んでいるのかを知ること。

 

なぜ私はこれを選びたいのかを知ること。

 

そして、自分で考え、自分で選んだ自分自身を信頼していくことです。

 

つまり、

 

自分を知り、自分とつながり、自分を信じる力を育てること。

 

私はここが、人生の土台になるのではないかと思っています。

 

その土台があったうえで、必要ならヒーリングを使う。

 

気功を使う。

 

セラピーを受ける。

 

何かのメソッドを試してみる。

 

それでいいのだと思います。

 

技術を人生の主役にするのではなく、

 

自分が人生の主役であり、技術は自分を助けてくれるもの。

 

私は、そんな関係でありたいと思っています。

 

 

 

 

 

主役は、いつでも自分


 

どんなに素晴らしい方法を知っていても、人生を生きるのは自分です。

 

何を望むのか。

 

何を選ぶのか。

 

何をやめるのか。

 

そして、うまくいかなかったときに、そこから何を感じ、次に何を選ぶのか。

 

それを決めていくのも自分です。

 

だから私は、技術を学ぶこと以上に、

 

自分とのつながりを育てることを大切にしたい。

 

技術に自分の人生を預けるのではなく、

自分の人生のハンドルを自分で持ったまま、必要なときには技術の力も借りる。

 

そんな生き方が、私の考える「自分らしい人生」につながっていくのだと思います。






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「嫌いじゃないから残す」から、「私はこれを選ぶ」へ。

断捨離で気づいた人生の選び方

 

 

 

最近、少しずつ断捨離をしています。

 

ただ物を減らしたいというよりも、

 

「未来の私は、どんなものを身の回りに置いているだろう?」

 

そんなことを考えながら、今の自分の身の回りにあるものを、一つひとつ見直しています。

 

そんな中で、ふと気づいたことがありました。

 

それは、

 

好きでもない。

でも、嫌いでもない。

 

そんなものが、意外と身の回りに残っているということです。

 

嫌いなものなら、「もういらない」と比較的簡単に気づけます。

 

壊れていたり、明らかに使わなくなったものも、手放す判断がしやすい。

 

でも、

 

「別に嫌いじゃない」

「まだ使おうと思えば使える」

「特に困っているわけでもない」

 

そんなものは、なかなか気づきません。

 

ずっとそこにあるうちに、いつの間にか日常の風景になってしまうからです。

 

 

 

 

 

 

「残っている」と「残す」は違う



 

もちろん、好きでも嫌いでもないものを持っていてはいけないわけではありません。

 

それを残すのも、一つの選択です。

 

でも今回、私が気になったのは、

 

「私はこれを残したいから残している」のか、

「捨てる理由がないから、なんとなく残っている」のか。

 

という違いでした。

 

外から見れば、どちらも同じように「その物を持っている」状態です。

 

でも、自分の中ではまったく違います。

 

「私はこれを残す」と決めたのであれば、そこには自分の意思があります。

 

一方で、

 

「嫌いじゃないから」

「まだ使えるから」

「なんとなく」

 

という理由だけで置き続けているものは、自分で選んだというより、選択しないまま時間だけが過ぎていることもあります。

 

そして私は、

 

これって、物だけではなく人生にもあるのではないだろうか?

 

と思いました。

 

 

 

 

 

 

人生にも「なんとなく残っているもの」がある



 

仕事、人間関係、習慣、暮らし方。

 

私たちの人生には、

 

「ものすごく嫌なわけではない」

「今すぐ変えなくても困らない」

「このままでも一応やっていける」

 

というものが、たくさんあると思います。

 

だから、そのままでも生きていくことはできます。

 

でも、

 

「このままでもいい」と、

「私はこれを選んでいる」は、同じではない。

 

嫌ではないから続けているのか。

 

それとも、

 

「今の私は、これを続けたい」

 

と自分で選んでいるのか。

 

その違いは、とても小さなものに見えて、実は大きいのではないかと思います。

 

自分で「こうしよう」と決めなければ、物事はそのまま動かないことがあります。

 

それが悪いという意味ではありません。

 

ただ、何も選ばなければ、それまでの流れがそのまま続いていくことも多い。

 

だからこそ人生では、大きな決断だけではなく、

 

小さなことから「私はどうしたい?」と自分に問い、自分で決めていくことが大切なのではないか。

 

断捨離をしながら、そんなことを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

白か黒だけが「決める」ではない



 

そして、もう一つ気づいたことがあります。

 

「自分で決める」というと、

 

YESかNOか。

やるか、やらないか。

残すか、捨てるか。

 

そんなふうに、白か黒かを決めなければいけないようにも感じます。

 

でも、そうではないんですよね。

 

グレーを選んでもいい。

 

「今はまだ分からない」

 

「もう少し使ってから考えたい」

 

「今すぐ答えを出したくない」

 

そう思うのであれば、

 

「今は保留にする」と自分で決めればいい。

 

それも立派な選択です。

 

答えが出ないことと、何も考えずに放置することは違います。

 

「今は答えが出ない。だから、今は決めないことにする」

 

そこに自分の意思があるのなら、それも自分で選んだ人生の一部なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

大切なのは、自分の人生に自分が参加すること




 

そう考えていくと、人生を自分で選ぶというのは、すべてのことに明確な答えを出し続けることではないのだと思います。

 

大切なのは、

 

自分の人生を無意識のまま放置しないこと。

 

「私はこれが好きだから選ぶ」

 

「これはもう必要ないから手放す」

 

「これはまだ分からないから、今は保留にする」

 

どの答えでもいい。

 

そのときの自分が感じ、考え、自分なりに決める。

 

それを繰り返していくことが、自分の人生を生きるということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

未来の自分なら、これを選ぶだろうか?



