まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


何かを見つけたとき、

 

「これ、面白そう」

 

「ちょっとやってみたい」

 

「なんだか気になる」

 

そんなふうに、心が動くことがあります。

 

でも、その直後に、

 

「私にできるかな?」

 

という言葉が出てくることもあります。

 

できるかな。

 

続けられるかな。

 

向いているかな。

 

失敗しないかな。

 

せっかく始めても、また途中でやめるんじゃないかな。

 

そうやって考えているうちに、

 

最初にあった小さな

 

「やってみたい」

 

が、だんだん小さくなってしまう。

 

でも最近、私は思います。

 

最初から、

 

「できるかな?」

 

と考えなくてもいいんじゃないかな、と。

 

 

 

 

 

 

できないから、習うんじゃない?


 

そもそも習い事って、

 

「できないから習う」

 

ものでもあります。

 

最初からできるのなら、習う必要がないことだってあります。

 

できない。

 

知らない。

 

やったことがない。

 

だから、

 

「ちょっとやってみたい」

 

と思う。

 

それなのに、始める前から

 

「ちゃんとできるかな?」

 

と自分に求めるのって、なんだか不思議です。

 

まだやったことがないのだから、

 

できるかどうかなんて、わからなくて当然です。

 

だったら、

 

「できるかな?」

 

ではなく、

 

「やってみた私は、どう感じるんだろう?」

 

くらいでもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

人生を、もう少し実験にしてみる


 

「始める」と考えると、少し重たく感じることがあります。

 

これからずっと続けるような感じがしたり、

 

上手にならなければいけないような気がしたり、

 

何か成果を出さなければいけないように感じたり。

 

でも、

 

「ちょっと実験してみよう」

 

だったらどうでしょう。

 

一度、体験してみる。

 

ちょっと触ってみる。

 

少し勉強してみる。

 

やってみて、

 

自分がどう感じるのか観察してみる。

 

面白かったら、もう少しやってみる。

 

もっと知りたくなったら、続けてみる。

 

「なんか違うな」と思ったら、そこで終わってもいい。

 

実験なのだから、

 

最初から答えがわかっている必要はありません。

 

むしろ、

 

わからないから、やってみる。

 

それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「続けるかどうか」は、やってみた私に任せる


 

始める前の自分には、

 

その先のことなんてわかりません。

 

一度やっただけで夢中になるかもしれない。

 

半年くらい楽しんで満足するかもしれない。

 

10年続くものになるかもしれない。

 

一度やって、

 

「あ、これは違った」

 

と思うかもしれない。

 

どれになるかは、

 

実際に体験してみなければわかりません。

 

だから、

 

未来の自分に

 

「ちゃんと続けられる?」

 

と保証を求めなくてもいい。

 

今の私は、

 

「やってみたい」

 

と思っている。

 

だったら、まずはやってみる。

 

続けるかどうかは、

 

実際にやってみた私に決めてもらえばいい。

 

私は、それくらいでもいいと思っています。

 

 

 

 

 

 

やってみると、「私」が少しずつわかってくる


 

そして、実際にいろいろなものを体験してみると、

 

自分について、いろいろなことがわかってきます。

 

「私は、こういうものが好きなんだ」

 

「これはあまり好きじゃないんだ」

 

「これは苦手だけど、なぜか面白い」

 

「これは得意だけど、別に好きではない」

 

「全然できなかったけど、もう一度やりたい」

 

「できたけど、もう十分」

 

そんな発見が出てくる。

 

これって全部、

 

自分を知ること

 

なんですよね。

 

頭の中で、

 

「私は何が好きなんだろう?」

 

と考えることもできます。

 

でも、実際に触れてみなければわからない自分もいます。

 

食べたことのない料理の味を、頭の中だけでは知れないように。

 

行ったことのない場所で、自分が何を感じるのかわからないように。

 

やったことのないことを、

 

「私は好きだ」

 

とも、

 

「私は嫌いだ」

 

とも、

 

本当のところはまだわからない。

 

世界に触れてみて、

 

初めて出会える自分がいます。

 

 

 

 

 

 

「できなかった」も、自分を知るための情報


 

そして、ここで大切にしたいことがあります。

 

やってみた結果、

 

できなかった。

 

うまくいかなかった。

 

思っていたより苦手だった。

 

それでもいい。

 

それは、

 

「やってみた結果、今回はこうだった」

 

という情報だからです。

 

反対に、

 

思ったより簡単にできた。

 

すごく楽しかった。

 

もっとやりたくなった。

 

それも情報です。

 

できた。

 

できなかった。

 

好きだった。

 

好きじゃなかった。

 

面白かった。

 

つまらなかった。

 

続けたい。

 

もう十分。

 

一つ一つ体験するたびに、

 

「私はこう感じる人なんだ」

 

ということが少しずつわかってくる。

 

だから、どんな結果になっても、

 

やってみる前には知らなかった「私」を一つ知ることができます。

 

 

 

 

 

 

でも、その結果は「私そのもの」ではない


 

そして、ここで私はとても大切にしたいことがあります。

 

やったことの結果と、私自身をくっつけないこと。

 

できた。

 

だから、私は○。

 

できなかった。

 

だから、私は×。

 

ではありません。

 

できたのなら、

 

「私は今回、これができた」

 

ただ、それだけ。

 

できなかったのなら、

 

「私は今回、これはできなかった」

 

ただ、それだけ。

 

好きだったなら、

 

「私はこれが好きなんだ」

 

好きじゃなかったなら、

 

「私はこれは好きじゃないんだ」

 

それだけです。

 

そこから、

 

「だから私は優秀な人間」

 

「だから私はダメな人間」

 

と、

 

私そのものを評価しなくてもいい。

 

 

 

 

 

 

私は、評価の壇上には立たない


 

結果には、評価がつくことがあります。

 

試験なら点数がつく。

 

競技なら順位がつく。

 

仕事なら成果が出る。

 

できた、できなかったという結果もあります。

 

でも、

 

それは私そのものではありません。

 

結果について、

 

「今回はうまくいった」

 

「今回はうまくいかなかった」

 

と振り返ることはできる。

 

そこから、

 

「次はこうしてみよう」

 

と考えることもできる。

 

でも私は、

 

その結果と一緒に、

 

自分自身まで評価の壇上に上げなくてもいいと思っています。

 

私は私。

 

結果が○だったから、

 

私が○になるわけではない。

 

結果が×だったから、

 

私が×になるわけでもない。

 

私は、評価の壇上には立たない。

 

 

 

 

 

 

実験なら、「失敗」ではなく「結果」が残る


 

そう考えると、

 

人生を少し「実験」のように捉えることができます。

 

実験なら、

 

予想通りにならなかったからといって、

 

実験そのものが無意味になるわけではありません。

 

「こうやったら、こうなった」

 

という結果が残ります。

 

人生でも、

 

「やってみたら、私には合わなかった」

 

「やってみたら、思っていた以上に好きだった」

 

「一度やったら満足した」

 

「もっとやりたくなった」

 

それでいい。

 

成功した私。

 

失敗した私。

 

ではなく、

 

体験した私。

 

そして、

 

その体験から、

 

自分について一つ知った私。

 

 

 

 

 

 

「やってみたい」は、自分と出会う入口なのかもしれない


 

「面白そう」

 

「ちょっと気になる」

 

「やってみたい」

 

そんな小さな気持ちは、

 

単なる気まぐれに見えることもあります。

 

でも私は、

 

そこから新しい自分に出会うこともあると思っています。

 

やってみなければ、

 

自分がそれを大好きになることも知らないままだったかもしれない。

 

自分に意外な才能があることにも気づかなかったかもしれない。

 

反対に、

 

「これは私には必要ない」

 

ということにも気づかなかったかもしれない。

 

どちらも、

 

自分を知ることです。

 

だから、

 

「できるかな?」

 

と思ったら、

 

少しだけ問いを変えてみる。

 

「やってみた私は、どう感じるんだろう?」

 

わからない。

 

だから、やってみる。

 

やってみて、

 

自分の心に聞いてみる。

 

楽しい?

 

面白い?

 

もっとやりたい?

 

もう十分?

 

違うものが気になる?

 

そして、

 

その答えを聞きながら、

 

また次を選んでいく。

 

興味を持つ。

やってみる。

感じる。

自分を知る。

そして、また選ぶ。

 

人生を、もう少し実験にしてみる。

 

うまくいく自分を証明するためではなく、

 

まだ知らない自分と出会うために。

 

そして、どんな結果が出ても、

 

最後に戻ってくる場所は同じ。

 

私は私。

 

できても、私。

 

できなくても、私。

 

続いても、私。

 

続かなくても、私。

 

結果には○や×がつくことがあっても、

 

私自身には、○も×もつかない。

 

だから安心して、

 

もう少し世界を試してみてもいいのだと思います。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



何か新しいことに興味を持ったとき、

 

「やってみたい!」

 

と心が動くことがあります。

 

面白そう。

 

もっと知りたい。

 

なんだかわからないけれど、すごく惹かれる。

 

そんな小さな情熱の芽が、ふっと自分の中から出てくる。

 

でも、そのすぐ後に、

 

「ちゃんと続けられるかな?」

 

「また途中で飽きるんじゃない?」

 

「最後までできる?」

 

そんな言葉が出てきて、せっかく芽を出した「やってみたい」を、自分で引っ込めてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「続けられた経験」は、自信になることがある

 

 

子どもの頃に始めた習い事が、

 

自分の「好き」「面白い」「楽しい」「やりがいがある」と合っていて、

 

気がついたら何年も続いていた。

 

そんな経験があったら、

 

「あんなに長く続けられた」

 

「少しずつできるようになった」

 

「私にもできるんだ」

 

という自信につながることがあると思います。

 

継続したことで上達したり、できなかったことができるようになったり。

 

そういう経験から得られるものは、たくさんあります。

 

だから私は、継続することそのものを否定したいわけではありません。

 

ただ、反対の場合も考えてみたいのです。

 

 

 

 

 

 

「続かなかった」が、自分へのラベルになっていない?

 

 

習い事を始めた。

 

でも、途中でやめた。

 

また別のものを始めた。

 

それも、長くは続かなかった。

 

そんなときに、

 

「また続かなかったね」

 

「飽き性だね」

 

「三日坊主だね」

 

「あなたは何をやっても続かないね」

 

そんな言葉を何度も言われていたら。

 

いつしか、人から言われていた言葉を、自分自身でも使うようになることがあります。

 

「私は、何をやっても続かない人間なんだ。」

 

でも、本当にそうだったのでしょうか?

 

もしかしたら、

 

やってみたら思っていたものと違っただけかもしれない。

 

自分には合わなかったのかもしれない。

 

その時点で体験したかったことを十分体験して、満足したのかもしれない。

 

あるいは、もっと心が惹かれるものが別に見つかったのかもしれない。

 

それなのに、

 

「続かなかった」

 

という結果だけを見て、

 

「私は続けられない人間」

 

という自分自身へのラベルにしてしまう。

 

すると、そのラベルは過去だけではなく、未来にも影響してきます。

 

 

 

 

 

 

 

まだ始めてもいないのに、「最後までできる?」と考えてしまう



 

大人になって、

 

「これ、面白そう!」

 

というものを見つける。

 

本当はやってみたい。

 

なのに、

 

「でも、また続かなかったらどうしよう」

 

「せっかく始めても、また飽きるかもしれない」

 

「最後までできる自信がない」

 

と考えてしまう。

 

そして結局、やらない。

 

でも、ここで少し考えてみたいのです。

 

まだ始めてもいないのに、どうして未来の自分に「最後まで続けられる保証」を求めるのでしょう?

 

やったことがないものなら、

 

続くかどうかなんて、わからなくて当然です。

 

 

 

 

 

 

やってみなければ、わからない


 

実際にやってみたら、

 

想像以上に面白くて、10年続くかもしれません。

 

一生の趣味になるかもしれない。

 

仕事になるかもしれない。

 

人生を大きく変える出会いになるかもしれない。

 

反対に、

 

3ヶ月で満足するかもしれない。

 

1ヶ月で別のものに興味が移るかもしれない。

 

一度体験しただけで、

 

「あ、これは私には違うな」

 

とわかるかもしれません。

 

でも、それは全部、

 

やってみた後に初めてわかることです。

 

やる前から、

 

「これは絶対に一生続けられます」

 

なんてわかるものばかりだったら、誰も迷いません。

 

わからないからこそ、

 

やってみる。

 

そして、やってみた自分がどう感じるのかを知る。

 

私は、それでいいと思っています。

 

 

 

 

 

 

情熱の芽を「継続できる?」で枯らさなくていい


 

何かに心が動いたとき、

 

それはまだ小さな芽のようなものだと思います。

 

「面白そう」

 

「ちょっとやってみたい」

 

「なんだか気になる」

 

そんな小さな芽。

 

ところが、そこにすぐ、

 

「最後までできる?」

 

「何年続けられる?」

 

「途中でやめない?」

 

と問いかけたら、

 

せっかく出てきた芽を、自分で摘んでしまうことがあります。

 

もしかしたら、その先には、

 

今まで知らなかった自分がいるかもしれない。

 

大好きなものと出会えるかもしれない。

 

自分の人生がもっと楽しくなる何かが待っているかもしれない。

 

それなのに、

 

「最後まで続けられるかわからないから」

 

という理由だけで、その世界に入らない。

 

それは、少しもったいないように思います。

 

 

 

 

 

 

最初に聞くのは「続けられる?」ではなく「やってみたい?」


 

だから私は、

 

何かに興味を持ったとき、最初から

 

「続けられる?」

 

と聞かなくてもいいと思っています。

 

最初に聞くのは、

 

「やってみたい?」

 

それだけでもいい。

 

そして、

 

「やってみたい」

 

なら、やってみる。

 

続けるかどうかは、

 

実際に体験した後の自分に任せる。

 

 

 

 

 

 

続かなかったとしても、体験は残る


 

3ヶ月でやめたとしても、

 

その3ヶ月が無かったことになるわけではありません。

 

一度しか体験しなかったとしても、

 

その一回からわかることがあります。

 

「これは好きだった」

 

「ここは苦手だった」

 

「こういうものには惹かれないんだな」

 

「私はこっちの方が好きなんだ」

 

それも、自分について知ったことです。

 

だから、

 

「続かなかった=無駄だった」

 

ではない。

 

続かなかった経験だって、

 

次の選択に使うことができます。

 

 

 

 

 

 

自分を信じるって、「絶対に続けられる」と思うことだけじゃない

 

 

そして私は、

 

ここにはもう一つ大切なことがあると思っています。

 

自分を信じるというと、

 

「私は最後までやり遂げられる」

 

「私は絶対に続けられる」

 

と思えることを想像することがあります。

 

もちろん、それも一つの自信です。

 

でも、もう一つの自信があってもいい。

 

「やってみて違ったら、そのときの私はちゃんと選び直せる。」

 

続けたくなったら、続ける。

 

違うと思ったら、やめる。

 

十分だと思ったら、終える。

 

別のものに心が動いたら、そちらへ行ってみる。

 

そんな自分を信じる。

 

それも、立派な自己信頼なのではないでしょうか。






 

 

「続かなかったらどうしよう」から「続くかどうかは、やってみてから」



 

人生の中で、

 

「なんか面白そう」

 

「やってみたい」

 

と心が動く瞬間は、とても大切なものだと思います。

 

それは、自分の人生が今までとは違う方向へ広がっていく、小さな入口かもしれません。

 

だから、

 

「最後までできるかわからない。だから、やらない」

 

ではなく、

 

「最後までできるかわからない。だからこそ、まずやってみる。」

 

10年続いたら、それも素敵。

 

3ヶ月で満足したら、それもいい。

 

一度やって違うとわかったなら、それも大切な体験。

 

続くかどうかは、

 

やってみてからわかればいい。

 

過去に「続かなかった自分」がいたとしても、

 

その自分を理由に、

 

これから芽を出す情熱まで枯らさなくていい。

 

「これ、面白そう」

 

そんな気持ちが生まれたとき、

 

未来の自分に継続の保証を求めるのではなく、

 

まずは今の自分に聞いてみる。

 

「私、これやってみたい?」

 

そして心が「うん」と言ったなら、

 

まずは一歩、入ってみる。

 

その先で何を感じるのかは、

 

そのときの自分に聞けばいいのだから。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

https://siawasenomahoutukai-mami.online/contents_24.html

 

現状を変えたいなら、まずはここから



「一度始めたことは、最後までやりなさい」

 

子どもの頃、こんな言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。

 

きっとこの言葉には、

 

「継続することの大切さを知ってほしい」

 

「すぐに諦めるのではなく、続けた先に見えるものも体験してほしい」

 

そんな大人なりの思いが込められていたのだと思います。

 

「継続は力なり」という言葉があるように、続けることで初めてできるようになることもあります。

 

最初はうまくいかなかったことが、何度も繰り返すうちにできるようになる。

 

その経験は、自分の力になっていくものだと思います。

 

だから、継続する経験そのものには、とても大切な意味があります。

 

でも私は、ここでちょっと意地悪なツッコミを入れたくなります。

 

「最後までやりなさい」って言うけれど……ところで、“最後”ってどこですか?