 

今回、私は断捨離をしながら、

 

「未来の自分なら、これを持っているだろうか?」

 

という視点で物を見るようになりました。

 

もちろん、未来がどうなるかなんて分かりません。

 

だから未来を当てようとしているわけではありません。

 

むしろこれは、

 

「私はこれから、どんな自分として生きていきたいのだろう?」

 

と、今の自分に問いかけているのだと思います。

 

未来を想像することで、今の自分の望みが見えてくる。

 

そして、その未来につながるものを、今日一つ選んでみる。

 

断捨離という、とても日常的な行動の中にも、そんな人生の選択があるのだと気づきました。

 

「嫌いじゃないから残す」から、

「私はこれを選ぶから残す」へ。

 

そして、

 

「分からないから放置する」から、

「今はグレーにすると決める」へ。

 

人生は、大きな決断だけでつくられているわけではないのだと思います。

 

今日何を残すのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

 

そんな小さな選択の一つひとつにも、自分の意思を戻していく。

 

そうして少しずつ、

 

「なんとなく続いている人生」から、

「私が選んでいる人生」へ。

 

断捨離をしながら、私はそんなことを改めて感じました。







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バウンダリーは、相手を遠ざけるための壁ではない




 

「バウンダリー」「境界線」という言葉を初めて聞いたとき、私は少し冷たいもののように感じていました。

 

ここから先は、私の領域。

 

ここからは入ってこないでね。

 

そんなふうに、人との間に線を引いて、相手を遠ざけるもののように感じていたのです。

 

もしかすると、同じような印象を持つ人もいるのではないでしょうか。

 

でも、自分自身のバウンダリーについて考え、少しずつ育てていく中で、今はまったく違うものに感じています。

 

バウンダリーとは、

 

相手を拒絶するための線ではなく、自分と相手の両方を尊重するためのもの。

 

私は今、そんなふうに感じています。






 

「私はこう感じる。だからあなたも同じ」は、本当に尊重なのだろうか

 

 

 

例えば、私はある出来事に悲しさを感じたとします。

 

すると以前の私は、

 

「こんなことをされたら、誰だって悲しいよね」

 

と思ってしまうことがありました。

 

自分が悲しいのだから、相手も同じことをされたら悲しいはず。

 

自分が嬉しいのだから、相手も嬉しいはず。

 

自分ならこうするのだから、相手も同じようにするはず。

 

一見すると、これは相手の気持ちを考えているようにも見えます。

 

でも今は、少し違うように感じています。

 

私は悲しい。

 

それは私の感情です。

 

でも、同じ出来事について相手がどう感じるのかは、相手にしか分かりません。

 

もしかすると悲しいかもしれない。

 

何とも思わないかもしれない。

 

あるいは、私には想像できなかった感じ方をするかもしれない。

 

「私はこう感じる。でも、あなたがどう感じるかは、あなたのもの。」

 

そう考えられることも、相手への尊重なのだと思います。







 

自分と相手を分けるからこそ、相手を一人の人間として見られる




 

バウンダリーというと、「自分を守る」という側面がよく語られます。

 

もちろん、それも大切です。

 

でも、バウンダリーにはもう一つ、とても大切な役割があるのだと思います。

 

それは、

 

相手を自分とは違う、一人の人間として尊重すること。

 

「私ならこうするのに、どうしてあなたはしてくれないの?」

 

そんな怒りの奥には、ときとして、

 

「あなたも私と同じ価値観のはず」

 

という前提が隠れていることがあります。

 

でも、本当は違うのかもしれません。

 

私はこれを大切にする。

 

でも、相手は別のものを大切にしている。

 

私はこの言葉を悲しいと感じる。

 

でも、相手は同じ言葉をそれほど重く受け取らない。

 

私と相手は、同じ世界を生きているように見えて、それぞれ違う経験をし、違う価値観を持ち、違う感じ方をしています。

 

だから、

 

私は私。あなたはあなた。

 

これは、冷たい言葉ではないのだと思います。

 

むしろ、

 

「あなたには、私には分からないあなたの世界があるんだね」

 

と認めること。

 

それは、とても深い尊重なのではないでしょうか。

 

相手を理解することと、受け入れることは違う

 

ここで、私がとても大切だと感じていることがあります。







 

相手を理解することと、その人の行動をすべて受け入れることは違います。

 

 

 

 

「この人には、この人なりの事情があったのかもしれない」

 

と思うことはできます。

 

でも同時に、

 

「それでも私は悲しかった」

 

と言っていい。

 

相手に悪気がなかったとしても、

 

「私はその関わり方は望みません」

 

と伝えてもいい。

 

相手の考えを尊重しながら、

 

「でも私は、その考えには賛同しません」

 

と距離を取ることもできます。

 

以前の私は、相手を理解すると、自分が我慢しなければならないように感じることがありました。

 

相手にも事情がある。

 

悪気があったわけではない。

 

だから私が受け入れればいい。

 

でも、それでは自分の気持ちが置き去りになってしまいます。

 

本当の意味で相手を尊重することは、自分を犠牲にすることではありません。

 

あなたの気持ちも大切。

そして、私の気持ちも大切。

 

その二つを同時に存在させるために、バウンダリーがあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

バウンダリーは「壁」ではなく「橋」




 

私は以前、バウンダリーとは壁のようなものだと思っていました。

 

でも今は、むしろ「橋」に近いものなのではないかと感じています。

 

境界線がない状態では、自分と相手が混ざってしまいます。

 

「私がこう思うのだから、あなたもそう思うはず」

 

「あなたが悲しんでいるから、私も何とかしなければ」

 

「あなたが望んでいるから、私は嫌だけれど応えなければ」

 

そんなふうに、どこまでが自分で、どこからが相手なのかが分からなくなってしまうことがあります。

 

でも、まず、

 

こちら側に私がいる。

向こう側にあなたがいる。

 

ということが分かっていれば、その間に橋を架けることができます。

 

「私はこう感じています。あなたはどうですか?」

 

「私はこうしたいです。あなたはどうしたいですか?」

 