 

実は「最後」がないことも多い


 

例えば、習い事。

 

ピアノを始めたとして、最後とはどこでしょう?

 

一曲弾けるようになったら?

 

発表会に出たら?

 

何年か習ったら?

 

プロになったら?

 

武道なら何段まで?

 

語学なら、どのレベルまで話せるようになったら最後?

 

研究や技術の世界なら、新しい発見や技術が生まれ続けて、そもそも「これで全部終わり」というところがないものもあります。

 

そう考えてみると、

 

「最後までやりなさい」

 

という言葉には、実は終了条件がありません。

 

 

 

 

 

 

大人の頭の中にある「最後」は、子どもには見えない


 

もしかしたら、大人が本当に言いたかったのは、

 

「小学4年生から始めたんだから、まずは6年生までは続けてみよう」

 

ということだったのかもしれません。

 

それなら、

 

「まず2年間やってみよう」

 

「その間に、続けることで上達する経験もしてみよう」

 

「そして2年経ったら、そのとき改めて続けたいか考えてみよう」

 

と伝えればいい。

 

そうすれば、子どもにも「どこまでやってみるのか」がわかります。

 

大人には言わなくてもわかっていることでも、子どもにはわからないことがあります。

 

「最後まで」とだけ言われれば、

 

「一度始めたら、やめてはいけない」

 

と受け取ってしまうことだってあると思います。

 

だからこそ、

 

何のために続けてほしいのか。

いつまでやってみるのか。

その後には、もう一度選べること。

 

そこまで伝えてあげることも大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「続かなかった」を、その人の性格にしなくてもいい


 

そして、もう一つ気になる言葉があります。

 

「飽き性」

 

「三日坊主」

 

「あなたって本当に続かないよね」

 

何かを途中でやめたとき、こんなふうに言われることがあります。

 

でも、本当にその人には「継続する力がない」のでしょうか?

 

もしかしたら、

 

実際にやってみたら思っていたものと違ったのかもしれない。

 

最初は興味があったけれど、途中で興味がなくなったのかもしれない。

 

自分が体験したかったところまでは十分体験して、もう満足したのかもしれない。

 

あるいは、

 

「これは私には合わない」

 

とわかったのかもしれません。

 

それらを全部まとめて、

 

「あなたは飽き性だから」

 

としてしまうのは、少し違うように思います。

 

「続かなかった」という結果だけを見るのではなく、

 

「どうして続けたいと思わなくなったんだろう?」

 

と、その人の内側を見てみる。

 

すると、まったく違うものが見えてくるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

「飽きた」も、大切な自分からの情報


 

「飽きた」という言葉も、なんとなく悪いものとして扱われがちです。

 

でも私は、

 

飽きることそのものが悪いとは思いません。

 

「もう十分楽しんだ」

 

「ここで得たいものは得られた」

 

「今は別のことに心が動いている」

 

そんな自分からのサインかもしれないからです。

 

もちろん、少し難しくなっただけですぐやめてしまい、それによって本人が困っているのなら、

 

「私はどうして難しくなるとやめたくなるんだろう?」

 

と考えてみることにも意味があります。

 

でもそれと、

 

「もう興味がない」

 

「十分体験した」

 

「やってみたけれど違った」

 

は、同じではありません。

 

だから、

 

「続かなかった=根性がない」

 

と簡単に決めなくてもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「私はできなかったから、あなたにはやってほしい」


 

そして習い事には、もう一つ別のことが重なる場合があります。

 

親自身が子どもの頃にできなかったこと。

 

やってみたかったけれど、できなかったこと。

 

途中で諦めざるを得なかったこと。

 

それを、

 

「自分の子どもには経験させてあげたい」

 

と思うことがあります。

 

そこには、親なりの愛情がある場合もあると思います。

 

自分ができなかったからこそ、この子には機会を与えてあげたい。

 

それ自体は、優しさから生まれることもあるでしょう。

 

でも、ここで忘れたくないことがあります。

 

子どもは、親の分身ではない。

 

一人の人間です。

 

親が好きだったものを、子どもも好きとは限らない。

 

親が憧れていたものに、子どもも憧れるとは限らない。

 

親が得られなかったものを、子どもが欲しいとは限らない。

 

子どもには子どもの、

 

好きなものがある。

 

嫌いなものがある。

 

得意なものがある。

 

苦手なものがある。

 

そして何より、

 

「私はこれをやってみたい」

「これはやりたくない」

 

という感覚があります。

 

 

 

 

 

 

選択する力は、誰かから「与えてもらう」ものではない


 

「子どもにも選択の自由を与えてあげる」

 

という言い方もできます。

 

でも私は、少し違うようにも感じます。

 

選択する自由そのものを、大人が所有していて、それを子どもに分け与えるわけではないからです。

 

子どもも一人の人間として、

 

自分がどう感じているのかを表現したり、

 

何を選びたいのかを考えたりする存在です。

 

もちろん、年齢によって判断できる範囲は違います。

 

安全や生活に関わることなら、大人が決めなければならないこともあります。

 

でも、

 

「あなたはどうしたい?」

 

と聞くことはできます。

 

「やってみたい?」

 

「実際にやってみてどうだった?」

 

「もう少し続けてみたい?」

 

「もう十分だと思っている?」

 

そんなふうに、自分の感覚を確認する経験を重ねていく。

 

それは、

 

自分の人生について、自分で考えて選ぶ練習

 

にもなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

始める自由があるなら、選び直す自由もある


 

私は、新しいことを始めるとき、

 

もっと軽やかでもいいと思っています。

 

やってみる。

 

体験してみる。

 

しばらく続けてみる。

 

そして、自分に聞いてみる。

 

「どうだった?」

 

面白かったら、もっと続ける。

 

まだよくわからなかったら、もう少しやってみる。

 

十分だったら終える。

 

違うと思ったら、別のものを選ぶ。

 

一度離れて、何年かしてまたやりたくなったら戻ってくる。

 

そんな選び方だってあります。

 

始めることは、一生続ける契約ではありません。

 

むしろ、

 

「始めたら最後までやらなければならない」

 

と思っていたら、新しいことを始めること自体が怖くなってしまいます。

 

「途中で飽きたらどうしよう」

 

「向いていなかったらどうしよう」

 

「やめたら、また続かないと言われるかもしれない」

 

そう思ったら、

 

最初から何もしない方が安全になってしまいます。

 

それは、少しもったいない。

 

 

 

 

 

 

継続する力と同じくらい、選び直す力も大切


 

続けることでしか見えない景色があります。

 

だから「継続する力」は大切です。

 

でも同じように、

 

「もう違う」と気づいたときに方向を変える力。

 

「ここまでで十分」と終える力。

 

そして、

 

「今度はこっちをやってみたい」

 

と次へ進む力も大切なのではないでしょうか。

 

続けることだけが正解ではない。

 

やめることだけが正解でもない。

 

大切なのは、

 

「私は今、どう感じている?」

 

と自分に聞きながら、その都度選んでいくこと。

 

一度始めたら、最後まで。

 

ではなく、

 

「まず、ここまではやってみよう。

そして、そこまで行ったら、また自分で選ぼう。」

 

そんなふうに伝えられたら、

 

継続することの大切さも、

 

自分で選ぶことの大切さも、

 

両方を体験できるのではないでしょうか。

 

そして大人になった私たちも、

 

いつからだって自分に聞き直していい。

 

「私は、本当にこれを続けたい?」

 

「それとも、もう十分?」

 

「今は、何をやってみたい?」

 

昨日までの選択に縛られず、

 

今日の自分が、また選び直す。

 

それは「続かなかった」のではなく、

 

自分の人生を、自分で選び続けている

 

ということなのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



何かに大きなお金を使ったとき、

 

「せっかく高いお金を払ったんだから、元を取らなきゃ」

 

と思うことってありませんか?

 

例えば、10万円の講座を受けたとします。

 

最初は興味があった。

やってみたいと思った。

だから10万円を払った。

 

でも実際にやってみたら、

 

「あれ? 思っていたのと違うな」

 

「もうあまり興味がないかも」

 

「続けたいという気持ちが湧いてこない」

 

そんなこともあると思います。

 

ところが、ここで出てくるのが、

 

「でも10万円も払ったし……」

 

という気持ち。

 

せっかく10万円も払ったんだから、

最後までやらなきゃ。

 

もっと勉強しなきゃ。

 

何かに活かさなきゃ。

 

元を取らなきゃ。

 

そうやって、本当はもう気持ちが向いていないことに、さらに時間とエネルギーを使い続けてしまうことがあります。

 

これは「サンクコストの罠」と呼ばれるものの一つです。

 

 

 

 

 

 

 

お金を取り返そうとして、さらに何かを払っていない?



 

私は、ここで一度考えてみたいことがあります。

 

お金の元を取ろうとして、

 

さらに自分の時間やエネルギーまで払っていないだろうか?

 

ということです。

 

10万円を払った。

 

その10万円を無駄にしたくないから、

本当はやりたくないことに100時間を使う。

 

そうすると、10万円が戻ってきたわけではありません。

 

むしろそこに、自分の大切な100時間まで追加で投入したことになります。

 

もちろん、その100時間が楽しかったり、もっと知りたいと思えたり、充実感ややりがいがあったりするのなら、それは素敵な時間だと思います。

 

でも、

 

「元を取らなきゃ」

 

それだけを理由に、嫌々、渋々続けているとしたら。

 

私はそこで、

 

「元を取るためにこれを続けている私は、今、幸せかな?」

 

と自分に聞いてみてもいいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

大きなお金を払ったら、そこで一度「プラマイゼロ」


 

私は最近、こんなふうに考えるのもいいなと思うようになりました。

 

何かを購入したら、

 

そこで一度、

 

「プラマイゼロ」

 

と考えてみる。

 

例えば10万円の講座なら、

 

10万円を支払った。

 

そして、その代わりに

その講座を受ける機会や体験を受け取った。

 

そこで一度、取引は終了。

 

もちろん経済学的に「支払った瞬間にプラマイゼロになる」という意味ではありません。

 

これは、自分の気持ちを過去の金額に縛りつけないための、私なりの考え方です。

 

ここから先は、

 

「10万円分活かせるか?」

 

ではなく、

 

「実際にやってみて、私はどうだった?」

 

と自分に聞いてみる。

 

 

 

 

 

 

「合わなかった」も、ちゃんと得たもの


 

そもそも、やってみなければわからないことって、たくさんあります。

 

興味があって申し込んでみた。

 

実際にやってみた。

 

そして、

 

「私には合わなかった」

 

とわかった。

 

これも、ちゃんと一つの体験だと思います。

 

やる前には、

 

「自分に合うかもしれない」

「すごく好きになるかもしれない」

 

と思っていたものが、

 

実際に体験したことで、

 

「これは違う」

 

とわかった。

 

それって、自分についての情報を一つ手に入れたということでもあります。

 

私はこういうものには興味が続かないんだ。

 

こういう学び方はあまり好きじゃないんだ。

 

私はこっちより、あっちの方が好きなんだ。

 

そうやって、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。

 

だから私は、

 

「せっかく買ったのに活かせなかった」

 

だけで終わらせなくてもいいと思っています。

 

「やってみたから、私には合わないとわかった」

 

それも十分、得たものです。

 

 

 

 

 

 

大切なのは「活かせたか」より「やってみてどうだった?」


 

何かを買ったあと、

 

「ちゃんと活かさなきゃ」

 

と思うことがあります。

 

でも私は、

 

「活かせたか、活かせなかったか」

 

よりも、

 

「やってみて、どうだった?」

 

と自分に聞いてみる方が好きです。

 

面白かった?

 

もっとやりたい?

 

もう十分?

 

思っていたのと違った?

 

別のことに興味が出てきた?

 

その答えが、次の選択につながっていくからです。

 

 

 

 

 

 

過去に払ったお金ではなく、これからの自分を見る



過去に払ったお金は変えられません。

 

でも、

 

これから使う時間は選べます。

 

これから使うエネルギーも選べます。

 

これから注ぐ情熱も選べます。

 

だったら、

 

「10万円も払ったんだから」

 

ではなく、

 

「今の私は、何に時間を使いたい?」

 

「今の私は、何にエネルギーを注ぎたい?」

 

「今、何を面白そうだと思っている?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

そして、

 

「やってみたい」

 

「面白そう」

 

「もっと知りたい」

 

そんなふうに心が動くものがあるのなら、

 

そちらへ時間とエネルギーを使ってみる。

 

「元を取る」というのは、

 

過去に払ったものを必死に回収することだけではないのかもしれません。

 

その経験から自分のことを一つ知って、

 

次の選択を変える。

 

それだって、その経験を自分の人生に活かしたことになると私は思います。

 

払ったお金ではなく、

 

やってみた私の感覚を、次の選択に使う。

 

そして最後には、

 

「で、私はこれから、どこへ行きたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

過去に使ったお金を見つめ続けるのではなく、

 

これからの自分が向かいたい方へ。

 

時間も、エネルギーも、情熱も、

 

またそこから使っていけばいいのだと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



高かったから、元を取らなきゃ。

 

そう思って、

もう興味がなくなったことを

続けてしまうことってありませんか?

 

せっかく買ったんだから。

こんなにお金をかけたんだから。

途中でやめたら、もったいない。

 

そう思って、

本当はもう気持ちが向いていないのに、

渋々続けてしまう。

 

これが「サンクコストの罠」のひとつです。

 

そんなとき、私はこう考えてみてもいいと思います。

 

「元を取るためにこれを続けている私は、

今、幸せかな?」

 

「やりがいや充実感を感じているかな?」

 

もし答えがNOなら、

 

お金を取り返すために、

さらに自分の時間やエネルギーまで

差し出さなくてもいい。

 

過去に使ったお金は戻ってこなくても、

これから使う時間は選べます。

 

これから使うエネルギーも、

これから注ぐ情熱も選べます。

 

だったら、

 

「やってみたい」

「面白そう」

「もっと知りたい」

 

そう心が動くものに、

これからの自分を使ってみる。

 

それもまた、

ひとつの「元の取り方」なのかもしれません。

 

お金ではなく、

その経験をきっかけに

自分の時間とエネルギーの使い方を変える。

 

「高かったから続ける」ではなく、

 

「これからの私を、何に使いたい?」

 

過去に払った金額ではなく、

これからの自分を基準に選んでみる。

 

私は、そんなふうに

サンクコストの罠から抜けてもいいと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから







私は、夢や願望など、自分が向かいたい未来のことを「ゴール」と呼んでいます。

 

そして最近、改めて思うことがあります。

 

ゴールがあるからこそ、癒しやヒーリングに意味が生まれる。

 

私は、癒され続けることそのものをゴールにはしたくありません。

 

傷ついたことを癒したり、苦しかった気持ちを少し楽にしたり、自分の内側を整えたりすること。

 

それらはとても大切なことだけれど、そこで終わりではないと思っています。

 

「私は、どこへ行きたいんだろう」

「どんな人生を生きたいんだろう」

「何を叶えたいんだろう」

 

その先にあるものが見えてくると、癒しはただ過去を癒すためのものではなくなります。

 

これからの私を生きるための癒しになる。

 

夜空に輝く一番星のように、遠くにゴールがある。

 

だからこそ、今ここで立ち止まって自分を癒すことも、整えることも、その星へ向かう道の一部になるのだと思います。

 

ゴールがあるから、今ここでの癒しが未来につながっていく。

 

私は、そんなヒーリングを大切にしていきたいと思っています。



わたしたちは、悩み解決のために人生を生きているのではありません。

様々な体験や経験をしながら、夢を叶える、生きたい人生を生きるために
人生はあるのだと、わたしは思っています。

だから、生きたい人生を生きるために、
進めない原因となっている、解消が必要な悩みと向き合っていくということが大切なのです。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから




悩み解消をゴールにしないで

 

 

悩みがあるときって、

 

「この悩みさえなくなったら……」

「これさえ解決したら……」

 

と思いますよね。

 

そして実際に悩みが解消すると、

すごく嬉しいし、ほっとする。

心も身体も軽くなる。

 

もちろん、それはとても嬉しいことです。

 

でも私は、

 

悩み解消をゴールにするのは、ちょっともったいないかも。

 

と思っています。

 

なぜなら、

悩みが解消された状態は、

夢が叶った状態とは少し違うから。

 

悩みがなくなって、

安心して日常を過ごせる。

 

それは本来のあなたの

「デフォルトの状態」に戻ったとも考えられます。

 

だったら、そこをゴールにするのではなく、

 

その先に、本当に行きたい未来を置いてみる。

 

私は、夢や願望のことを

「ゴール」と呼んでいます。

 

「こんなことをやってみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

「こんな毎日を過ごしたい」

「こんなものを創ってみたい」

 

悩みとはまったく関係のないことでいいんです。

 

むしろ、たくさんあっていい。

 

そんなゴールがいくつもあると、

「悩みをなくすため」だけではなく、

 

行きたい未来へ向かうための力が生まれてきます。

 

そして、その未来へ向かうエネルギーが、

結果として今抱えている悩みを

動かしていく力になることもあります。

 

悩みを解消して、終わりじゃない。

 

その先には、

あなたが見てみたい景色がある。

 

だから、悩みがあるときほど、

 

「この悩みをどうしたらいい?」

 

だけではなく、

 

「私は、この先どこへ行きたい?」

 

も考えてみてください。

 

悩みをなくすことだけを

人生の目的にしてしまったら、

それはちょっと、もったいない。

 

あなたは、

悩みをなくすためだけに

生きているんじゃないから。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから


「人生を楽しみたい」

 

そう思って、私はなるべく自分の好きなように、やりたいことをやって過ごしています。

 

でも、ふと思いました。

 

私は、本当に楽しんでいるのかな?