「ここまではできます。でも、ここから先はできません。」

 

そうやって、お互いの世界を尊重しながら関わることができる。

 

境界があるから、つながることができる。

 

これは、一見すると不思議なことかもしれません。

 

でも、境界のない「一体化」と、お互いを尊重した「つながり」は、まったく違うものなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「誰が悪いか」から、「私はどうしたいか」へ



 

バウンダリーが育ってくると、何か問題が起きたときの感じ方も、少しずつ変わってくるように感じています。

 

もちろん、腹が立つこともあります。

 

「あの人が悪い」と思うことだってあります。

 

それも人間として自然な反応なのだと思います。

 

でも、その先で、

 

「私は何に傷ついたんだろう?」

 

「私は本当は、どうしてほしかったんだろう?」

 

「私は何を大切にしていたんだろう?」

 

「そして、これから私はどうしたいんだろう?」

 

と、自分自身へ意識を戻せるようになっていく。

 

すると、相手を責め続けることだけが、自分を守る方法ではなくなっていきます。

 

相手を悪者にしなくても、

 

「私は嫌だった」

 

と言える。

 

相手を変えなくても、

 

「私はここから離れます」

 

と選べる。

 

相手の価値観を否定しなくても、

 

「私は違うものを選びます」

 

と言える。

 

そこに、自分自身への信頼も育っていくのだと思います。







 

私は私。あなたはあなた。それでも、つながることはできる

 

バウンダリーは、人とのつながりを切るためのものではありません。

 

むしろ、

 

自分を失わずに、人とつながるためのもの。

 

なのだと思います。

 

私は私の気持ちを大切にする。

 

あなたには、あなたの気持ちがあることを認める。

 

私は私の人生を選ぶ。

 

あなたには、あなたの人生を選ぶ自由がある。

 

その上で、一緒にいられるところでは一緒にいる。

 

違うところでは、お互いの違いを認める。

 

そして、どうしても一緒にいることが苦しいのであれば、距離を取ることもできる。

 

それは冷たさではなく、お互いを一人の人間として扱うことなのだと思います。

 

だから今の私は、バウンダリーという言葉に、以前ほど冷たいものを感じません。

 

むしろ、とても優しいものに感じています。

 

自分を大切にするために、相手を悪者にしなくていい。


相手を大切にするために、自分を犠牲にしなくていい。

 

私は私。

 

あなたはあなた。

 

そして、その二人が必要なときに橋を架けて出会う。

 

それが、人と人が本当の意味で尊重し合いながらつながるということなのかもしれません。

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「好きだから我慢する」から卒業する——自分とのつながりとバウンダリーを育てる

 

 

 

 

好きなものなのに、関わっていると苦しくなる。

 

好きな人なのに、一緒にいると傷つく。

 

好きな場所なのに、そこにはどうしても不快に感じるものがある。

 

学びたいことがあるのに、その環境には自分には合わない価値観がある。

 

こういうことは、意外と人には話しにくいものなのかもしれません。

 

「好きなら続ければいいじゃない」

 

「嫌ならやめればいいじゃない」

 

外から見れば、その二択で簡単に答えが出るように見えるからです。

 

でも、自分の中ではそんなに単純ではありません。

 

好きだから離れたくない。

 

でも、嫌だと感じている自分もいる。

 

その二つの気持ちの間で、密かに迷い続けることがあります。

 

 

 

 

 

 

「好き」を優先していた頃


 

私自身、以前は「好き」という気持ちをとても大切にしていました。

 

もちろん、好きなものを大切にすること自体は素敵なことです。

 

でも私の場合は、そこに一つの癖がありました。

 

好きなものを得るためなら、同時に存在する「嫌だ」「苦しい」「不快」という感覚を我慢してしまうことがあったのです。

 

「でも、ここは好きだから」

 

「良いところもあるから」

 

「これくらい我慢すればいい」

 

そうやって、「嫌だ」と感じている自分の声よりも、「好き」を優先していました。

 

そのときの私は、好きなものを大切にしているつもりでした。

 

でも今振り返ってみると、好きなものを守るために、嫌だと感じている自分を置き去りにしていたところもあったのだと思います。

 

次の段階で起きたこと

 

その後、少しずつ自分とのつながりやバウンダリーについて考えるようになりました。

 

すると、以前とは違う選択をするようになりました。

 

「確かにここは好き。でも、同時に私は嫌だとも感じている」

 

その「嫌だ」を、なかったことにしなくなったのです。

 

好きか、嫌いか。

 

どちらか一つに決めなくてもいい。

 

好きな部分があることも本当。

 

不快に感じていることも本当。

 

その両方が同時に存在してもいいのです。

 

そして今の私は、好きなものがそこにあったとしても、同時にある不快感が自分にとって大きいのであれば、

 

「今の私には、ここから離れることが必要なんだ」

 

と考えるようになりました。

 

これは、好きなものを否定することではありません。

 

まして、相手を悪者にすることでもありません。

 

好きだったこと、素晴らしいと思ったこと、そこから受け取ったもの。

 

それらはそのままでいい。

 

ただ同時に、

 

「私はここに居続けると苦しい」

 

という自分の感覚も、大切にする。

 

それだけなのです。





 

「嫌だ」は、自分を知るためのセンサー



 

以前の私は、「嫌だ」と思っても受け入れることがありました。

 

でも、何でも受け入れ続けていると、自分の感覚は少しずつぼやけていきます。

 

私は何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何を選びたいのか。

 

本当はどうしたいのか。

 

それさえ分からなくなっていくことがあります。

 

だから今は、「嫌だ」「なんとなく違う」「ここにいると苦しい」という感覚も、自分を知るための大切な情報なのだと思っています。

 

もちろん、違和感を感じたものすべてが悪いわけではありません。

 

「嫌だ」という感覚が、いつでも絶対的に正しい答えを教えてくれるわけでもありません。

 

でも、

 