 

そもそも「楽しむ」って、どういうことなんだろう。

 

遊園地へ行って、ジェットコースターに乗って、「キャー!」と心が躍る。

 

おいしいものを食べて、「おいしい!」と幸せになる。

 

こういうものは、とても分かりやすい「楽しい」です。

 

でも、何もしないでダラダラしている時間は?

 

ただぼーっとしている時間は?

 

何かを考えることに夢中になって、気づいたら何時間も経っていたような時間は?

 

その瞬間には「楽しい!」なんて思っていなくても、あとから振り返って、

 

「ああ、あの時間、よかったな」

 

と思うことがあります。

 

 

 

もしかすると、楽しんでいる最中に「私は今、楽しんでいる」と自覚している必要なんてないのかもしれません。

 

むしろ、本当にその時間の中にいるときほど、そんなことを考えていないのではないでしょうか。

 

ただ、その時間を生きている。

 

そして後から、

 

「ああ、楽しかったな」

「幸せだったな」

「またやりたいな」

 

と気づく。

 

そう考えると、「人生を楽しむ」ということも、無理やり楽しいことを作ることではないような気がしてきました。

 

いつもポジティブでいることでもない。

 

毎日ワクワクすることでもない。

 

今起こっている人生に、ちゃんといること。

 

なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

「今ここ」をつかまなくていい


 

「今ここを生きる」

 

よく聞く言葉です。

 

でも私は以前、この言葉を聞くと、

 

「今ここって、どうやって感じるんだろう?」

 

と思うことがありました。

 

今を感じなきゃ。

 

身体を感じなきゃ。

 

私は今ここにいる、と意識しなきゃ。

 

そうやって「今」をがっちりつかもうとしていたのかもしれません。

 

でも、今は少し違うように感じています。

 

本当に今ここにいるときって、

 

「私は今ここにいる」

 

なんて考えていないんですよね。

 

お茶がおいしかったら、おいしい。

 

風が気持ちよかったら、気持ちいい。

 

何かに夢中になっていたら、ただ夢中になっている。

 

眠かったら、横になる。

 

そこには、「ちゃんと今を感じられているかな?」という確認がありません。

 

**私はここにいる。

 

でも、それを意識しているというより、今という時間と静かに溶け合っている。**

 

そんな感じなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

三昧という言葉


 

そこから「三昧」という言葉を思い出しました。

 

私は以前、三昧というと、

 

ものすごく集中して、

深い意識状態に入って、

何かをがっしりつかむように没頭する。

 

そんなイメージを持っていました。

 

でも、もしかすると私が感じていたのは、もっと静かなものなのかもしれません。

 

「集中しなくては」と力を入れるのではなく、

 

ただ、その経験の中にいる。

 

「私は今、溶け込んでいる」

 

とさえ思わない。

 

ただ経験している。

 

ただ感じている。

 

ただそこにいる。

 

そして、この感覚を考えていたとき、私の中に浮かんできたのが、静かな湖でした。

 

 

 

 

 

 

澄んだ湖のように


 

風のない日の湖。

 

湖面は静かで、鏡のように空を映しています。

 

木々も、雲も、そのまま映っている。

 

湖は、

 

「もっと正確に空を映さなくては」

 

なんて努力していません。

 

「私は今、空と一体になれているだろうか」

 

なんて確認もしていません。

 

ただ静かに、そこにあるものを映している。

 

なんだか、それに近い気がしました。

 

何かをもっと欲しいとつかみにいくのでもなく、

 

嫌なものを「これはいらない」と押し返すのでもなく、

 

起こっていることを経験しながら、静かにそこにいる。

 

**何も感じないのではありません。

 

むしろ、ちゃんと感じている。

 

でも、つかまない。

 

避けない。

 

ただ澄んでいる。**

 

それが私にとっての「全面的に感じる」ということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

知らなかったのではなく、もう経験していた


 

そして、ここまで考えていて、もう一つ気づいたことがありました。

 

これは、まったく知らなかった感覚ではありませんでした。

 

「あ、この感じ、知ってる」

 

と思ったんです。

 

そういえば、あのとき。

 

何かに夢中になっていたとき。

 

ただ静かに過ごしていたとき。

 

何かを全面的に感じていたとき。

 

私はもう、何度も経験していた。

 

でも、その瞬間には分からなかった。

 

後になって言葉を知り、考えてみたことで、

 

「ああ、あれだったのか」

 

と過去の経験とつながった。

 

もしかすると、覚醒のようなものも、楽しむことも、そうなのかもしれません。

 

「今、私は覚醒している」

 

「今、私は人生を楽しんでいる」

 

と確認するものではなく、

 

その瞬間にはただ、生きている。

 

ただ感じている。

 

そして後から振り返ったとき、

 

「ああ、あのとき私は、あの瞬間を丸ごと生きていたんだな」

 

と気づく。

 

 

 

 

 

 

歓喜は、打ち上げ花火だけじゃない


 

私は、

 

「心が震える歓喜の人生に」

 

という言葉を大切にしています。

 

でも、歓喜というのも、いつも打ち上げ花火のように派手なものではないのだと思います。

 

大声で笑ったり、飛び跳ねたりするような歓喜もある。

 

一方で、

 

静かなところから、

身体の奥のほうから、

 

「ああ、生きているな」

 

と湧き上がってくるものもある。

 

だから、人生を楽しむために、毎日を楽しくしなくてもいい。

 

何もしない日があってもいい。

 

ぼーっとする時間があってもいい。

 

楽しくない日だってある。

 

湖には晴れた空だけではなく、曇り空も映ります。

 

雨が降れば、湖面には波紋が広がります。

 

それでも湖は、その日の空を映している。

 

だから私も、

 

「人生を楽しもう」と頑張らなくてもいいのかもしれない。

 

今日起こっている人生の中にいる。

 

感じる。

 

味わう。

 

そして、ときには何もせず、ただそこにいる。

 

その時間を後から振り返ったとき、

 

「ああ、楽しかったな」

 

と思うかもしれない。

 

「あの頃、幸せだったな」

 

と思うかもしれない。

 

それでいい。

 

人生を楽しむというのは、

 

楽しい人生を一生懸命つくることではなく、

 

自分の人生が起こっているその場所に、自分もいること。

 

なのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから





「人に助けてもらったことで、かえってその相手を嫌いになることがある」

 

そんな心の働きを説明する「自尊心脅威モデル」というものがあることを知りました。

 

最初に知ったとき、私は少し驚きました。

 

私は誰かに助けてもらったとき、その人に嫌悪感を抱いた経験があまり思い当たらなかったからです。

 

でも、考えていくうちに、

 

「ああ、これは場合によっては起こるかもしれない」

 

と思うようになりました。

 

たとえば、自分にとってものすごく恥ずかしい出来事があったとします。

 

誰にも見られたくなかった。

自分の無力さを感じた。

自分でも見たくないような、かっこ悪い自分だった。

 

そんなときに誰かに助けてもらった。

 

もちろん「助けてくれてありがとう」という感謝はある。

 

でも、その人を見るたびに、

 

「あのときの自分」

 

を思い出してしまう。

 

すると、いつしかその人と会うことそのものが嫌になったり、その人に嫌悪感を抱いたりすることもあるのかもしれません。

 

相手が嫌いというより、

 

「あんな自分が嫌だった」

 

という気持ちが、助けてくれた相手にくっついていることだってあるのかもしれない。

 

そんなことを考えていました。

 

でも、ここで私は少し引っかかりました。

 

もし、助けることによって相手の自尊心を傷つけてしまう可能性があるのなら、

 

「人を助けるときには気をつけなければいけないのかな?」

 

と。

 

少しだけ、ひるんだんです。

 

そこで私は、逆を考えてみました。

 

もし、助けなかったら?

 

たとえば、一人の女性の背後に怪獣が迫っているとします。

 

本人は気づいていない。

 

私はそれに気づいている。

 

そして私には、その人を助けることができる。

 

そんな状況なら、私はたぶん咄嗟に助けると思います。

 

ところが、助けられた女性が、

 

「自分では何もできなかった」

「助けられなければならなかった自分が惨めだ」

 

と感じて、その恥ずかしさから私を嫌いになることだって、理屈の上ではあるかもしれない。

 

では、私は嫌われないために何もしなければいいのでしょうか。

 

今度は、怪獣が迫っていることを知っていたのに私は何もしなかった。

 

その結果、女性は襲われて怪我をした。

 

そうなったら、

 

「気づいていたのに、どうして助けてくれなかったの?」

 

と思われるかもしれません。

 

 

 

もっと日常的な例なら、ワンピースの背中のファスナーが開いている人を見つけたとき。

 

私はたぶん、そっと近づいて小声で教えると思います。

 

そして、相手の了承を得てサッと直して、何事もなかったように過ごしてもらう。

 

でも、それによって、

 

「見られてしまった。恥ずかしい」

 

と思われるかもしれない。

 

だからといって、気づいているのに知らないふりをして、その人があとから自分で気づいたら、

 

「周りの人、絶対気づいていたよね。どうして誰も教えてくれなかったんだろう」

 

と思うかもしれない。

 

そこで気づきました。

 

 

 

どちらを選んでも、嫌われる可能性をゼロにはできない。

 

 

 

人を助けたとしても。

助けなかったとしても。

 

相手がその出来事をどう受け取るのかは、私には決められません。

 

「ここまでしてくれてありがとう」と思う人もいれば、

 

「そこまではしてほしくなかった」

 

と思う人もいる。

 

私は「ここまでやってあげたほうがいい」と思って行動しても、相手にとっては少しやりすぎだったかもしれない。

 

反対に、「本人ができるところは残しておこう」と思って手を出さなかったところを、

 

「そこも助けてほしかった」

 

と思われるかもしれない。

 

 

 

結局、

 

私がどんな意図で行動したのか。

実際にどんな援助をしたのか。

相手がどのくらいの援助を望んでいたのか。

そして相手がその出来事をどう意味づけるのか。

 

これは全部、同じではありません。

 

だから私は思いました。

 

相手が私をどう思うかまで、私が背負うことはできない。

 

それは相手のものだから。

 

私はそのとき、そのときの自分にできる範囲で考えて、感じて、行動するしかありません。

 

危ないと思ったら、助ける。

 

困っていると思って、手を差し伸べたいと思ったら、手を差し伸べる。

 

余裕がある場面なら、

 

「手伝おうか?」

 

と相手に聞くことだってできる。

 

でも、咄嗟の場面ではそんなことを考えている時間さえないことがあります。

 

 

 

そして、もう一つ思ったことがあります。

 

もし本当に危険な出来事を目の前にして、身体がフリーズしてしまったら。

 

頭が真っ白になって、

何をしたらいいのか分からなくなって、

身体も動かなくなってしまったら。

 

それは、

 

「助けなかった」

 

でも、

 

「助けようとしなかった」

 

でもないと思うんです。

 

 

助けることができなかった。

 

それだけなのだと思います。

 

 

 

「助けたい」という思考さえ生まれる前に、身体が固まってしまうことだってあるかもしれない。

 

それは悪意ではありません。

 

その瞬間に起きた身体の反応です。

 

あとから、

 

「どうして私は何もできなかったんだろう」

 

と自分を責め続けなくてもいい。

 

その瞬間の自分には、それしかできなかったのだから。

 

 

 

今回、「自尊心脅威モデル」というものを知ったところから、私はずいぶん遠くまで考えました。

 

人を助けたら、嫌われることもあるのかもしれない。

 

それを知ったとき、少し怖くなりました。

 

でも、ぐるっと一周して、今はこう思います。

 

それでも私は、助けたいと思ったら助ける。

 

相手がどう受け取るかは、相手のもの。

 

「もっとこうしてほしかった」

「そこまでしてほしくなかった」

「恥ずかしかった」

「あなたのことが嫌になった」

 

そう思われる可能性まで、私はなくすことはできません。

 

 

 

もちろん、できる限り相手の尊厳を大切にしたい。

 

できるなら本人の意思も確認したい。

 

でも、未来の相手の感情をすべて予測して、誰からも嫌われない行動を選ぶことはできません。

 

だったら私は、

 

嫌われないための選択より、自分が後悔しない選択をしたい。

 

その瞬間に自分が分かる範囲で。

その瞬間に自分ができる範囲で。

自分なりの精一杯をする。

 

そして、結果として相手から嫌われたとしても、

 

「あのときの私は、あのときの私なりに行動した」

 

と思えたら、それでいい。

 

 

 

逆に、何もできなかったとしても、

 

「あのときの私は、怖くて動けなかったんだね」

 

と自分のところへ戻ってくる。

 

助けても、助けられなくても。

 

相手が感謝しても、怒っても、嫌っても。

 

相手の気持ちは相手のもの。

 

そして私は、

 

その瞬間の自分ができることをして、自分まで自分を責めない。

 

「人から嫌われないために、どう行動するか」ではなく、

 

「私は、どうありたいのか」

 

今回、自尊心脅威という言葉について考え続けた先で、私はそこに戻ってきました。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから


ひらめきを待たない時間

――本人はスヤスヤ、自販機はせっせせっせ


 

前回、私はひらめきを「自動販売機」にたとえてみました。

 

知識や経験、体験を自分の中に入れていく。

 

そして、

 

「こんなものを作りたいな」

「何かいい方法はないかな」

「これとこれを組み合わせられないかな」

 

という問いを持つ。

 

これが自販機にお金を入れて、欲しいもののボタンを押すようなもの。

 

そして、すぐに答えが出てこないからといって、

 

「早く出して!」

「まだなの?」

「今すぐ答えが欲しい!」

 

と自販機をガンガン揺らさない。

 

ここまでが前回のお話でした。

 

では、ボタンを押したあと、

私は何をしているのか。

 

答えは、とても簡単です。

 

忘れます。






 

「待つ」のではなく「忘れる」


 

これは私にとって、とても大切なところです。

 

「そのうちアイデアが出てくるかな」

 

と待っているのとも少し違います。

 

待っているということは、

まだそこに意識が向いているからです。

 

「まだかな」

「そろそろかな」

「今日あたり出てくるかな」

 

これでは結局、自販機の前から離れていません。

 

しかも、

 

「早く答えが欲しい」

 

という気持ちが強くなってくると、

だんだん緊張してきます。

 

だから私は、

いったんそのことをすっかり忘れます。

 

問いを持ったら、

あとは普通に暮らす。

 

 

 

 

 

 

私の余白の過ごし方


 

では、その余白の時間に何をしているのか。

 

私は、のび太くんみたいにゴロゴロします。

 

お昼寝もします。

 

ゆっくり飲み物を飲んだり、

のんびりお風呂に浸かったり。

 

安全に歩けるときなら、

散歩をするのも好きです。

 

特別なことはしていません。

 

むしろ、

 

何かを生み出そうとしない時間

 

を過ごしています。

 

お風呂に入ったからといって、

 

「さあ、そろそろアイデアを3個ください」

 

なんてやりません。

 

「もう20分もお風呂に入っているんですけど、まだですか?」

 

とも言いません。

 

それでは結局、

自販機をガンガン揺らしているのと同じだからです。

 

ただ、お風呂を楽しむ。

 

眠かったら眠る。

 

飲み物をゆっくり味わう。

 

ぼーっとする。

 

その時間そのものを過ごします。

 

 

 

 

 

 

本人はスヤスヤ。自販機はせっせせっせ


 

創造的な問題についていったん考えたあと、そこから離れている時間を挟むことで、その後の問題解決やアイデア生成が促されることがあります。

 

認知心理学などでは、こうした現象に関連して「インキュベーション(incubation)」という言葉があります。

 

日本語では「孵化」と表現されることがあります。

 

この「孵化」という言葉、

私はとても素敵だなと思いました。

 

卵の中では何も起きていないように見える。

 

でも、見えないところでは少しずつ育っている。

 

そして、あるとき殻が割れる。

 

これって、ひらめきにも少し似ています。

 

もちろん、私たちが意識していない間に脳の中で具体的に何が起きているのかを、「ずっと裏側で答えを計算している」と単純に言い切ることはできません。

 

でも、私自身の感覚を自販機にたとえるなら、

 

本人はスヤスヤ。

自販機は、せっせ、せっせ……。

 

そんな感じです。

 

本人はもう、問いを忘れている。

 

お昼寝したり、

ご飯を食べたり、

お風呂に入ったり、

違うことを楽しんでいる。

 

その間に、

 

これとこれをつなげてみよう。

 

いや、こっちかな。

 

あの体験も使えるかもしれない。

 

そんなふうに、今まで自分の中に入れてきたものが、

見えないところで新しい組み合わせになっていくような感覚があります。

 