「私は今、何かに反応している」

 

ということを知らせてくれるセンサーにはなります。

 

そこで一度、自分に聞いてみる。

 

「私は何が嫌だったんだろう?」

 

「何に違和感を感じたんだろう?」

 

「ここに居続けることで、私は自分らしくいられるだろうか?」

 

そうやって、自分の感覚を無視せずに聞いてあげる。

 

それも、自分とのつながりを育てることなのだと思います。






 

バウンダリーにも、育っていく段階がある



 

私は、バウンダリーにもいくつかの段階があるのではないかと思っています。

 

最初は、嫌なことがあっても受け入れてしまう。

 

次に、「私は嫌なんだ」と気づけるようになる。

 

そして、「嫌だと感じている自分を大切にしよう」と、そこから距離を取れるようになる。

 

さらに自分のバウンダリーが育っていけば、いつかは、

 

「ここは好き。でも、これは私は受け取らない」

 

と、同じ場所にいながら自分と他者を分けられるようになることもあるのかもしれません。

 

でも、今の私には、それが正解なのかは分かりません。

 

だからこそ、今できることを大切にしたいと思っています。

 

今の私に必要なのは、何でも受け入れられる自分になることではなく、

 

自分の輪郭をもう一度育てること。

 

「私はこれが好き」

 

「これは嫌だ」

 

「これは心地いい」

 

「これは私には合わない」

 

そんな一つひとつの感覚を、ちゃんと自分のものとして感じられるようになることです。

 

 

 

 

 

 

 

離れることは、弱さではない



 

嫌なものから距離を取ろうとすると、

 

「私が弱いからかな」

 

「もっと気にしない人になったほうがいいのかな」

 

と思うこともあるかもしれません。

 

でも私は今、そうは考えていません。

 

自分の感覚がまだ十分に育っていないと感じる時期だからこそ、何を自分の中に入れるのかを丁寧に選ぶ。

 

それは逃げることではなく、

 

自分自身を育て直すための選択

 

なのだと思っています。

 

そして、距離を取るために、相手を悪者にする必要もありません。

 

「あなたが間違っているから離れます」

 

ではなく、

 

「あなたにはあなたの考え方がある。でも、今の私には合わないから、私は離れます」

 

それでいい。

 

相手を尊重しながら、自分も尊重する。

 

それがバウンダリーなのだと思います。







 

好きなものより、自分を置き去りにしない

 

 

 

好きなものを大切にすることは素敵です。

 

でも、その好きなものを手に入れるために、自分自身を置き去りにしなくてもいい。

 

私は今、

 

「好きだから我慢する」から、「好きだけれど、自分も大切にする」へ

 

少しずつ生き方を変えている途中なのだと思います。

 

そしていつか、自分のバウンダリーがもっと育ったときには、今とはまた違う選択ができるようになっているかもしれません。

 

それは、そのときの自分に任せればいい。

 

今はまず、

 

「私はどう感じている?」

 

「私は本当はどうしたい?」

 

と自分に聞くこと。

 

そして、その答えをなかったことにしないこと。

 

自分との信頼関係は、そんな小さな選択の積み重ねから育っていくのだと思います。

 

好きなものを選ぶことと同じくらい、

 

嫌だと感じている自分を置き去りにしないこと。

 

それもまた、自分と仲良くなっていくための、大切な一歩なのだと感じています。







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「人に関心がない」と思っていた私が、

本当の「関心」について考えてみた。

 

 

 

 

前回の記事で、

「気になることを、とことん調べたくなるようになった」という変化について書いた。

 

 

 

その記事を書いたあと、

さらに自分の中で面白い気づきがあった。

 

 

 

私はこれまで、自分のことを

「人にあまり関心がない人間なんだ」と思っていた。

 

 

誰かの噂話や芸能ニュースに興味があるわけでもない。

 

「あの人がこうだったらしい。」

「この人がああ言っていたらしい。」

 

 

 

そういう話には、

昔からそれほど興味がなかった。

 

 

 

だから私は、

「人に関心が薄い人なんだ」と思っていた。

 

 

 

 

 

でも、本当にそうなのだろうか。

 

 

そんな問いが、自分の中に生まれた。

 

 

 

 

 

今回、龍や魔女、言葉の歴史について考えているとき、

私はあることに気づいた。

 

 

 

私が知りたいのは、

「誰が有名だったか」ではない。

 

 

 

 

「なぜ龍という存在が生まれたのだろう。」

 

「どんな世界観があったのだろう。」

 

「どんな時代背景があったのだろう。」

 

そんなことだった。

 

 

 

 

つまり、私が関心を持っていたのは、

一人の人物というよりも、その背景にある物語だった。

 

 

 

 

 

ここで、「関心」という言葉について改めて考えてみた。

 

 

 

関心にも、いろいろな種類がある。

 

 

 

情報として知りたい関心。

 

利益につながるから知りたい関心。

 

娯楽として楽しみたい関心。

 

そして、背景や物語を理解したいという関心。

 

 

 

同じ「関心」という言葉でも、

その向かう先は少しずつ違う。

 

 

 

 

私は今まで、

「人そのもの」に強い関心があるタイプではなかったのかもしれない。

 

 

でも、「その人が生きてきた背景」や、「その考え方が生まれた理由」、

「文化や歴史の積み重ね」には、不思議なくらい惹かれる。

 

 

 

そう考えると、

「私は人に関心がない」という言葉だけでは表せない自分が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

さらに考えていて、

もう一つ気づいたことがある。

 

 

 

 

最近、自分と向き合う時間が増えたことで、

 

 

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「どうして私はそう考えたんだろう。」

 

 

そんな問いを自分自身に向けることが増えた。

 

 

 

 

 

すると、不思議なことに、

その問いは自分だけでは終わらなくなった。

 

 

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この言葉は残ったんだろう。」

 

「なぜ、人はこう考えるようになったんだろう。」

 

 

同じ問いが、

世界へと向かっていくようになった。

 

 

 

 

 

 

私は以前、「知る」ということは、

答えを集めることだと思っていた。

 

 

 

でも今は少し違う。

 

 

知るということは、

その背景に耳を澄ませることなのかもしれない。

 

目に見えているものだけではなく、

その奥に流れている物語を感じようとすること。

 

 

 

 

それが、本当の意味で

「理解する」ということなのではないだろうか。

 

 

 

この変化を通して、

私は「新しい自分」が生まれたような感覚になった。

 

 

 

何か特別な能力が身についたわけではない。

 

 

 

 

 

ただ、一つの出来事や、一つの言葉、一つの文化に出会ったとき、

 

 

「その奥には、どんな物語があるんだろう。」

 

そう自然に思えるようになった。

 

 

 

以前の私は、

そこまで考えることはなかった。

 

 

 

だからこそ、この感覚は、

自分の中に新しい意識が芽生えたように感じている。

 

 

 

世界を見る目が少し変わると、

世界そのものが変わって見えてくる。

 

 

 

そして、その変化は、
自分自身を知る旅が、いつの間にか世界を知る旅へと広がっていたことを、静かに教えてくれた。







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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




「気になることを、とことん調べたくなる。」

それは自分と向き合った先に生まれた変化だった。

 

 

 

 

 

 

最近、自分の中で一つの変化に気がついた。

 

 

 

以前の私は、「気になることはあるけれど、

そこまで深く調べる」ということは、それほど多くなかった。

 

 

 

 

でも今は違う。

 

 

 

 

何か気になる言葉や出来事に出会うと、

 

 

「これはどういう背景があるんだろう。」

 

「どうして生まれたんだろう。」

 

「その時代には何があったんだろう。」

 

 

そんなふうに、自然と知りたくなる自分がいる。

 

 

 

最初は単なる好奇心なのかなと思っていた。

 

 

でも、よく考えてみると、

それだけではないような気がした。

 

 

 

例えば、「魔女」という言葉。

 

私は以前、魔女狩りの話を知っていたことで、

「魔女」という存在そのものが、どこか怖いもの、危険なものという印象を持っていた。

 

 

けれど、調べていくと、

本来の魔女と、魔女狩りで「魔女」とされた人たちは、

必ずしも同じではないことを知った。

 

 

そこには、宗教や時代背景、

人々の恐れや嫉妬、社会の仕組みなど、

さまざまな物語があった。

 

 

 

その背景を知った瞬間、

「魔女」という言葉の印象は大きく変わった。

 

 

 

 

私はそのとき初めて、

「言葉は背景を知ることで、まったく違う姿を見せる」ということを実感した。

 

 

 

 

 

 

 

同じことは、「確信犯」という言葉にも感じた。

 

 

以前は、「悪いとわかっていてやる人」

という意味だと思っていた。

 

 

でも調べてみると、

本来は「自分が正しいと確信して行動する人」という意味だった。

 

 

 

現在では、広く使われている意味も辞書に載るようになっている。

 

それでも私は、

「もともとの意味を知ることには価値がある」と感じた。

 

 

 

言葉は長い時間をかけて育まれてきたものだからこそ、

その歴史も含めて理解したいと思うようになった。

 

 

 

 

 

さらに振り返ると、この考え方は、

以前から自分が興味を持っていた「龍」という存在にもつながっていた。

 

 

 

私は龍を見て、

 

「龍は実在したのか。」

 

ということ以上に、

 

 

「なぜ人は龍という存在を思い描いたのだろう。」

 

「どんな願いや世界観がそこに込められているのだろう。」

 

そんなことを考えるようになっていた。

 

 

 

 

物を見るだけではなく、その物語を見る。

 

言葉を見るだけではなく、その歴史を見る。

 

 

そんな見方が、自分の中で少しずつ育ってきていることに気づいた。

 

 

 

 

 

 

そして、さらに考えているうちに、

一つのことに気づいた。

 

 

 

 

この視点は、もしかすると

「自分と向き合うこと」を続けてきたから生まれたものなのではないか、と。

 

 

 

 

 

自分と向き合うと、

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「なぜ私はこう考えたんだろう。」

 

という問いを、何度も自分自身に向けるようになる。

 

 

 

 

その問い方が身につくと、不思議なことに、

自分だけではなく、世界にも同じ問いを向けるようになる。

 

 

 

 

「なぜ、この言葉は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この考え方が受け継がれてきたんだろう。」

 

 

 

 

そうやって、自分への問いが、世界への問いへと広がっていく。

 

 

 

もちろん、世界のすべてを知ることはできない。

 

 

 

でも、気になったものだけは、

できる限り背景まで知ってみる。

 

 

その積み重ねは、単なる知識を増やすことではなく、

世界をより立体的に見ることにつながるのではないか。

 

 

 

 

最近、そんなことを感じている。

 

 

 

物事には、

表面だけでは見えない物語がある。

 

 

 

 

そして、その物語を知ることは、
世界を知ることでもあり、
自分自身を知ることにもつながっているのかもしれない。







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「安心できる場所」を卒業するとき

 〜自分の人生を、自分の足で歩き始めるために〜

 

 

 

 

子どもの頃、親や先生は、とても大きな存在です。

 

 

分からないことを教えてくれる。

 

失敗したら励ましてくれる。

 

危険から守ってくれる。

 

 

 

 

安心できる場所があるからこそ、

私たちは少しずつ成長していくことができます。

 

 

 

だから私は、

 

親や先生の存在が悪いと言いたいわけではありません。

 

 

むしろ、人が安心して心を育てるためには、

そのような存在はとても大切だと思っています。

 

 

 

 

 

 

安心できる場所は、「土台」になる

 

 

 

植物が育つためには、まず根を張る土が必要です。

 

 

人も同じです。

 

安心して話せる。

 

失敗しても受け止めてもらえる。

 