そして本人がすっかり忘れたころに、

 

ガコン。

 

「あ!!」

 

突然出てくる。

 

私は、この瞬間が大好きです。

 

 

 

 

 

 

ひらめきを生み出すために、余白を使わない


 

ここには、ちょっとした矛盾があります。

 

「余白を作るとひらめきが出るらしい」

 

と知った途端、

 

「じゃあ、ひらめくために余白を作ろう」

 

となってしまうことがあります。

 

でも私にとっては、

それもちょっと違うんです。

 

「今日はひらめくために30分ぼーっとしよう」

 

「お風呂に入ればアイデアが出るかもしれない」

 

「散歩したから、そろそろ何か出てくるはず」

 

となったら、

結局ずっと答えを待っています。

 

余白は、

ひらめきを生産するための作業時間ではありません。

 

余白は、余白。

 

だから、その時間そのものを楽しむ。

 

そしてひらめきは、

そこから生まれることのある副産物くらいでいい。

 

私はそんなふうに思っています。

 

 

 

 

 

 

まず入れる。そして、手放す


 

もちろん、何も自分の中に入れずに、

ただ待っているだけではありません。

 

本を読む。

 

知らないことを知る。

 

実際にやってみる。

 

人と話す。

 

感じる。

 

失敗する。

 

考える。

 

いろいろな体験をする。

 

そうやって、自分の中にたくさんの材料を入れていきます。

 

そして、

 

「私はこんなものを作りたい」

 

という問いを持つ。

 

ここまでは、ちゃんと自分でやる。

 

でも、そのあとは手放す。

 

忘れてしまう。

 

そして自分は、

のび太くんのようにのんびり過ごす。

 

すると、ある日突然、

 

ガコン。

 

「できましたよ」

 

とでも言うように、

思いもしなかった形で答えが出てくることがあります。

 

 

 

 

 

 

忘れている時間も、創造の時間


 

何かを作りたいときほど、

ずっとそのことを考えていなければならないような気がします。

 

でも私は、そうではない時間も大切にしています。

 

考える時間。

 

そして、

 

考えない時間。

 

知識や体験を入れる時間。

 

そして、

 

それをいったん手放す時間。

 

どちらもあっていい。

 

何もしていないように見える時間を、

「無駄」と決めなくてもいい。

 

もしかしたらその時間は、

 

まだバラバラのパーツだったものが、

自分でも予想していなかった形へと育っている途中なのかもしれません。

 

だから今日も私は、

安心して余白を過ごします。

 

本人はスヤスヤ。

 

自販機は、

 

せっせ、せっせ……。

 

そして、忘れたころに、

 

ガコン。

 

その瞬間を、

私は楽しみにしています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

現状を変えたいなら、まずはここから


余白は、何かが生まれるための場所


 

何もしていない時間って、

なんとなく「もったいない」と感じることがあります。

 

何かしなくちゃ。

もっと進めなくちゃ。

せっかく時間があるんだから、有効に使わなくちゃ。

 

そんなふうに思うこともあるかもしれません。

 

でも最近、私は思うんです。

 

余白は、何もない時間ではなく、何かが生まれるための場所なんじゃないか。






 

ひらめきは、余白の中からやってくる


 

アイデアやひらめきって、

 

「さあ、今から素晴らしいアイデアを出そう!」

 

と思ったからといって、必ず出てくるものではありません。

 

むしろ焦って、

 

「何か考えなきゃ」

「早く答えを出さなきゃ」

「今日中に決めなくちゃ」

 

と頭を絞っているときほど、何も出てこなかったりします。

 

反対に、

 

ゆっくり過ごしているとき。

ぼーっとしているとき。

何か別のことをしているとき。

 

そんな余白の中で、

 

「あっ!」

 

と突然何かがつながることがあります。

 

ずっと考えていたことの答えが、何の前触れもなく出てきたり。

 

バラバラだったものが突然一つにつながって、

 

「これだ!」

 

となったり。

 

私は、ひらめきってそんなふうに生まれるものなんじゃないかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

ひらめきって、自販機みたい


 

そんなことを考えていたら、

ひらめきって自動販売機みたいだなと思いました。

 

まず私たちは、いろいろなものを自分の中に入れていきます。

 

本を読んで知ったこと。

誰かとの会話。

自分自身の体験。

失敗したこと。

嬉しかったこと。

何気なく目にしたもの。

これまで考えてきたこと。

 

そういう知識や経験や体験が、

自販機に入れる「お金」みたいなもの。

 

そして、

 

「こんなものを作りたいな」

 

「これとこれをうまく組み合わせられないかな」

 

「もっといい方法はないかな」

 

と問いを持つ。

 

それが、欲しい商品のボタンを押すようなものです。

 

ピッ。

 

ここまでは自分でする。

 

でも、そのあとが大切なんです。

 

 

 

 

 

 

自販機をガンガン揺らさない


 

ボタンを押したのに、すぐ商品が出てこなかったら。

 

「早く出せ!」

 

「まだなの?」

 

「今すぐ答えを出さなきゃ!」

 

と、自販機をガンガン揺らしたくなるかもしれません。

 

でも、それをしたからといって早く出てくるわけではありません。

 

むしろ邪魔になってしまいそうです。

 

アイデアも、これと似ているように思います。

 

必要なものを自分の中に入れた。

 

問いも持った。

 

だったら、あとは少し離れてみる。

 

お茶を飲んでもいい。

散歩をしてもいい。

ご飯を食べてもいい。

全然違う本を読んでもいい。

何もしないでゆっくりしてもいい。

 

一見すると、

その問題について何もしていない時間です。

 

でも、その余白の中で、

それまで集めてきたパーツが静かに組み替わっているのかもしれません。

 

これとこれをつなげてみよう。

 

いや、こっちかな。

 

ここにあの経験を組み合わせたらどうだろう。

 

そんなふうに、私たちが意識していないところで、

新しい形が少しずつ出来上がっていく。

 

そしてあるとき突然、

 

ガコン。

 

「あ、これだ!」

 

出来上がったものが、

ひらめきとして出てくる。

 

そんな感じです。

 

 

 

 

 

 

余白だけでも生まれない


 

ただ、面白いのは、

何も入れていない自販機から商品は出てこないということです。

 

ひらめきが欲しいからといって、

ただずっとぼーっとしていればいいということでもない。

 

知ること。

感じること。

経験すること。

考えること。

失敗すること。

やってみること。

 

そうやって、自分の中にたくさんのパーツを入れていく。

 

そして、

 

「私はこんなものを作りたい」

 

「こんなことができたらいいな」

 

という問いを持つ。

 

そのうえで、

 

余白をつくる。

 

私は、この両方が大切なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

何もしていないように見える時間にも


 

私たちは、目に見える行動をしている時間を「進んでいる時間」と考えがちです。

 

作っている。

書いている。

勉強している。

仕事をしている。

何かを完成させている。

 

そういう時間は、確かにわかりやすい。

 

でも、人の内側で何かが育っている時間は、

外からはなかなか見えません。

 

だから、

 

「何もしていない」

「時間を無駄にしている」

 

ように感じてしまう。

 

でも、本当はそうではないのかもしれません。

 

それまで見聞きしたことや経験したことが、

自分の中でゆっくり混ざり合っている時間。

 

まだ言葉になっていないものが、

言葉になろうとしている時間。

 

まだ形のないものが、

形になろうとしている時間。

 

そんな時間もある。






 

余白は、創造の場所


 

だから私は、

余白を以前より大切にしたいと思っています。

 

急いで答えを出さなくてもいい。

 

すぐに完成させなくてもいい。

 

ボタンを押したなら、

自販機の前でガンガン揺らさなくてもいい。

 

そのうち、

 

ガコン。

 

と出てくるかもしれないから。

 

そのとき出てきたものは、

最初に自分が想像していたものより、

もっと面白い形になっていることだってあります。

 

余白は、

何もしていない時間ではありません。

 

余白は、まだ形になっていないものが、形になろうとしている場所。

 

だから、ときには安心して、

何もしない時間を過ごしてみてもいい。

 

もしかしたら今も、

あなたの中の自販機では、

 

次の素敵な何かを

せっせと作っている途中なのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



焦りの挑発に、乗らない


 

「早くしなきゃ」

「急がなきゃ」

「時間がない」

「こんなことをしている場合じゃない」

 

焦っているとき、

自分の内側ではものすごい速さで時間が流れているように感じることがあります。

 

まるで何かに追いかけられているような、

もうすでに遅れているような、

今すぐ何とかしなければ取り返しがつかなくなるような。

 

焦りって、ときどき私たちを挑発してくるんですよね。

 

「ほら、早くして」

「間に合わなくなるよ」

「もっと急いで」

 

そして私たちは、その挑発に乗せられてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「時間がない」と思ったら、アイラインが引けなくなった


 

以前、寝坊をしてしまったことがありました。

 

急いで準備をしなくちゃ。

早くメイクをしなくちゃ。

 

そう思いながらメイクを始めたのですが、いつもなら自然に引けるアイラインが、なぜかうまく引けない。

 

「時間がない」

「早くしなきゃ」

 

そう思えば思うほど手が震えて、かえって時間がかかってしまいました。

 

そのとき、

 

「あれ? これでは逆に時間をロスしているな」

 

と思ったんです。

 

そこで一度、気持ちを切り替えました。

 

もう、時間はたっぷりある。

大丈夫。

 

そう自分に声をかけるようにして、深く呼吸をして、息を整えました。

 

そして「急がない」と決めて、もう一度メイクを始めてみたんです。

 

すると、不思議なくらい、さささっとできました。

 

 

 

 

 

 

焦っていたのは、私の内側の世界だった


 

そして、そのときもう一つ気づいたことがありました。

 

焦っている私の内側では、

 

「急げ」

「時間がない」

「遅れている」

 

という、とても慌ただしい時間が流れていました。

 

ところが、ふっと目の前の景色を見てみたんです。

 

そこには、さっきまでと何も変わらない静かな景色がありました。

 

窓からは暖かな太陽の光が入ってきていて、

部屋には穏やかな時間が流れていました。

 

外の世界まで一緒になって、

 

「急げ!」

「早く!」

 

と私を追い立てていたわけではなかったんです。

 

慌ただしくなっていたのは、

私の内側の世界でした。

 

目の前を流れている時間そのものは、

とても静かでした。






 

焦りに従えば、早く進めるとは限らない


 

私はこれまで、焦りに押されて大きなことに挑戦したこともあります。

 

「早く形にしなくちゃ」

「早く完成させなくちゃ」

 

そんな焦りに乗せられて、何度も形にしようとしました。

 

けれど、結果として白紙に戻すことになった経験もありました。

 

その経験から私は、

 

焦りに従って行動することが、必ずしも早く目的地に着くことではない

 

と感じるようになりました。

 

急いで引こうとしたアイラインが、かえって引けなくなったように。

 

人生でも、焦っているときほど視野が狭くなって、

本当は何をしたかったのか、

自分はどう感じているのか、

何を選びたいのかが見えなくなることがあります。

 

だから今の私は、焦りがやってきても、その挑発にできるだけ乗らないようにしています。

 

「あ、来たね」

 

そのくらい。

 

焦りと戦うわけでもない。

焦りをなくそうと必死になるわけでもない。

焦りについて延々と考えるわけでもない。

 

ただ、焦りにハンドルを渡さない。

 

そして私は、私の速度に戻ります。

 

 

 

 

 

 

余白があるから、生まれるものがある


 

急がなくなって気づいたのは、

 

余白があるからこそ、生まれてくるものがある

 

ということでした。

 

自分の本当の声って、

案外とても静かです。

 

「私は、こっちが好き」

「これはちょっと違うかも」

「もう少しここを考えたい」

「これをやってみたい」

 

そんな小さな囁きのようなものだったりします。

 

だから、

 

「早く」

「もっと」

「次へ」

「間に合わない」

 

という大きな声で内側がいっぱいになっていると、

その小さな声は聞こえにくくなります。

 

余白ができる。

 

静けさが戻ってくる。

 

するとようやく、

自分の声が聞こえてくる。

 

そして、その声を聞きながら一つずつ作っていくと、

時間はかかったとしても、

自分が本当に作りたかったものに近づいていけるように私は感じています。

 

 

 

 

 

 

時間は、そんなに騒いでいない


 

焦っているときには、

世界中が自分を急かしているような気持ちになることがあります。

 

でも、そんなときこそ、

一度、目の前を見てみる。

 

窓から入ってくる光。

静かに置かれている家具。

目の前にあるもの。

自分の呼吸。

 

もしかしたら、

 

時間そのものは、私が思っているほど騒いでいないのかもしれません。

 

騒がしくなっているのは、

自分の内側だけなのかもしれない。

 

だったら、その速さに乗らなくてもいい。

 

深く息をして、

自分の速度に戻ればいい。

 

焦りに支配されない時間には、

余白があります。

 

余白があるから、

丁寧に暮らせる。

 

余白があるから、

冷静に考えられる。

 

余白があるから、

自分にとって大切なものを選べる。

 

そして余白があるからこそ、

まだこの世界になかった何かが、

自分の中から静かに生まれてくることもある。

 

だから私は、

焦りに挑発されても、その挑発には乗らない。

 

急かされる時間ではなく、

私自身の時間を生きていきたいと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



最近、また悪魔学の本を読んでいます。

 

少し難しくて、

わかるような、わからないような。

 

それでも面白くて、ゆっくり読み進めています。

 

そんな中で、ふと思いました。

 

日本人にとって「悪魔」という存在は、もともとはあまり馴染み深いものではなかったのではないか、と。

 

もちろん今では、映画や漫画、ゲーム、タロットなど、いろいろなところで「悪魔」という言葉や姿に触れます。

 

けれど日本には、日本なりの「怖いもの」がありました。

 

鬼、妖怪、もののけ、怨霊、幽霊。

 

病気や災いをもたらすと考えられた、目には見えない存在。

 

西洋の悪魔とは少し違います。

 

これはあくまで私個人の感覚なのですが、西洋の悪魔には、どこか大きくて、力強くて、輪郭のはっきりした怖さを感じます。

 

それに対して日本の怪異には、少し湿度を感じます。

 

暗いところに何かいるような。

まとわりつくような。

はっきり姿が見えないのに、何かの気配だけがするような。

 

同じ「怖い存在」でも、怖さの質が違うように感じるのです。

 

もちろん、実際の歴史や宗教はそんなに単純には分けられません。

 

日本の鬼という存在にも、中国の思想や仏教など、海外から入ってきた文化が長い時間をかけて混ざっています。

 

閻魔様もそうです。

 

閻魔様の源流をたどると、古代インドのヤマという存在に行き着きます。

 

古い神話の中では、ヤマは最初に死者の道をたどった者として語られ、やがて死者の王とされました。

 

それが長い時間をかけて仏教や中国の冥界観などと結びつき、日本にやってきた頃には、私たちにも馴染み深い「閻魔大王」へと姿を変えていきました。

 

そう考えると、とても不思議です。

 

人間は昔から、

 

「これは何なんだろう?」

 

というものにたくさん出会ってきたのだと思います。

 

突然、人が病気になる。

 

昨日まで元気だった人が亡くなる。

 

作物が実らない。

 

嵐が来る。

 

夜の暗闇から、何かの気配を感じる。

 

今なら、病原菌やウイルス、気象現象、身体の仕組みなど、科学によって説明できることがたくさんあります。

 

けれど、それがわからなかった時代の人にとっては、

 

「何かがいるのではないか」

 

「何かの仕業なのではないか」

 

と考えることは、それほど不思議なことではなかったのかもしれません。

 

そしてここから、私は別のことを考え始めました。

 

人間って、物理的な現実だけを生きているわけではないんだな、と。

 

たとえば映画を観ているとき。

 

身体は映画館の椅子に座っているのに、意識は物語の世界へ入っていきます。

 

本を読んでいるときもそうです。

 

目の前にあるのは紙と文字なのに、頭の中では知らない町が広がり、人が歩き、声が聞こえ、その人たちの人生に泣いたり笑ったりします。

 

夢を見ているときには、身体は布団の中にいるのに、知らない場所を歩いていることさえあります。

 

千円札だって、物理的に見れば印刷された一枚の紙です。

 

でも私たちは、そこに「千円」という意味や価値を共有しています。

 

人間は、目の前にある物質だけではなく、そこに意味を感じたり、まだ目の前にないものを心の中に描いたりしながら生きている。

 

そんなことを考えていたら、さらに面白いことに気づきました。

 

「恐れ」と「夢」は、意外と近いところから生まれているのかもしれません。

 

恐れは、

 

「もし、こんなことになったらどうしよう」

 

と、まだ起きていない未来を想像します。

 

夢は、

 

「こんなふうになったらいいな」

 

と、まだ存在していない未来を想像します。

 

どちらも、今ここにはまだありません。

 

はっきり決まってもいません。

 

だから怖い。

 

そして、だからこそワクワクする。

 

もちろん恐れと夢は同じものではありません。

 

でも、どちらにも、

 

「目の前にはまだないものを思い描く」

 

という人間の力が使われているのかもしれない。

 

そう思ったら、とても面白くなりました。

 

人間は、わからないものを怖がります。

 

「これは何だろう」

「この先どうなるんだろう」

 

その「わからない」の中から、悪魔や妖怪や怨霊のような存在を想像してきたこともあったのでしょう。

 

でも同じように、

 

「この先、どんな人生になるんだろう」

「こんなふうに生きられたらいいな」

 

という、まだ見ぬ未来も想像します。

 

見えないから怖い。

 

でも、見えないから可能性もある。

 

もしかすると人間は、現実の世界を生きながら、同時にたくさんの「意味の世界」を行き来して生きているのかもしれません。

 

過去を思い出したり、

未来を想像したり、

物語の世界へ入ったり、

夢を見たり、

まだ存在しないものを思い描いたり。

 

そして、その想像する力によって怖くなることもあれば、その力によって今日を一ミリ動かすこともできる。

 

悪魔のことを考えていたはずなのに、また人間の話になってしまいました。

 

そして最後には、やっぱり自分に戻ってきます。

 

まだ決まっていない未来を前にしたとき、

 

「怖いな」

 

と思う私もいる。

 

同時に、

 

「こんなふうになったらいいな」

 

と思う私もいる。

 

どちらも、まだ見えないものを見ることのできる私。

 

そう考えると、恐れが生まれるこの想像力は、夢を見るための力でもあるのかもしれません。

 

人間って、目の前の現実だけを生きるには、少し想像力が豊かすぎる生き物なのかもしれませんね。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

現状を変えたいなら、まずはここから




悪魔のことを考えていたら、「人間はなぜ祈るのか」にたどり着いた


 

ふと、こんなことを思いました。

 

「悪魔」と呼ばれるような存在は、神よりも前から、悪魔という名前ではなくても存在していたのだろうか?