分からないことを質問できる。

 

 

 

そんな環境があるからこそ、

人は少しずつ自分らしさを育てていくことができます。

 

 

 

だから、最初は親や先生を頼ることは、

とても自然なことです。

 

 

 

 

でも、成長には次の段階があります

 

 

 

ある程度心が育ってきたら、

 

今度は少しずつ、

 

自分で考える。

 

自分で選ぶ。

 

自分で決める。

 

 

そんな経験が必要になってきます。

 

 

 

もちろん、最初は不安です。

 

間違えることもあるでしょう。

 

迷うこともあるでしょう。

 

 

 

それでも、その経験を重ねることでしか育たない力があります。

 

それが、

 

「自己信頼」

 

です。

 

 

 

 

 

「安心できる場所」に留まり続けると…



 

安心できる場所は、とても大切です。

 

 

 

でも、もしそこだけに留まり続けると、

 

少しずつ、

 

「親はどう思うだろう。」

 

「先生なら何と言うだろう。」

 

ということが、自分の判断基準になってしまうことがあります。

 

 

 

すると、


自分で考える前に、

 

誰かの答えを探すようになります。

 

 

 

自分で決める前に、

 

誰かに正解を確認したくなります。

 

 

 

それは安心でもありますが、

 

同時に、

 

「その人がいなければ決められない。」

 

という不安も生み出してしまいます。

 

 

 

安心と不安は、

 

実は同じ場所に存在していることがあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

一歩踏み出す勇気

 

 

だからこそ、

 

ある時期が来たら、

 

少しずつ自分の足で歩いてみることが大切なのだと思います。

 

 

 

親や先生から離れるということではありません。

 

教えを否定することでもありません。

 

 

 

これまで育ててもらった土台を胸に、

 

今度は、

 

自分で考え、

 

自分で選び、

 

自分で経験していく。

 

 

 

その一歩を踏み出すということです。

 

 

 

 

 

人生は、「正解をもらう旅」ではない

 

 

 

私は以前、

 

誰かが正解を持っていて、

 

私はそれを探しているのだと思っていました。

 

 

 

でも今は、少し考え方が変わりました。

 

 

人生は、

 

誰かから正解を受け取る旅ではありません。

 

 

 

自分で選び、

 

経験し、

 

時には迷い、

 

必要なら修正しながら、

 

自分の人生を、自分の手で育てていく旅なのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

自分を信じるということ

 

 

 

「自分を信じる。」

 

その言葉を聞くと、

 

迷わない人になることのように感じるかもしれません。

 

 

 

 

でも、本当は違うのだと思います。

 

 

 

迷ってもいい。

 

失敗してもいい。

 

途中で考えが変わってもいい。

 

 

 

それでも、

 

「私はまた考えられる。」

 

「私はまた選び直せる。」

 

 

 

そう思えること。

 

 

 

それが、本当の意味で自分を信じるということなのではないでしょうか。

 

 

 

 

だから今日も、

 

私は少しずつ、

自分の足で歩いていこうと思います。

 

誰かの正解を探すためではなく、

 

自分の人生を、自分らしい答えへと育てていくために。







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なぜ私たちは「正解」しか言えなくなるのか




 

「今のあなたは、どう思いますか?」

 

そう聞かれたとき、すぐに答えられますか。

 

 

 

私は昔、この質問がとても苦手でした。

 

 

頭の中では何か感じている。

 

でも、それを言葉にすることができない。

 

 

いや、正確には、

 

言えなかったのです。

 

 

 

 

 

「正解」を言わなければいけないと思っていた


 

 

 

学校では、先生が質問をします。

 

 

答えられたら丸。

 

正解なら褒められる。

 

間違えればバツになる。

 

 

もちろん、知識を学ぶためには必要なことです。

 

 

 

でも、私はいつの間にか、

 

「答えるなら正解を言わなければいけない。」

 

そう思うようになっていました。

 

 

 

だから、自信がないときは答えない。

 

考えがまとまっていないときは黙る。

 

 

 

「違います。」

 

そう言われることが、とても怖かったのです。

 

 

 

 

 

本当に怖かったのは、「間違い」ではなかった

 

 

今思えば、怖かったのは間違うことではありませんでした。

 

 

 

怖かったのは、

 

「間違えた私」

 

を否定されることでした。

 

 

 

答えが違う。

 

すると、

 

「私はダメなんだ。」

 

「私は劣っているんだ。」

 

そんなふうに受け取ってしまっていました。

 

 

 

本当は、

 

「答えが違う」ことと、


「その人の価値」はまったく別のことです。

 

 

 

でも子どもの頃は、

その二つを分けて考えることは、とても難しいものです。

 

 

 

 

 

いつの間にか、学ぶ目的が変わっていた

 

 

 

本来、学ぶ目的は、

 

「知ること」

 

「理解すること」

 

「世界を広げること」

 

だったはずです。

 

 

 

でも、いつの間にか目的は変わっていました。

 

 

 

先生に褒められること。

 

親に認められること。

 

怒られないこと。

 

間違えないこと。

 

 

 

つまり、

 

「学ぶこと」よりも、


「評価されること」が目的になっていたのです。

 

 

 

そうすると、

 

意識は知識ではなく、

 

先生の表情を見ています。

 

親の反応を見ています。

 

 

 

「私はどう思う?」

 

ではなく、

 

「先生は何を答えてほしいのだろう?」

 

を考えるようになります。

 

 

 

 

 

「考える」のではなく、「正解を探す」

 

 

 

そんな状態では、

 

本当の意味で考えることは難しくなります。

 

 

 

考えるとは、

 

分からないことを分からないまま持ち、

 

仮説を立て、

 

話しながら整理し、

 

必要なら修正することです。

 

 

 

でも、

 

「正解しか言ってはいけない。」

 

という前提があると、

 

考えが完成するまで話せなくなります。

 

 

 