 

もちろん、本当にそのような存在がいたのかという話ではありません。

 

人間が「自分たちには到底及ばない、大きな力を持った何かがいるのではないか」と考えることは、いつ頃から始まったのだろう?という疑問です。

 

 

 

 

 

 

人間にはどうすることもできない「何か」


 

昔の人たちは、今よりずっと自然と直接向き合いながら生活していました。

 

雨が降らなければ、作物が育たない。

 

雨が降りすぎても、作物が駄目になってしまう。

 

嵐や洪水が起これば、家や畑が失われることもある。

 

病気が流行っても、なぜ病気になったのか分からない。

 

現代のような気象予報も、医学も、科学的な説明もありません。

 

そんな世界で生きていたら、

 

「これは一体、何が起こっているんだろう?」

 

と思うのは、とても自然なことだったのではないでしょうか。

 

最初から「神様」や「悪魔」という、人間のような姿をした存在を想像していたとは限りません。

 

もっと漠然と、

 

自然の中には、人間には到底及ばない「何か」がある。

 

雨を降らせる何か。

 

風を吹かせる何か。

 

作物を育てる何か。

 

ときには、人間の命まで奪ってしまう何か。

 

そんなふうに感じていた人たちもいたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

怖いのは「見えない存在」ではなく、「何が起こるか分からないこと」なのかもしれない


 

考えているうちに、もう一つ気づいたことがありました。

 

人間が怖かったのは、「見えない存在」そのものではなかったのかもしれません。

 

本当に怖かったのは、

 

「次に何が起こるか分からないこと」

 

だったのではないでしょうか。

 

今年は雨が降るのか。

 

作物はちゃんと実るのか。

 

家族は病気にならずに冬を越せるのか。

 

この病気はいつ終わるのか。

 

明日も無事に生きていられるのか。

 

しかも、その「分からない」は、現代の私たちが感じる未来への不安よりも、ずっと直接的に命と結びついていた場合もあったでしょう。

 

今の私たちには、天気予報があります。

 

病気になれば医療があります。

 

食べ物は、自分で育てなくてもお店で買うことができます。

 

雨風をしのげる家があり、電気があり、水道があります。

 

もちろん、現代でもすべての人の安全が保障されているわけではありません。

 

それでも、生きるためのたくさんの仕組みに守られていることは、改めて考えると本当にありがたいことだと思います。

 

 

 

 

 

 

何もできないより、「できること」があったほうが安心する


 

でも昔は、原因さえ分からないことがたくさんあった。

 

そんなとき、

 

「神様が怒っているのかもしれない」

 

「何か大きな存在が関係しているのかもしれない」

 

と考えたとします。

 

すると、

 

祈ってみよう。

 

収穫した穀物を捧げよう。

 

供物をしてみよう。

 

みんなで儀式をしてみよう。

 

という「できること」が生まれます。

 

もちろん、それによって本当に雨が降ったのか、本当に病気が治ったのかという因果関係とは別の話です。

 

けれど、

 

「何もできない」

 

という状態から、

 

「自分たちにできることをした」

 

という状態には移ることができます。

 

それだけでも、不安の大きさは違ったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「機嫌の分からない親」と少し似ていると思った


 

ここで私は、親子関係のことを思い浮かべました。

 

たとえば、親の機嫌が日によって大きく変わる家庭にいたとします。

 

子どもには、なぜ親の機嫌が悪いのか分かりません。

 

すると、

 

「私が何かしたのかな?」

 

「いい子にしていたら怒らないかな?」

 

「明るくしていたら、お父さんも機嫌がよくなるかな?」

 

と考えることがあります。

 

本当は子どもとは関係のない理由で親の機嫌が悪かったのかもしれません。

 

それでも、

 

「こうすれば大丈夫」

 

という方法があったほうが、子どもにとって世界は少し予測しやすくなります。

 

自然に対する祈りや儀礼にも、一部にはこれと似た心理があったのかもしれないと思いました。

 

雨が降らない。

 

理由が分からない。

 

怖い。

 

でも、

 

「何か大きな存在が怒っているのかもしれない」

 

と考えれば、

 

「では、祈ってみよう」

 

という行動が生まれます。

 

理解できない世界に原因を見つけて、そこに働きかける方法を作る。

 

それは、不確実な世界の中で安心して生きるための、人間なりの知恵でもあったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

昔の人は、どうしてそこまで信じられたんだろう?


 

私はこれまで、昔の宗教や悪魔、魔術、呪術などについて知ると、

 

「どうして昔の人は、そこまで見えない存在を信じたり、恐れたりしたんだろう?」

 

と思うことがありました。

 

現代から見ると、迷信のように感じることもあります。

 

でも今回、

 

「もし私自身が、その時代に生まれていたら?」

 

と考えてみました。

 

現代の知識を持ったまま昔へ行くのではありません。

 

科学的な気象予報も知らない。

 

細菌やウイルスについても知らない。

 

現代医学も知らない。

 

自分が生まれ育った村では、昔から、

 

「こういうときには、こうして祈るんだよ」

 

「こういうものを捧げるんだよ」

 

と教えられている。

 

もしそんな世界に私が生まれていたら。

 

たぶん私も祈ったと思います。

 

「こうするといいよ」と教えてもらったら、やってみたと思います。

 

家族を守りたいから。

 

自分も生きたいから。

 

できることがあるなら、やっておきたいから。

 

そう考えたら、昔の人たちとの距離が急に縮まったように感じました。

 

 

 

 

 

 

変わったのは「人間」よりも、人間を取り囲む世界なのかもしれない


 

昔と今では、生活環境は大きく違います。

 

科学も医学も発達しました。

 

自然について分かることも、とても増えました。

 

それでも人間は、

 

未来を知りたい。

 

大切な人を失いたくない。

 

健康でいたい。

 

安全に暮らしたい。

 

何が起きているのか知りたい。

 

自分にできることがあるなら、やっておきたい。

 

そう思います。

 

ここは、昔の人とそれほど変わっていないのかもしれません。

 

未来についても同じです。

 

どれだけ科学が進歩しても、私たちは未来そのものを見ているわけではありません。

 

だから今でも、

 

「これからどうなるんだろう」

 

「私は大丈夫かな」

 

と思うことがあります。

 

昔と現代では、その不安への向き合い方や、利用できる知識や方法が変わった。

 

けれど、

 

安心して生きたい。

命を守りたい。

大切な人を守りたい。

 

という人間の根っこの部分は、案外変わっていないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

「生きる」から「どう生きる」へ


 

そして現代の日本では、少なくとも昔と比べれば、生きるための土台を社会の仕組みに支えてもらえる場面が増えました。

 

蛇口をひねれば水が出る。

 

お店に行けば食べ物がある。

 

雨風をしのげる家がある。

 

病気になれば医療を受けられる。

 

だからこそ、私たちは昔とは違う方向から「命」を考えるようになったのかもしれません。

 

「今日、生き延びられるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私は、どう生きたいんだろう?」

 

「私は何を大切にしたいんだろう?」

 

「私は何を感じているんだろう?」

 

「私はどんな人なんだろう?」

 

と。

 

生きることから、どう生きるかへ。

 

そこから自分自身を知っていくことも、現代に生きる私たちなりの「命を知る」ということなのかもしれません。

 

悪魔についてふと思った小さな疑問から始まったのに、ずいぶん深いところまで来ました。

 

でも考えてみると、神も、悪魔も、祈りも、魔術も、その背景にはいつも、それらについて考えた「人間」がいます。

 

だから歴史を知ることは、昔の不思議な世界を知るだけではなく、

 

「人間って、どんな生き物なんだろう?」

 

と知っていくことでもあるのかもしれません。

 

そして昔の人を知ろうとすることは、巡り巡って、

 

今を生きている自分自身を知ることにもつながっている。

 

今回、そんなことを感じました。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから



私が「透視をする」のではなく、透視術を教えている理由


 

私は、千里眼透視術を学ぶための講座をいくつか提供しています。

 

透視術を自分で身につけて、自分自身の人生に活かしてみたい。

 

自分の中にある感覚や能力を、もっと育ててみたい。

 

そんな方に向けて、私が学び、実践してきた「透視する方法」をお伝えしています。

 

 

 

 

 

 

「本当にできるなら、私を見てください」

 

 

透視術の講座を販売していると、

 

「本当に透視できるの?」

「少し私を見てもらえませんか?」

 

と思う方がいるのも、とても自然なことだと思っています。

 

実際、以前お問い合わせをいただいたこともありました。

 

そのとき私は、鑑定はお受けしていないことをお伝えしました。

 

なぜなら、私がその講座で提供しているのは、

 

「私があなたを透視すること」ではなく、「あなたが自分で透視するための方法」

 

だからです。






 

私があなたの未来を見るための講座ではありません


 

もちろん、透視鑑定そのものを商品として出品しているときに、正式にご依頼をいただいたのであれば、鑑定というサービスとしてお引き受けします。

 

でも、透視術の講座はそれとは別のものです。

 

私があなたの未来を見て、

 

「こうなりますよ」

「こちらへ進んだほうがいいですよ」

 

と答えを渡すためのものではありません。

 

あなた自身が自分の感覚を育て、自分の人生を見るための透視術です。

 

私はここを、とても大切にしています。

 

 

 

 

 

 

自分の人生を動かしていけるのは、自分自身だから


 

どれだけ誰かに未来を見てもらっても、最終的にその人生を生きるのは自分自身です。

 

何を選ぶのか。

 

どちらへ進むのか。

 

何をやめるのか。

 

何を始めるのか。

 

そして、見えてきたものを自分の人生にどう活かしていくのか。

 

それを決めていくのも自分です。

 

だから私は、私が答えを見て渡し続けることよりも、

 

自分で感じ、自分で確かめ、自分の人生に活かしていける方法をお伝えしたい。

 

そう思っています。






 

透視術は「答えをもらうもの」ではなく、ひとつの道しるべ


 

私は、透視術を人生の絶対的な答えだとは考えていません。

 

透視したものに人生を決めてもらう必要もないと思っています。

 

感じたこと、見えたことをひとつの情報として受け取り、

 

「私はどうしたいんだろう?」

 

と、自分自身に戻ってくる。

 

透視術も、自分の人生をより深く知り、自分らしく歩いていくためのひとつの道しるべとして使うことができます。

 

 

 

 

 

 

能力を見せたいのではなく、あなた自身に使ってほしい


 

だから私は、能力をひけらかしたいわけでもありません。

 

反対に、能力を出し惜しみしているわけでもありません。

 

私が提供したいものが、そこではないのです。

 

「私にはこんなことができます」と見せることより、

 

「あなたも、自分の中にある感覚を育ててみませんか?」

 

と伝えたい。

 

そして、身につけたものを私のためではなく、あなた自身の人生のために使ってほしい。

 

それが、私が透視術を「鑑定してあげるもの」ではなく、「自分で使える方法」としてお伝えしている理由です。

 

 

 

 

 

 

自分の人生を見る人は、自分自身


 

私があなたの未来を見るための講座ではありません。

 

あなた自身が自分の感覚を育て、自分の人生を見るための透視術です。

 

未来の答えを誰かから受け取るためではなく、

 

自分自身の感覚と出会い、自分の人生を自分で歩いていくために。

 

透視術が、そのためのひとつの小さな道しるべになればいいなと思っています。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション

 

先日、仕事をするデスクの配置を変えたことから、「ゼロ円開運」ということを考えました。

 

運を良くするために、自分を何かの正解に合わせるのではなく、

 

「私は、こっちのほうが心地いい」

 

「このほうが使いやすい」

 

「ここにいると落ち着く」

 

そんな自分の感覚を確かめながら、自分が自然に動ける環境をつくっていく。

 

特別なものを買わなくてもできるから、

 

「ゼロ円開運」

 

そんなふうに名づけてみました。

 

そして、このことについて考えていたら、もう一つ大切なことに気づきました。

 

自分が心地よくいられる環境をつくるためには、まず、

 

「私は今、どう感じている?」

 

と、自分の状態を知ることが必要なんですよね。

 

心地いい?

 

窮屈じゃない?

 

疲れていない?

 

つらくない?

 

無理していない?

 

本当は嫌じゃない?

 

私は今、どんな感じ?

 

そんなふうに、ときどき自分自身に声をかけてみる。

 

考えてみれば、私たちは大切な友達には、自然とこういうことをしています。

 

久しぶりに会った友達に、

 

「最近どう?」

「元気にしてた?」

 

と聞いたり。

 

体調を崩していた友達が元気になって戻ってきたら、

 

「もう大丈夫?」

「無理しないでね」

 

と声をかけたり。

 

少し元気がなさそうだったら、

 

「何かあった?」

「疲れてない?」

 

と気にかけたり。

 

大切な人だから、その人が今どんな状態なのかを知ろうとする。

 

そして、必要ならそっと寄り添ったり、力になろうとしたりする。

 

それなら、自分自身にも同じようにしてあげてもいいんですよね。

 

「私、最近どう?」


「私、今どんな感じ?」

 

ときどき、自分に聞いてあげる。

 

でも、ここで大切なのは、

 

すぐに解決してあげることではありません。

 

友達から、

 

「最近ちょっと疲れてるんだ」

 

と聞いたとき、必ずしもすぐに解決策を見つけてあげる必要はありません。

 

「そうなんだ。疲れてるんだね」

 

と、まずその人の状態を知る。

 

それだけのこともあります。

 

自分に対しても、きっと同じです。

 

「私、疲れてるんだな」

 

「思っていたより窮屈だったんだな」

 

「本当は、これ嫌だったんだな」

 

「頑張っていたんだな」

 

「本当は、こっちのほうが好きだったんだな」

 

まずは、それを知ってあげる。

 

すぐに直さなくてもいい。

 

すぐに元気にならなくてもいい。

 

すぐに答えを出さなくてもいい。

 

ただ、

 

「今の私は、そう感じているんだね」

 

と、自分が自分のことを知っている。

 

私は、このことがとても大切なのではないかと思います。

 

私たちは毎日、自分自身と一緒に生きています。

 

それなのに、自分が何を感じているのかを確認しないまま、

 

「こうしたほうがいい」

 

「これくらい我慢しなきゃ」

 

「まだ頑張れる」

 

「みんなやっているから」

 

と、自分をどんどん先へ進ませてしまうことがあります。

 

でも、ときどき立ち止まって、

 

「ねえ、私。最近どう?」

 

と聞いてみる。

 

すると、今まで聞こえていなかった小さな声に気づくことがあります。

 

「ちょっと疲れてる」

 

「本当は休みたい」

 

「これは好きじゃない」

 

「こっちのほうが落ち着く」

 

「これは楽しい」

 

「もう少しやってみたい」

 

そんな自分の声を知る。

 

私は、これもまた、

 

「自分と仲良くなる」

 

ということの一つなのだと思います。

 

自分と仲良くなるというのは、自分を思い通りに変えることではなくて。

 

まず、

 

自分を知ろうとすること。

 

大切な友達の様子を気にかけるように、自分の様子も気にかけてみる。

 

何か問題が起きたときだけではなく、

 

「最近どう?」

 

と、ときどき自分のところへ様子を見に行く。

 

そして、

 

「そっか。今はそうなんだね」

 

と知ってあげる。

 

そこから必要なら、休むこともできる。

 

環境を変えることもできる。

 

やめることもできる。

 

続けることもできる。

 

誰かに助けを求めることもできる。

 

でも、それはその次の話。

 

まずは、今の自分を知ることから。

 

今回の「ゼロ円開運」も、結局ここにつながっていたのかもしれません。

 

自分が自然に動ける環境をつくるためには、

 

「一般的には何がいいの?」

 

だけではなく、

 

「私はどう?」

 

を知らなくてはいけない。

 

心地いい?