だから、自分の考えが育たないのです。

 

 

 

 

話すことで、自分を知る



 

不思議なことですが、

 

人は話しながら考えています。

 

 

口に出して初めて、

 

「あれ、私は本当はこう思っていたんだ。」

 

と気づくことがたくさんあります。

 

 

 

だから、

 

途中でもいい。

 

まとまっていなくてもいい。

 

間違っていてもいい。

 

その時点で感じていることを言葉にすることには、大きな意味があります。

 

 

 

 

 

 

「間違えること」は、成長の反対ではない

 

 

 

私は以前、

 

間違えないことが成長だと思っていました。

 

 

 

でも今は違います。

 

 

 

間違えるから考える。

 

考えるから気づく。

 

気づくから修正できる。

 

修正できるから成長する。

 

 

 

だから、

 

間違えることは、

 

成長の反対ではありません。

 

 

 

成長の入り口なのです。





 

自分の考えを話してもいい

 

 

 

人生には、

 

誰かが用意した模範解答はありません。

 

 

 

だから、

 

今の自分が感じたことを話していい。

 

あとから考えが変わってもいい。

 

 

 

 

「前はそう思っていたけれど、今はこう思う。」

 

そう言えることは、

 

間違いではなく、

 

成長なのです。

 

 

 

正解を言うことよりも、

 

自分で考えること。

 

 

 

そして、

 

自分で考えたことを、勇気を持って言葉にすること。

 

 

その積み重ねが、

 

少しずつ「自分を信頼する力」を育ててくれるのだと、私は思っています。







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「正解を探す人生」から、「自分の答えを育てる人生」へ




 

私たちは子どもの頃から、

「答えのある世界」の中で学んできました。

 

 

 

算数には答えがあります。

 

国語にも、多くの場合は求められる答えがあります。

 

理科や社会にも、テストでは正解があります。

 

 

 

正解を書けば丸がもらえ、褒められる。

 

間違えればバツがつき、

時には「なんでこんなことも分からないの?」と言われることもあります。

 

 

 

 

もちろん、学校で知識を学ぶことはとても大切です。

 

けれど私は、大人になってから、あることに気づきました。

 

 

 

 

それは、

 

学校の「正解」と、

人生の「答え」は、まったく性質が違う

 

ということです。

 

 

 

 

 

私たちは、いつの間にか

「人生にも正解がある」と思ってしまう

 

 

 

 

 

学校では、「問い」があれば「正解」があります。

 

 

だから知らず知らずのうちに、

 

「人生にも、どこかにたった一つの正解がある。」

 

そんな感覚を持ってしまうことがあります。

 

 

 

仕事も。

 

結婚も。

 

子育ても。

 

生き方も。

 

 

 

「本当は誰かが正解を知っていて、私はまだ見つけられていないだけ。」

 

そんなふうに感じてしまうことがあります。

 

 

 

 

だから、

 

「先生なら何と言うだろう。」

 

「専門家ならどう答えるだろう。」

 

「みんなはどう考えるのだろう。」

 

と、自分の外へ答えを探しに行ってしまうのです。

 

 

 

 

でも、人生はテストではありません

 

 

 

人生には、数学のような答えはありません。

 

 

もちろん、社会のルールや法律のように、

多くの人に共通するものはあります。

 

 

 

けれど、

 

「どんな人生を送りたいか。」

 

「何を大切にしたいか。」

 

「どんな人間でありたいか。」

 

 

こうした問いには、誰か一人が持っている「唯一の正解」はありません。

 

 

 

だからこそ、

 

人生で本当に必要なのは、

 

正解を探す力ではなく、自分なりの答えを育てる力なのだと思います。

 

 

 

 

 

答えは「外にある」のではなく、「育っていく」



 

「答えは自分の中にある。」

 

私はこの言葉が好きです。

 

 

 

 

ただ、それは

「最初から完成した答えが心の中に入っている」という意味ではありません。

 

 

人と出会い、

 

本を読み、

 

失敗し、

 

喜び、

 

迷い、

 

対話を重ねる。

 

 

 

そうした経験の中で、

 

少しずつ、

 

「私はこう思う。」

 

という答えが育っていく。

 

 

 

外から受け取るのは、「答え」ではありません。

 

外から受け取るのは、

 

新しい視点。

 

新しい体験。

 

新しい価値観。

 

そして、自分で考えるためのヒントです。

 

 

 

それらを受け取りながら、

 

最後は自分で考え、

 

自分で選び、

 

必要なら修正していく。

 

 

 

それが、自分自身の人生を歩むということなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

自分とのつながりを取り戻す

 

 

 

私たちは、つい「誰かの正解」を探してしまいます。

 

 

でも、本当に大切なのは、

 

「私はどう感じるのだろう。」

 

「私はなぜそう思うのだろう。」

 

と、自分へ問いかけることです。

 

 

 

人生には、誰かが用意した模範解答はありません。

 

だからこそ、自分自身と対話しながら、

自分なりの答えを育てていく。

 

その積み重ねが、
少しずつ「自分を信頼する力」になっていくのだと思います。







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「人は鏡」という言葉が、怖くなくなった日





 

私は長い間、

「人は鏡」という言葉が苦手でした。

 

 

この言葉を聞くたびに、

どこか胸が苦しくなっていました。

 

 

 

なぜなら、私の中では、

 

「嫌な人に出会ったのは、自分にも同じような嫌な部分があるから。」

 

「腹が立ったなら、自分の中にも同じ闇がある。」

 

 

 

そんな意味として受け取っていたからです。

 

 

 

だから、「人は鏡」という言葉は、

とても鋭く感じていました。

 

 

 

 

まるで、

 

「あなたの悪い部分を見なさい。」

 

「ちゃんと認めなさい。」

 

と言われているようで、

心のどこかで後ずさりしてしまう自分がいました。

 

 

 

 

 

もちろん、自分自身と向き合うことは大切です。

 