 

使いやすい?

 

落ち着く?

 

疲れてない?

 

無理してない?

 

今の私は、どんな感じ?

 

そうやって、自分の声を聞きながら環境を整えていく。

 

それは、自分の人生を自分で大切に扱うことでもあるのだと思います。

 

そしてこれは、お金をかけなくても、今日からできます。

 

朝起きたときでもいい。

 

仕事の途中でもいい。

 

夜、眠る前でもいい。

 

ふと思い出したときに、

 

「私、今どう?」

 

と聞いてみる。

 

答えがすぐに出なくてもいい。

 

何も感じなくてもいい。

 

まずは自分に問いかけてみる。

 

大切な友達を気にかけるように、

 

自分のことも、気にかけてあげる。

 

そんな小さなやりとりの積み重ねから、

 

自分との関係も少しずつ育っていくのかもしれません。

 

「私、最近どう?」

 

ときどき、自分にも聞いてあげたい言葉です。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション


今日は久しぶりに、仕事をするデスクの配置を変えました。

 

配置替えといっても、実際には以前の位置に戻しただけなのですが、

 

「ああ、やっぱりこっちのほうがいいな」

 

と感じました。

 

使いやすい。

なんとなく落ち着く。

仕事をしようと思ったときにも、自然に動きやすい。

 

そして今回、机を動かしながら、ふと思ったことがあります。

 

もしかすると、こういうことこそが、私にとっての「開運」なのかもしれない、と。

 

世の中には、風水やおまじない、昔から伝わる知恵など、さまざまなものがあります。

 

「この方角がいい」

「ここにはこれを置くといい」

「こうすると運気が上がる」

 

そうしたものを楽しんだり、暮らしに取り入れたりすること自体は、私はいいと思っています。

 

たとえば、

 

「こういう自分になりたいから、この方角に頭を向けて寝てみよう」

 

と願いを込めて試してみる。

 

そして実際に、

 

「なんだか落ち着くな」

「よく眠れる気がする」

「この向き、私は好きだな」

 

と感じたなら、そのまま取り入れればいい。

 

何かに願いを込めることも、何かに効果を期待することも、悪いことではないと思います。

 

大切なのは、

 

その中に「私」がいるかどうか。

 

なのかもしれません。

 

私自身、今回改めて気づいたことがありました。

 

感覚としては、

 

「なんだか落ち着かないな」

「使いにくいな」

「本当はこっちのほうがいいな」

 

と感じている。

 

それでも、

 

「でも、こっちのほうがいいと言われているから」

 

と、自分の感覚を後回しにしてしまうことがある。

 

幸せになるために取り入れたはずなのに、それによって今の自分が心地悪くなっている。

 

運を良くしたくて始めたはずなのに、

 

「これはしてはいけない」

「こうしなければいけない」

 

という決まりが増えて、自分自身が窮屈になっている。

 

それは、少し不思議なことですよね。

 

だから私は、外側にある知恵を否定するのではなく、

 

それを参考にしながらも、最後には自分に戻ってきたい

 

と思うようになりました。

 

「私は、どう感じている?」

 

「私は、どちらが心地いい?」

 

「私は、どちらが使いやすい?」

 

「私は、本当はどうしたい?」

 

そうやって、自分自身に聞いてみる。

 

そして、自分が安心して過ごせて、軽やかに、自由に、自然に動ける環境をつくっていく。

 

私は、これも一つの「開運」なのではないかと思っています。

 

名づけるなら、

 

「ゼロ円開運」

 

です。

 

特別なものを買わなくてもできます。

 

家具の位置を少し変えてみる。

 

使いにくいものを動かしてみる。

 

なんとなく落ち着かない場所を見直してみる。

 

自分が好きなものを、自分が心地いい場所に置いてみる。

 

そして何より、

 

「一般的にはどうなの?」よりも先に、

「私はどう感じる?」と聞いてみる。

 

もちろん、誰かの知恵を借りたっていい。

 

風水を参考にしたっていい。

 

願いを込めたっていい。

 

「こうなったらいいな」と効果を期待したっていい。

 

大切なのは、それを新しい「正解」にして、自分をそこへ無理やり押し込めないこと。

 

試してみて、

 

「これは私には合っている」

 

と思ったら取り入れる。

 

「私はやっぱりこっちのほうが好き」

 

と思ったら戻してみる。

 

一度選んだことを、途中で変えたっていい。

 

そうやって何度でも、

 

「私はどう感じている?」

 

と自分のところへ戻ってくる。

 

考えてみれば、私たちは日々、たくさんのものから影響を受けながら生きています。

 

誰かの言葉。

広告。

SNS。

世の中の常識。

「こうしたほうがいい」という情報。

 

人から影響を受けること自体は、悪いことではありません。

 

誰かの言葉に背中を押されることもある。

 

知らなかったことを教えてもらって、世界が広がることもある。

 

素敵なものを知って、「私もやってみたい」と思うこともあります。

 

だから、誰からも影響を受けない人になる必要はないのだと思います。

 

むしろ大切なのは、

 

影響を受けたあとにも、自分に戻ってこられること。

 

「私はどう感じている?」

 

と、自分に聞いてみること。

 

これは、自分の人生の舵を自分で取ることでもあり、

 

自分自身が、自分の人生の操縦席に座ること

 

でもあるのだと思います。

 

人生は、自分一人の力だけで動いているわけではありません。

 

人との出会いや協力、環境、タイミング。

 

自分ではコントロールできないたくさんのものが、思いがけず背中を押してくれることもあります。

 

それでも、その中で、

 

「私はこっちへ行ってみたい」

 

「これはやめておこう」

 

「これは好き」

 

「ここは心地よくない」

 

と感じながら、自分の人生を歩いていくのは自分自身です。

 

だから私は、

 

影響を受けない私になるのではなく、

影響を受けても、自分に戻ってこられる私でいたい。

 

そして何度でも、

 

「私は、どう感じている?」

 

と聞いてみたい。

 

もしかすると「自分と仲良くなる」ということも、こんな小さな問いかけから始まるのかもしれません。

 

開運のために、自分を何かに合わせるのではなく。

 

いろいろな知恵や人の力も借りながら、それでも最後には自分の感覚へ戻ってくる。

 

自分が安心して、心地よく、自然に動ける人生を、自分と一緒につくっていく。

 

それが今の私にとって、とても大切な「開運」なのだと思います。








魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション


セッションという時間について、最近改めて考えることがあります。

 

私にとってセッションは、ただ「料金をいただいて、決められた時間、サービスを提供する」というものではありません。

 

もちろん、お仕事として料金をいただいている以上、提供する側としての責任があります。

 

でも、それだけではないと思っています。

 

なぜなら、

 

あなたの時間も、私の時間も、命の時間だから。

 

1時間のセッションなら、お互いの人生に流れている1時間を、その場所に持ち寄っている。

 

クライアントさんは、自分の人生の大切な時間とお金を使って、その場所に来てくださる。

 

そして私も、自分の人生に流れている大切な時間を使って、その方と向き合います。

 

その方が何を望んでいるのか。

 

どんな未来へ行きたいのか。

 

今、どこで立ち止まっているのか。

 

何があれば、もう一度歩き出せそうなのか。

 

その方にとって、どんな方法が合っているのか。

 

必要であればヒーリングも使いながら、その方の夢や望む未来に向かって、私は全力で関わらせていただきます。

 

だから私は、セッションというものを、

 

お互いの命の時間を持ち寄って、一人の人の未来のために使う時間

 

だと思っています。

 

 

 

 

 

 

お金を払ったから「やってもらう」ではなく


 

セッションには料金があります。

 

でも私は、

 

「お金を払ったのだから、相手に何とかしてもらう」

 

という関係とは、少し違うと思っています。

 

もちろん、提供する側にはいただいた料金に対する責任があります。

 

でも、クライアントさんの人生を実際に生きることができるのは、クライアントさん自身です。

 

だから、

 

「私の人生を動かしていくために、この人に力を貸してもらう」

 

そんな感覚が、私はとても大切だと思っています。

 

そして、それは私の側も同じです。

 

「料金をいただいたから、決められたことを決められた時間だけ行う」

 

という感覚ではありません。

 

この方が、大切な人生の時間を使ってここに来てくださった。

 

そして、自分の人生の一部を私に話してくださっている。

 

だから私も、その方の人生に真摯に向き合いたい。

 

その方の未来のために、今の私ができることを精いっぱいしたい。

 

お金だけではなく、

 

時間も、真剣さも、信頼も、行動も。

 

いろいろなものが行き交う時間。

 

私にとってセッションとは、そんな時間です。

 

 

 

 

 

 

私は、あなたの人生を代わりに歩くことはできない


 

私は、あなたの人生を代わりに生きることはできません。

 

夢を代わりに叶えることもできません。

 

でも、

 

一人で歩けるようになるまで、一緒に歩くことはできます。

 

夢に向かって一歩進めたら、

 

「やったね」

 

と一緒に喜ぶ。

 

勇気を出して何かに挑戦したら、その一歩を一緒に喜ぶ。

 

思ったような結果にならなかったら、

 

「残念だったね」

 

と、その残念さも一緒に感じる。

 

そして、

 

「じゃあ、ここからどうしようか」

 

と、また一緒に道を探す。

 

嬉しい日だけではなく、悔しい日も、悲しい日も、迷う日もあると思います。

 

夢へ向かう道は、いつも一直線ではないから。

 

だから、その途中で生まれるいろいろな感情も一緒に感じながら、その方に合った道を一緒に探していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

私が増やしたい「魔法使い」


 

私は、「魔法使いを増やしたい」と思っています。

 

私が言う魔法使いとは、特別な能力を持っている人のことではありません。

 

自分と仲良くなっている人。

 

自分のことを知っている人。

 

自分の感覚に耳を傾けられる人。

 

自分の望みを知り、自分で選び、自分の人生を少しずつ動かしていける人。

 

そして、自分との関係や自己信頼を、これからも育て続けていける人。

 

つまり、

 

自分の人生に、自分自身が参加している人。

 

私は、そんな魔法使いを増やしたいのです。

 

だから私のところへずっと通い続けてもらうことが、私にとってのゴールではありません。

 

むしろ、いつか、

 

私がいなくても、自分の人生を歩いていけるようになること。

 

それは、とても嬉しいことだと思っています。

 

 

 

 

 

 

いつか訪れる「卒業」


 

一緒に歩いてきた人が、自分自身を知っていく。

 

少しずつ自分を信じられるようになる。

 

自分で考え、自分で選び、自分で一歩を踏み出せるようになる。

 

そして、いつか私の手を離れて、一人で歩いていく。

 

その日が来たら、きっと私は少し寂しいと思います。

 

でも、それ以上に嬉しい。

 

卒業式みたいなものなのかもしれません。

 

何かが終わってしまう日ではなく、

 

その人の新しい人生が始まる日。

 

だから、その背中を見送りながら、

 

「いってらっしゃい」

 

と言える人でありたい。

 

私は、そんな卒業の瞬間に、これからたくさん立ち会いたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

困ったときには、また戻ってきていい


 

もちろん、一人で歩き始めたからといって、もう二度と人の力を借りてはいけないわけではありません。

 

人生には、一人では難しいこともあります。

 

迷うこともあります。

 

自分だけでは見えなくなってしまうこともあります。

 

そんなときには、

 

「ちょっと力を貸して」

 

と、いつでも戻ってきていただいていいのです。

 

また必要なところだけ、一緒に歩けばいい。

 

そして、もう大丈夫と思ったら、

 

「いってらっしゃい」

 

と、また送り出す。

 

依存するのでもなく、

 

一人ですべてを背負うのでもなく、

 

必要なときには誰かの力を借りながら、それでも自分の人生の主役として歩いていく。

 

私は、そんな関係でありたいと思っています。






 

私も私の人生を生きる。あなたもあなたの人生を生きる。


 

私には、私の人生があります。

 

叶えたい夢があります。

 

見てみたい景色があります。

 

私も、自分自身の人生を創造しながら生きていきたいと思っています。

 

そして、あなたには、あなたの人生があります。

 

だから、

 

私も私の人生を生きる。

あなたもあなたの人生を生きる。

 

どちらかがどちらかの人生を背負うのではありません。

 

それぞれが、それぞれの人生を歩いている。

 

でも、ご縁があって道が重なったときには、一緒に歩くことができる。

 

お互いの大切な命の時間を持ち寄って、一緒に考え、一緒に感じ、一緒に未来へ向かっていく。

 

そして、その方が自分の人生を生き、その人生が花開く瞬間が来たら、

 

「やったね!」

 

と、一緒に喜びたい。

 

それは、私にとっても大きな喜びです。

 

私が叶えてあげたのではありません。

 

その人自身が、自分の人生を歩いて、たどり着いた場所だから。

 

だからこそ、心から一緒に喜びたいのです。

 

あなたの時間も、私の時間も、命の時間。

 

だから私は、一緒に過ごすセッションという時間を大切にしたい。

 

あなたの人生を代わりに生きる人ではなく、

 

あなたが自分の人生を歩いていくために、一緒に道を見つけ、必要なところを一緒に歩く人でありたい。

 

そしていつか、あなたが自分の足で新しい人生へ歩き出すときには、

 

心からその門出を祝って、

 

「いってらっしゃい」

 

と送り出したい。

 

そんな瞬間に、私はこれからたくさん立ち会いたいと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



私は、「魔法使いを増やしたい」と思っています。

 

ここでいう魔法使いとは、特別な能力を持った人のことではありません。

 

自分を知り、自分の可能性を感じ、自分の人生に自分自身が参加していく人。

 

自分を癒したり、自分の望みを知ったり、自分の手で人生を少しずつ動かしたり。

 

「私にもできるんだ」

 

そんなふうに、自分自身の力や可能性に出会っていく人です。

 

だって、自分の人生を生きられるのは、自分自身だから。

 

自分の人生の主役は、最初から自分自身です。

 

誰かに認めてもらったから主役になるわけでも、何かができるようになったから主役になるわけでもありません。

 

もともと、自分の人生を生きているのは自分です。

 

だから私は、そのことを思い出してほしいのだと思います。

 

そして、

 

「私って、こんなこともできるんだ」

「私には、こんな感覚があったんだ」

「私、本当はこんなことを望んでいたんだ」

「私の人生って、こんなふうにも動かしていけるんだ」

 

そんなふうに、自分自身の可能性を知っていってほしい。

 

大きな夢を叶えることだけが、可能性ではありません。

 

今日は自分を少し楽にできた。

 

自分の気持ちに気づけた。

 

やりたかったことを1ミリやってみた。

 

自分で自分を癒してみた。

 

「これは嫌だったんだ」と気づけた。

 

「私はこっちが好き」と自分で選べた。

 

それも全部、自分の人生に自分自身が参加した瞬間なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

人を癒しません


 

先日、私は「人を癒しません」という投稿をしました。

 

これは、もうヒーリングをしないという意味ではありません。

 

これからも個人セッションやヒーラー養成講座、セクシャルウェルネスの講座など、その方と直接関わる時間の中で、必要に応じて、その方の状態に合ったヒーリングをお届けしていきたいと思っています。

 

もしかしたら、気分が乗った日にヒーリングライブをすることもあるかもしれません。

 

私が手放したいと思ったのは、

 

「私が癒す人」

「相手は癒してもらう人」

 

という関係が、ずっと続いていくことでした。

 

つらいときや困ったとき、人に頼ることはとても大切なことだと思っています。

 

一人で何もかもできる必要なんてありません。

 

私自身も、必要なときには誰かの力を借りながら生きていきたい。

 

でも、その人自身も自分を癒したり、自分を整えたり、自分がどうしたいのかを知ったり、自分の人生を少しずつ動かしていけるようになったら。

 

もっと人生の可能性は広がっていくのではないかと思うのです。

 

自分を癒すことができる。

 

家族や大切な人、友達、ペットにも、自分のできる範囲で手を差し伸べることができる。

 

そして安心できる場所を自分の中にも育てながら、新しいことにチャレンジしていく。

 

私は、一人のヒーラーがたくさんの人をずっと癒し続ける世界よりも、

 

たくさんの人が、それぞれ自分の中に小さな魔法を持っている世界を見てみたいのです。

 

 

 

 

 

 

一人で歩けるようになるまで、一緒に歩く



私自身も、自分の人生で叶えたい夢があります。

 

自分の人生を、自分自身で創造しながら生きていきたいと思っています。

 

私だって、自分の人生を歩いている一人です。

 

だからこそ、同じように、

 

「こんな人生を生きたい」

「こんな夢を叶えたい」

「ここへ行ってみたい」

 

というものを持っている人がいたら、その人の力になりたいと思います。

 

その人が一人で歩けるようになるまで、一緒に歩く。

 

うまくいった日には、

 

「やったね!」

 

と一緒に喜びたい。

 

思ったようにならなかった日には、

 

「残念だったね」

 

と、その残念さも一緒に感じたい。

 

嬉しいも、悔しいも、楽しいも、悲しいも。

 

夢までの道の途中に生まれるいろいろな気持ちを共有しながら、一緒に歩いていきたい。

 

そしていつか、その人が自分自身の足で歩き、自分の夢にたどり着いたとき、

 

「やったね!」

 

と一緒に喜びたいのです。

 

 

 

 

 

 

あなたの喜びは、私にとっても喜びだから


 

私は、自分自身の夢が叶ったら嬉しいです。

 

願っていたことが実現したら、もちろん幸せです。

 

でも、私に関わってくださった人の夢が叶ったときも、私は本当に嬉しい。

 

それは、

 

「あなたが幸せになったから、私はそのお裾分けをもらって嬉しい」

 

という感覚とも、少し違う気がしています。

 

私の幸せと、あなたの幸せを、きれいに二つに分けられないのです。

 

もちろん、人生はそれぞれのものです。

 

あなたの人生はあなたのもの。

私の人生は私のもの。

 

そこは混ざりません。

 

でも、関わった人が、

 

「できました」

「叶いました」

「こんなことが起きました」

「幸せです」

 

と教えてくれたら、

 

私は自分のことのように嬉しい。

 

だから「生きがい」というよりも、やっぱり私にとっては、

 

喜び

 

なのだと思います。

 

自分の夢を叶えることも嬉しい。

 

自分の人生を創造していくことも嬉しい。

 

そして、ご縁があって一緒に歩いた人が、自分自身の人生を歩き、自分の可能性を知り、自分の夢を叶えていくことも嬉しい。

 

どちらも、私の人生にある「喜び」です。

 

 

 

 

 

 

魔法使いを増やしたい

 

だから私は、魔法使いを増やしたい。

 

私が魔法をかけ続けるのではなく、

 

「あなたにも魔法は使えるよ」

 

と伝えていきたい。

 

そして、その人自身が、

 

「本当だ。私にもできた」

 

と自分の力に出会っていく。

 

いつか私の手を離れて、一人で歩いていく。

 

その背中を見送りながら、

 

「いってらっしゃい」

 

と言える人でありたい。

 

そしていつか、

 

「夢が叶ったよ」

 

そんな報告を聞けたなら、

 

一緒に思いきり喜びたい。

 

私も私の人生を生きる。

 

あなたもあなたの人生を生きる。

 

それぞれが自分の人生の主役として、自分の世界を創っていく。

 

そして、ときどき道が重なったときには、一緒に歩き、一緒に笑い、一緒に喜ぶ。

 

そんな魔法使いたちが増えていったら。

 

世界は今より少し、楽しくて、豊かで、自由になるんじゃないかな。

 

私は、そんな世界を見てみたいのです。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



前回、

 

「夢に向かう時計は、自動ではなく手動なのかもしれない」

 

ということを書きました。

 

普通の時計は、私たちが何もしなくても進んでいきます。

 

でも、夢に向かう時計は少し違う。

 

自分が夢の方向へ1ミリ動いてみる。

 

すると、夢の時計も1ミリ進む。

 

今日は動きたくないと思ったら、動かさなくてもいい。

 

1ミリのつもりで始めたのに楽しくなってきたら、そのまま10ミリ、15ミリ進んでもいい。

 

そんなふうに、自分の手で動かしていく時計です。

 

でも、この夢の時計について考えていたら、もう一つ面白い特徴があることに気がつきました。

 

それは、

 

「この時計は、一定の速度で進むわけではない」

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

夢までの距離は、計算式では測れない


 

普通の時計なら、

 

1秒の次は1秒。

 

その次も1秒。

 

同じ速さで時間を刻んでいきます。

 

でも、夢に向かう時計は、そんなに規則正しくありません。

 

今日1ミリ。

 

明日も1ミリ。

 

また別の日に1ミリ。

 

そんなふうに少しずつ動かしていたのに、

 

ある日突然、

 

「えっ?」

 

と思うようなことが起こることがあります。

 

思いがけない人とのご縁ができる。

 

誰かから声をかけてもらう。

 

たまたま必要な情報に出会う。

 

嬉しい出来事が起こる。

 

思いもしなかったところから機会がやってくる。

 

そして、それまでずっと遠くにあったように感じていた夢が、

 

突然、

 

「もしかしたら、これ本当に実現するかもしれない」

 

というところまで近づくことがあります。

 

私はこの瞬間を、

 

「夢の射程圏に突然入る瞬間」

 

と表現すると、とてもしっくりきます。

 

 

 

 

 

 

1ミリ、1ミリ、1ミリ……そして突然、大きく跳ぶ


夢までの道のりは、

 

1+1=2

2+2=4

 

というような、きれいな計算式ではないのだと思います。

 

1ミリ進んだから、明日も必ず1ミリ。

 

100日続けたから、必ず100ミリ。

 

そんな単純なものではありません。

 

1ミリ。

 

1ミリ。

 

また1ミリ。

 

しばらく何も変わっていないように感じる。

 

ところがある日突然、

 

ポンッ。

 

と針が大きく跳ぶ。

 

10ミリどころではなく、一気に夢のすぐ近くまで進んでしまうことだってあるかもしれません。

 

なんだか、

 

「いつ開くのかわからない、タイマー付きのびっくり箱」

 

みたいです。

 

ただし、そのタイマーがいつ鳴るのかはわかりません。

 

明日かもしれない。

 

一年後かもしれない。

 

そもそも、思い描いていた形では鳴らないかもしれない。

 

ここは誰にもわかりません。

 

だから、

 

「1ミリずつ進めば、○日後には必ず夢が叶います」

 

とは言えません。

 

夢は、そんなに計算通りには進まないものなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

ある日突然、「あと一手」のところまで来る


 

このことを考えていたとき、私は将棋の「王手」を連想しました。

 

もちろん、夢は勝ち負けではありません。

 

誰かと競争しているわけでもありません。

 

ただ感覚として、

 

ずっと遠くにあると思っていたものが、ある出来事によって突然、

 

「あと一手」

 

というところまで来ることがある。

 

昨日までは「いつか叶ったらいいな」だったものが、

 

突然、現実味を帯びてくる。

 

夢が、自分の手の届くところに入ってくる。

 

それが私にとって、

 

「夢の射程圏に入る」

 

という感覚です。

 

そして、そのきっかけは自分には予測できないことがあります。

 

だから面白いのです。

 

 

 

 

 

 

手動だけれど、全部を自力で動かす時計ではない


 

ここで、もう一つ大切なことに気づきました。

 

夢の時計は「手動」だけれど、

 

「すべてを自分一人の力で動かさなければならない時計」

 

ではないということです。

 

自分にできることは、

 

今日、動かしたいと思ったら1ミリ動かしてみること。

 

発信してみる。

 

調べてみる。

 

練習してみる。

 

作ってみる。

 

誰かに伝えてみる。

 

小さくてもいいから、現実の世界の中で何かを動かしてみる。

 

そこまでは自分の手でできます。

 

でも、その先で誰と出会うのか。

 

誰が自分の発信を見るのか。

 

どんな出来事につながるのか。

 

どこから思いがけない機会がやってくるのか。

 

そこまですべてを自分で設計することはできません。

 

だから、

 

自分で動かした1ミリと、

自分には予測できなかった何かが出会ったとき、

 

夢の時計の針が突然大きく跳ぶことがある。

 

そう考えると、

 

「夢を叶えるためには、全部自分でなんとかしなければ」

 

と思わなくてもいいのかもしれません。

 

自分の担当は、

 

今日の自分にできる1ミリ。

 

その1ミリを、自分がやってみたいと思える範囲で動かしてみる。

 

その先に何が起こるのかは、まだわかりません。

 

だからこそ、ちょっと楽しみでもあります。

 

 

 

 

 

 

もし、そこで夢が叶わなかったとしても


 

そして、ここも私は大切にしておきたいと思っています。

 

夢の射程圏まで来た。

 

「あと一手かもしれない」と思うところまで来た。

 

でも、結果として、その夢は思い描いていた形では叶わなかった。

 

そんなこともあると思います。

 

でも、それまで動かしてきた時計が、そこでゼロに戻るわけではありません。

 

その夢に向かって発信したこと。

 

学んだこと。

 

練習したこと。

 

出会った人。

 

挑戦したこと。

 

うまくいかなかった経験。

 

そして、

 

「私はこれが好きなんだ」

 

「これは思っていたものとは違ったな」

 

「本当はこっちに行きたいのかもしれない」

 

と自分について知ったこと。

 

それらは全部、自分の中に残っています。

 

もしかすると、

 

「この形ではなかった」

 

ということを知るために、そこまで歩く必要があったのかもしれません。

 

そして、その先に、

 

最初に思い描いていたものとは違うけれど、

 

「私が本当に見たかった景色は、こっちだったのかもしれない」

 

と思えるものに出会うことだってあるかもしれません。

 

だから私は、

 

「夢が叶わなかった=それまでが無駄だった」

 

とは思いたくありません。

 

そこまで時計を動かしてきたからこそ、見えた世界があります。

 

 

 

 

 

 

夢の時計は、ちょっと不思議な時計

 

 

普通の時計は、自動で一定に進みます。

 

夢の時計は、手動で不規則に進みます。

 

1ミリだけ進む日もある。

 

10ミリ、15ミリ進む日もある。

 

動かさない日があってもいい。

 

そして、ときどき、

 

思いもしなかったところから何かがやってきて、

 

針が大きく跳ぶことがある。

 

いつ跳ぶのかは、わかりません。

 

必ず跳ぶとも言えません。

 

だからこそ、

 

「いつ叶うんだろう」

 

と時計をずっと睨んでいるよりも、

 

今日の私は、

 

「今日は1ミリ、何をしてみたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

それくらいでいいのかもしれません。

 

昨日まで遠くに見えていた夢が、

 

明日も同じ距離にあるとは限らない。

 

今日動かした小さな1ミリが、

 

いつか思いがけない何かとつながって、

 

突然、夢を射程圏に連れてくることだってある。

 

そう思うと、

 

夢に向かって動くことは、

 

ただゴールまでの距離を縮める作業ではなく、

 

「この先、何が起こるんだろう」

 

という小さな冒険のようにも感じます。

 

今日の1ミリの先に何があるのか。

 

それは、まだわかりません。

 

わからないからこそ、

 

私はまた、

 

夢の時計を自分の手で、

 

カチッと1ミリ、

 

動かしてみたいと思います。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



前回、マヤ暦について調べたことから、

 

「巡ってくるものと、一度きりの今が同時に存在している」

 

ということについて考えました。

 

季節は巡ります。

 

朝が来て、夜が来て、また朝が来る。

 

カレンダーも毎年、新しいものに変わります。

 

だから私たちは、なんとなく「明日も今日の続きがある」と感じながら暮らしています。

 

時計を見れば時間が過ぎていることはわかります。

 

でも、目の前の景色は昨日とそれほど変わりません。

 

いつもの部屋があって、いつもの道があって、車が走り、鳥が鳴いている。

 

自分自身も、昨日とそれほど変わっていないように感じます。

 

だから不思議なことに、

 

時間は確実に流れているのに、目の前の現実だけを見ていると、まるで時間が止まっているように感じることがあります。

 

そして、もしかするとその感覚が、

 

「まだ大丈夫」

「いつかできる」

「夢は待っていてくれる」

 

という感覚にもつながっているのかもしれません。

 

でも、今日という日は今日しかありません。

 

だからといって私は、

 

「人生には限りがあるんだから、今すぐやらなきゃ!」

 

と自分を追い立てたいわけではありません。

 

むしろ、それとは反対です。

 

 

 

 

 

 

夢に向かって、今日1ミリだけ動いてみる


 

夢を叶えたいと思ったとき、

 

ものすごい情熱が必要だと思ってしまうことがあります。

 

毎日頑張らなければいけない。

 

強い意志を持たなければいけない。

 

人生を変えるほどの大きな行動を起こさなければいけない。

 

でも、本当にそうなのでしょうか。

 

私は最近、

 

「今日、夢に向かって1ミリだけ動いてみる」

 

ということを意識しています。

 

1ミリだったら、それほど難しくありません。

 

発信したいことがあるなら、ほんの少し文章を書いてみる。

 

学びたいことがあるなら、少しだけ本を開いてみる。

 

試してみたいことがあるなら、一つだけ試してみる。

 

調べたいことがあるなら、一つだけ調べてみる。

 

それくらいなら、情熱の炎をものすごく燃やさなくてもできます。

 

場合によっては、淡々とした作業としてできることだってあります。

 

でも、それでも確実に、

 

昨日より1ミリ、夢の方向へ進んでいます。

 

 

 

 

 

 

1ミリのつもりが、10ミリになることがある



そして、これは私自身が実際にやってみて面白かったことなのですが、

 

「1ミリだけ動こう」

 

と思って始めたのに、気づいたら1ミリでは終わっていないことがあります。

 

10ミリ。

 

15ミリ。

 

あるいは、それ以上。

 

最初から10ミリ進もうとしたわけではありません。

 

「今日は1ミリでいい」

 

と思って始めただけなのです。

 

ところが、やってみたら意外と楽しかった。

 

もう少しやってみたくなった。

 

それで自然に続けていたら、結果としてずいぶん先まで進んでいた。

 

そんなことが、私自身の実験の中で実際にありました。

 

ここで大事なのは、

 

「だったら最初から10ミリやればいい」

 

ではないということです。

 

最初から10ミリをノルマにしてしまったら、まったく違うものになってしまいます。

 

1ミリだから、始められた。

 

1ミリだから、気軽だった。

 

そして始めてみたら、もう少しやりたくなった。

 

この順番が大切なのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

夢に向かう時計は「手動」


 

普通の時計は、私が何もしなくても進んでいきます。

 

今日も時間は過ぎていきます。

 

明日もやってきます。

 

でも、

 

「自分の夢に向かって進む時計」

 

は、少し違うように思います。

 

こちらは、自動ではなく手動です。

 

自分が1ミリ動かしたら、1ミリ進む。

 

何か一つ発信したら、その分だけ進む。

 

一つ試してみたら、その分だけ今まで知らなかったことがわかる。

 

誰かに自分の存在を知ってほしいのであれば、何かを発信しなければ、その人には私が存在していることさえ伝わりません。

 

頭の中でどれほど考えていても、現実の世界では何も起きていないことがあります。

 

だから、ほんの少しだけ現実の中で手を動かしてみる。

 

すると、止まっていた夢の時計の針が、

 

カチッ。

 

と1ミリ進みます。

 

それだけでいい。

 

私はそんなふうに考えています。

 

 

 

 

 

 

でも、無理に時計を進めない


 

そしてもう一つ、私がとても大切だと思っていることがあります。

 

それは、

 

「進められるからといって、無理に進めない」

 

ということです。

 

夢を叶えたいからといって、毎日限界まで頑張る必要はありません。

 

むしろ私は、無理をするとその反動が来ることがあると思っています。

 

今日は頑張った。

 

でも頑張りすぎてしまった。

 

すると次に同じことをやろうとしたとき、

 

「ああ、またあれをやるのか……」

 

と嫌になってしまう。

 

それでは、せっかく好きだったものまで嫌になってしまうかもしれません。

 

だから私は、

 

「まだできるかどうか」

 

ではなく、

 

「まだやりたいかどうか」

 

を大切にしたいと思っています。

 

楽しいと思えるところまで。

 

やってみたいと思えるところまで。

 

そして、

 

「あ、ちょっと飽きたな」

 

と思ったら、そこでやめる。

 

中途半端でもいい。

 

切りのいいところまで終わらせなくてもいい。

 

またやりたくなったときに、続きをすればいい。

 

夢への道を、苦しい道にしない。

 

これは私にとって、とても大切なことです。

 

 

 

 

 

 

今日の1ミリは、自分で選べる


 

時間そのものを止めることはできません。

 

今日という日は過ぎていきます。

 

でも、その今日の中で、

 

「私は何をしてみたい?」

 

と自分に尋ねることはできます。

 

何もしないで休みたい日なら、休んでもいい。

 

今日は夢に向かって何かしてみたいと思ったなら、1ミリだけ動いてみてもいい。

 

そして1ミリ動いてみて楽しくなったら、そのまま2ミリ、3ミリと進んでもいい。

 

そこには上限もノルマもありません。

 

反対に、

 

「今日はここまで」

 

と思ったら、そこで止めてもいい。

 

夢に向かう時計は手動だからこそ、自分で動かすことができる。

 

そして、自分で止めることもできる。

 

私はそのくらい自由なものとして、夢と付き合っていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

一度きりの今日だから


 

以前の私は、

 

「夢を叶えるためには、もっと強い情熱が必要なのかな」

 

と思うことがありました。

 

自分のお尻に火をつけなければいけない。

 

心の中に情熱の炎を燃やさなければいけない。

 

でも、火をつけようとしても、燃料がわからない。

 

そんなこともありました。

 

今は少し違います。

 

ものすごい炎を燃やさなくても、

 

「今日はこれをちょっとやってみようかな」

 

という小さな気持ちがあればいい。

 

1ミリ動いたら、昨日とは違う場所にいます。

 