 

でも、どこか違和感がありました。

 

私は、「人は鏡」という言葉そのものではなく、

その言葉の受け取り方に苦しんでいたのだと思います。

 

 

 

 

そんな中で、ある日、

この言葉の意味が私の中で大きく変わりました。

 

 

 

「人は鏡」とは、

 

自分の悪い部分を映し出すものではなく、

自分自身を知るきっかけを映し出してくれるものなのではないか。

 

 

 

そう感じたのです。

 

 

 

 

ある人との出会いによって、

 

自分が何を大切にしているのかが見えてくる。

 

 

ある出来事によって、

 

自分が本当は何を望んでいたのかに気づく。

 

 

 

悲しみも、

 

喜びも、

 

怒りも、

 

安心も、

 

それらは「悪い自分」があるから生まれたのではなく、

 

自分の大切な価値観や願いを教えてくれる心の反応だったのです。

 

 

 

 

そう思えたとき、「人は鏡」という言葉は、

怖いものではなくなりました。

 

 

 

 

今、私はこんなふうに感じています。

 

 

 

 

人は鏡ではあります。

 

 

でも、その鏡は、

 

あなたを裁く鏡ではありません。

 

 

 

あなたの中にある、

 

大切にしているもの。

 

願い。

 

悲しみ。

 

喜び。

 

 

それらを静かに映してくれる、

 

穏やかな水面のような存在なのだと思います。

 

 

 

水面は何も責めません。

 

何も否定しません。

 

ただ静かに映してくれます。

 

 

 

そして、

 

「こんなことを私は大切にしていたんだ。」

 

「こんな願いがあったんだね。」

 

 

そんなふうに、

自分自身を少しずつ知っていくことができます。

 

 

 

 

 

私は、「自分とのつながり」を大切にしたいと思っています。

 

 

 

でも、その「自分」と出会わせてくれるのは、

人との出会いです。

 

 

人との出会いが問いを運んできてくれる。

 

一人の時間が、その問いを育ててくれる。

 

 

 

そして、その気づきが、

また次の出会いを豊かにしてくれる。

 

 

 

 

 

そう考えると、人との出会いは、

自分を苦しめるためのものではありません。

 

 

本来の自分を思い出していくための、大切な贈り物。

 

 

 

 

私は今、そんなふうに感じています。

 

 

 

だから、「人は鏡」という言葉も、

もう怖くありません。

 

 

 

私にとって、その鏡は、

 

自分を責めるための鏡ではなく、

 

自分を優しく知っていくための水面へと変わったのです。







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人との出会いが、自分という存在を教えてくれる




 

私は「自分とのつながり」をとても大切にしています。

 

 

 

だからといって、

「一人で生きていけばいい」と思っているわけではありません。

 

 

 

むしろ最近、こんなことを感じています。

 

 

 

人は、一人では自分を知ることができない。

 

極端な言い方かもしれません。

 

 

 

 

でも、人との出会いがあるからこそ、

 

 

「私はこう感じるんだ。」

 

「私はこういうことを大切にしているんだ。」

 

「これは嬉しい。」

 

「これは悲しい。」

 

 

そんな自分自身が見えてきます。

 

 

 

 

もし誰とも関わらずに生きていたら、

自分という存在さえ、

今ほど深く知ることはできなかったかもしれません。

 

 

 

人との関わりは、

時に楽しく、時に苦しく、時に悩みをもたらします。

 

 

でも、その一つひとつが、

自分自身を知るきっかけになっています。

 

 

 

 

だから私は今、

人との出会いも、一人の時間も、

どちらも同じくらい大切なのだと感じています。

 

 

 

 

以前、私は

「人は鏡」という言葉に少し苦手意識がありました。

 

 

 

どこか鋭くて、

 

「すべて自分の問題ですよ。」

 

と言われているように感じてしまっていたからです。

 

 

 

でも、今は少し違う見方をしています。

 

 

 

 

私は、「人は鏡」という言葉は、

 

人は、自分を映し出してくれる存在。

 

 

 

そんな意味なのではないかと思うようになりました。

 

 

 

 

誰かとの出会いがあるから、

 

自分の価値観が見えてくる。

 

 

 

誰かの言葉によって、

 

自分の本音に気づくことがある。

 

 

 

誰かとのすれ違いによって、

 

自分が本当に望んでいたものが見えてくる。

 

 

 

 

 

相手が答えを持っているのではありません。

 

 

 

 

相手が、自分の中に眠っていた

問いを見つけるきっかけをくれているのです。

 

 

 

 

だから、人は鏡なのかもしれません。

 

 

 

 

そして、その問いを育てる時間が、一人の時間です。

 

 

 

 

 

人との関わりの中で、


 

「どうして私はこんなに悲しかったんだろう。」

 

「なぜ、あの言葉が心に残ったのだろう。」

 

 

そんな問いが生まれます。

 

 

 

 

そして、一人になって静かに考える。

 

 

 

本を読む。

 

自然の中を歩く。

 

ぼんやり空を眺める。

 

 

 

そんな時間の中で、

少しずつ自分の答えが見えてきます。

 

 

 

私は、人との時間と、一人の時間は

反対のものではないと思っています。

 

人との出会いが、気づきの種を運んできてくれる。

 

一人の時間が、その種を大切に育ててくれる。

 

 

そして育った気づきが、

また次の人との出会いを豊かにしてくれる。

 

 

 

その繰り返しの中で、人は少しずつ自分を知り、

少しずつ自己信頼を育てていくのではないでしょうか。

 

 

 

だから私は、「自分とのつながり」は、

一人だけで完成するものではないと思っています。

 

 

 

人との出会いによって問いが生まれ、

 

一人の時間によってその問いが育ち、

 

また人との出会いによって新しい景色が見えてくる。

 

 

 

そんな温かな循環の中で、
人は少しずつ「本来の自分」と出会っていくのだと、私は感じています。







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