そして、ときにはその1ミリが、思いがけず10ミリ、15ミリになっていく。

 

マヤ暦のことを知ったことから、

 

私は改めて「今日」という時間について考えるようになりました。

 

巡ってくるものはある。

 

でも、今日という組み合わせの時間は一度しかありません。

 

だから私は、

 

「時間がないから急がなきゃ」

 

ではなく、

 

「一度きりの今日、私は何をしてみたい?」

 

と自分に聞いてみたい。

 

夢は、私を追い立てるものではなく、

 

今日の私が1ミリずつ近づいていけるもの。

 

そしてその1ミリの積み重ねの先で、

 

いつの間にか、今まで見たことのなかった景色を見ているのかもしれません。

 

今日も夢に向かう時計を、

 

ほんの1ミリだけ、

 

自分の手で動かしてみようと思います。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション


ふと、昔のことを思い出しました。

 

「マヤ暦は2012年で終わっている」

 

そんな話が、ずいぶん話題になっていた時期がありました。

 

そしてそこから、

 

「2012年に地球が滅亡するのではないか」

 

という話まで広がっていたことを覚えています。

 

私は当時から、地球が滅亡するという話をそれほど信じてはいませんでした。

 

むしろ、

 

「誰も怖がらせるために、わざわざその日で暦を終わらせたわけではないだろう。何か意味があるんじゃないかな」

 

と、なんとなく思っていました。

 

でも先日、改めてマヤ暦について調べてみたら、私が知らなかった、とても面白い世界がありました。

 

 

 

 

 

 

2012年は「世界の終わり」ではなかった


 

2012年12月21日は、マヤの「長期暦」における13バクトゥンという、とても大きな節目でした。

 

その長さは、約5,125年。

 

けれど、古代マヤの人々が「この日に世界が滅亡する」と記した証拠は確認されていません。

 

世界の終わりではなく、とても大きな時間の区切りだったのです。

 

これを知ったとき、私は少し悔しくなりました。

 

あのとき、このことを知っていたかったな、と。

 

「地球が滅亡するかもしれない日」としてではなく、

 

何千年という壮大な時間を数えてきた暦の、大きな節目を迎える日として2012年12月21日を過ごしていたら。

 

ずっと昔を生きた人たちから、数え切れないほどの命がつながり、その先に自分がいることを感じながら、その日を迎えていたら。

 

いつもの年末年始とはまた違った、宝物のような時間になっていたのかもしれません。

 

そう思うと、ちょっともったいなかったなと思います。

 

 

 

 

 

 

1999年にも「世界の終わり」があった


 

そういえば、そのずっと前にも似たことがありました。

 

1999年。

 

ノストラダムスの予言です。

 

「1999年7の月、空から恐怖の大王が……」

 

そんな言葉が有名になり、「1999年に人類が滅亡する」といった話が盛んに語られていました。

 

でも、これも改めて調べてみると、ノストラダムス自身が「1999年に地球が滅亡する」と明確に書いたものではありませんでした。

 

有名な「恐怖の大王」という言葉についてさえ、原文の版や古いフランス語の解釈をめぐって異なる読み方があります。

 

つまり、元の文章があり、そこに後の時代の人たちによる解釈が加わり、さらにセンセーショナルな物語になって広がっていった部分があるのです。

 

もちろん、どんな意図でそれを伝えたのかは、一人ひとり違うでしょう。

 

だから「人を怖がらせるためだった」と決めつけることもできません。

 

ただ、少なくとも私は、

 

「怖い話として広まっているもの」と

「もともとの資料に書かれていること」は、

同じとは限らないんだな、

 

と改めて思いました。

 

 

 

 

 

 

 

マヤの暦は、時計の歯車みたいだった

 

そして今回、私が一番惹かれたのは「2012年問題」そのものより、マヤの時間の捉え方でした。

 

マヤには一つだけではなく、いくつもの暦があります。

 

260日の周期を持つツォルキン。

 

365日の周期を持つハアブ。

 

その二つが組み合わさって巡る、約52年のカレンダー・ラウンド。

 

そして、さらに長い時間を数えていく長期暦。

 

それを知ったとき、私の頭の中には「時計の中の歯車」が浮かびました。

 

小さな歯車がくるくる回っている。

 

その横では、もう少し大きな歯車が回っている。

 

さらにその外側には、とても大きな歯車があって、ゆっくり、ゆっくり動いている。

 

それぞれの周期が重なりながら、時間が進んでいく。

 

なんだか、とても壮大です。

 

 

 

 

 

 

巡ってくるものと、一度きりの今


 

そして、この話をしているときに、とても素敵だなと思った言葉がありました。

 

「巡ってくるものと、一度きりの今が同時に存在している」

 

春は、またやってきます。

 

朝も、またやってきます。

 

誕生日も、一年経てばまた巡ってきます。

 

でも、今年の春と去年の春は同じではありません。

 

今日の朝と昨日の朝も違います。

 

同じ9月9日は、来年もやってくるけれど、2026年9月9日の私は今日しか存在しません。

 

周期は巡ってくる。

 

でも、そのたくさんの周期が重なり合ってできる「今」は、一度きりです。

 

そう考えたら、なんだか「今日」という一日が、とても貴重なものに感じられました。

 

 

 

 

 

 

怖い情報より、その向こう側を見てみたい


 

1999年のノストラダムス。

 

2012年のマヤ暦。

 

当時はどちらも「何か恐ろしいことが起こるのではないか」という話が大きく広がりました。

 

でも時間が経ってから元の情報に近づいてみると、当時見えていた景色とはずいぶん違いました。

 

だから私はこれから、何か不安になるような情報に出会ったとき、

 

「これは本当にそうなのかな?」

 

と、一度立ち止まってみたいと思います。

 

誰かの解釈なのか。

 

元の資料には何と書かれているのか。

 

分かっていることと、分かっていないことは何なのか。

 

一つの方向からだけではなく、いろいろな角度から見てみる。

 

そうしたら、恐怖に隠れていた面白いものを発見することがあるのかもしれません。

 

今回の私にとって、それがマヤの時間でした。

 

2012年12月21日を、もっと味わって過ごしたかった。

 

そんな小さな悔しさはあります。

 

でも、過ぎた時間には戻れなくても、

 

「今」という時間を見る目は、今日から変えることができます。

 

何千年という時間の中を生きながら、

 

季節が巡り、

太陽が昇り、

一日が過ぎていく。

 

巡ってくるものの中に、一度きりの今日がある。

 

そう思うと、

 

何でもない今日という一日も、

壮大な時間の中にぽつんと光っている、

小さな宝物のように感じます。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

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まみの哲学|動かない夢を動かす「GX理論」

 

 

叶えたい夢やゴールがある。

 

同じように「叶えたい」と思っているのに、

なぜか自然と動いていく夢もあれば、

ずっと現状が動かない夢もあります。

 

この違いって、何なんだろう?

 

そんな小さな疑問から、自分自身の夢や人生を振り返りながら、

考え、対話を重ねていく中で、ひとつの数式が生まれました。

 

 

 

(G − B)+ X = GX

 

 

 

私はこれを、

 

動かない夢を動かす「GX理論」

 

と名づけました。


 

これは、誰かから教わった理論ではなく、

私自身が自分の人生と向き合う中から生まれてきた、ひとつの思考モデルです。

 

まだGX理論は、生まれたばかり。

 

 

これから私自身が実践しながら、ひとつずつ確かめ、育てていきたいと思っています。

 

動かなかった夢が、

動きはじめるかもしれない。

 

そんな可能性を秘めた、小さな数式の誕生です。

 

 

 

まみの哲学

(G − B)+ X = GX

動かない夢を動かす「GX理論」







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現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



近づくと見えるもの、離れると見えてくるもの


 

世界においても、人間関係においても、そして自分自身についても。

 

私たちは、どこから見るかによって、見えるものが変わるのだと思います。

 

近づくことで見えるものがある。

近づくことで、見えなくなるものもある。

 

離れることで見えてくるものがある。

そして離れることで、見えなくなるものもある。

 

この4つは、どれか一つが正しいのではなく、同時に存在しているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

近づいたからこそ、見える世界


 

たとえば、あるコミュニティに所属したとします。

 

そこに入って、その場所に関心を向け、人と関わっていく。

 

すると、外から眺めていただけではわからなかったことが、たくさん見えてきます。

 

そこにいる人たちのこと。

人と人との関係性。

その場所で大切にされていること。

言葉にはなっていない空気感。

 

近づいたからこそ、見えるものです。

 

けれど、その世界に近づき、そこへの臨場感が強くなればなるほど、反対に見えにくくなるものもあります。

 

たとえば、自分自身。

 

「私は本当はどう感じているんだろう」

 

「私はこれを大切だと思っているのかな」

 

「私はここにいたいんだろうか」

 

周りの人や、その場所で起きていることが大きく見えるほど、自分自身の感覚が小さくなってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

近くにいると、それが「世界のすべて」に見えることがある


 

そして、とても興味深いのは、

 

近くにいるときには、自分が近くにいることに気づきにくい

 

ということです。

 

その場所の考え方や価値観、人間関係、そこで起きている出来事が、自分にとってとても大きなものになっていく。

 

すると、いつの間にか、

 

「これが世界なんだ」

 

という感覚になってしまうことがあります。

 

本当は、広い世界の中にある一つの場所なのに。

 

たくさんある価値観の中の、一つの価値観なのに。

 

その中にいるときには、それがなかなかわからない。

 

少し離れてみて、初めて、

 

「ああ、私はずいぶん近くから見ていたんだ」

 

「世界そのものだと思っていたけれど、世界の一部分だったんだ」

 

と気づくことがあります。

 

 

 

 

 

 

離れたからこそ、見えてくるもの


 

これは、大きな絵を見ることに似ていると思います。

 

大きな絵にぐっと近づいてみる。

 

すると、絵の具の重なりや筆の跡、細かな線までよく見えます。

 

それは、近づかなければ見ることのできない世界です。

 

でも、その距離からは、

 

「この絵には何が描かれているのか」

 

という全体像が、かえって見えにくくなります。

 

そこで数歩、後ろに下がってみる。

 

すると、それまで見えなかった全体の構図や色のバランスが、ふっと見えてきます。

 

「ああ、こういう絵だったんだ」

 

と気づく。

 

けれど今度は、近くにいたときに見えていた細かな筆の跡は見えなくなります。

 

つまり、

 

近いほうがよく見えるわけでも、遠いほうがよく見えるわけでもない。

 

見えるものが違うのです。

 

 

 

 

 

 

自分を見るときも同じ


 

これは、自分自身についても同じなのだと思います。

 

自分の感情に近づいていけば、

 

「私は悲しかったんだ」

 

「本当は嫌だったんだ」

 

「私はこうしたかったんだ」

 

という細かな感覚が見えてきます。

 

でも、その感情の真ん中にいるときには、それが自分の世界のすべてのように感じられることもあります。

 

そんなとき、ほんの少し離れたところから、

 

「今の私は、こう感じているんだな」

 

と眺めてみる。

 

すると、それまでとは違うものが見えてくるかもしれません。

 

反対に、離れたところから自分を分析することばかりしていたら、今度は自分の生々しい気持ちがわからなくなることもあります。

 

だから、どちらか一方にいなければならないわけではないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

私は、見る位置を変えることができる


 

そして今回、私がとても大切だと思ったことがあります。

 

それは、

 

私は、ずっと同じ場所から見続けなくてもいい

 

ということです。

 

近づくこともできる。

 

離れることもできる。

 

中に入ってみることもできる。

 

外から眺めてみることもできる。

 

自分に近づくこともできるし、人や世界に目を向けることもできる。

 

私は、どの位置にも移動することができる。

 

一度近づいたからといって、そこに居続けなければならないわけではありません。

 

離れたからといって、二度と近づけないわけでもありません。

 

近づいて見てみる。

 

少し離れて見てみる。

 

そして、必要ならまた近づいてみる。

 

そうやって位置を変えるたびに、それまで見えなかったものが見えてくる。

 

 

 

 

 

 

「これがすべて」と感じたときこそ


 

もしかすると、

 

「これが世界のすべてだ」

 

と感じているときほど、私たちは何かにとても近づいているのかもしれません。

 

そんなとき、

 

「少し違う位置から見たら、何が見えるだろう?」

 

と、自分の立ち位置を変えてみる。

 

答えを変えるのではなく、見る場所を変えてみる。

 

すると、今まで見えていたものが少し小さくなり、その代わりに、今まで見えていなかったものが姿を現すかもしれません。

 

世界が変わったのではなく、


私の立っている位置が変わったから、見える世界が変わった。

 

そして何より、

 

私は、自分でその位置を動くことができる。

 

近づいてもいい。

離れてもいい。

また戻ってきてもいい。

 

世界を見る距離を、自分で選ぶことができる。

 

それもまた、自分の人生を自分で生きるということの一つなのかもしれません。






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現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



「私は私」を今の私が言葉にするなら――評価という壇上には立たない


 

最近、私はずっと、

 

「私は私」

 

という感覚について考えています。

 

とても単純な言葉なのに、説明しようとすると難しい。

 

「自己肯定感」なのかな。

 

「自己信頼」なのかな。

 

「自信」なのかな。

 

「存在価値」なのかな。

 

どれも近いようで、どこか少し違う。

 

それでも私は、今の自分が感じているこの感覚を、今の時点で言葉にしておきたいと思いました。

 

いつかもっとぴったりの言葉が生まれるかもしれません。

 

そのときは、そのとき。

 

今の私が「私は私」を表現するなら、

 

「私は、評価という壇上には立たない」

 

という言葉が、一番近いように感じています。

 

 

 

 

 

 

私は100点だから素晴らしい、ではない


 

私たちは小さな頃から、たくさんの評価に触れて生きています。

 

何かができたら、

 

「すごいね」

「偉いね」

 

と褒められる。

 

テストを受ければ点数がつく。

 

学校では成績がつく。

 

試験には合格と不合格がある。

 

大会には順位がある。

 

社会に出れば、採用されたり、されなかったりする。

 

仕事でも成果が評価される。

 

恋愛でも、

 

好きな人から選ばれた。

選ばれなかった。

 

そんな結果があります。

 

社会の中で生きていれば、評価そのものをなくすことはできません。

 

そして、評価がすべて悪いとも思いません。

 

できたことを褒めてもらえたら嬉しい。

 

努力を認めてもらえたら嬉しい。

 

試験に合格したら嬉しい。

 

好きな人から好きになってもらえたら嬉しい。

 

ただ、いつの間にか私は、

 

「結果についての評価」と「私という存在そのもの」を結びつけていたことがあった

 

ように思います。

 

できた私は○。

 

できなかった私は×。

 

認められた私は○。

 

認められなかった私は×。

 

選ばれた私は○。

 

選ばれなかった私は×。

 

まるで、人生のあらゆる出来事によって、私自身の点数まで上がったり下がったりするように。

 

でも最近、私は思うようになりました。

 

そもそも、私という存在は採点するものなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

私は、採点される答案用紙ではない


 

テストなら採点できます。

 

100点だった。

 

70点だった。

 

30点だった。

 

試験なら結果があります。

 

合格した。

 

不合格だった。

 

大会なら順位があります。

 

1位だった。

 

予選で敗退した。

 

仕事にも成果があります。

 

うまくいった。

 

今回は思うような結果にならなかった。

 

それらは、それぞれの基準に沿って評価することができます。

 

でも、

 

その結果と、私はイコールではない。

 

テストで30点だったことと、

 

「私は30点の人間だ」

 

は、まったく違う。

 

何かに失敗したことと、

 

「私は失敗した人間だ」

 

も違う。

 

誰かに選ばれなかったことと、

 

「私は魅力のない人間だ」

 

も違う。

 

結果について評価することはできる。

 

でも、その評価をそのまま私という存在に貼り付ける必要はない。

 

なぜなら、

 

私は採点される答案用紙ではないから。

 

 

 

 

 

 

「自分に100点をあげよう」とも少し違う


 

自分を大切にするために、

 

「私は100点」

 

「私は素晴らしい」

 

「私は価値のある人間」

 

と思うことも、ときには自分を支えてくれると思います。

 

でも、今の私が感じている「私は私」は、そこからもう少し違うところにあります。

 

100点を目指すのでもなく、

 

0点だと思っている自分を100点まで引き上げるのでもない。

 

そもそも私は、点数をつける対象ではない。

 

「価値が高い私」になりたいわけでも、

 

「価値が低い私」を否定したいわけでもない。

 

高い、低い。

 

優れている、劣っている。

 

○、×。

 

そういう評価の物差しが置かれている壇上から、

 

私は静かに降りてしまいたい。

 

というより、本当は最初から、

 

私という存在そのものは、その壇上に立つ必要なんてなかったのかもしれない。

 

そう思うんです。

 

 

 

 

 

 

結果に○×をつけても、私には○×をつけない


以前から私は、

 

「結果に○×をつけても、自分には○×をつけない」

 

という言葉を大切にしています。

 

でも最近になって、その理由が少しわかってきた気がします。

 

なぜ、私自身には○×をつけなくていいのか。

 

それは、

 

私という存在そのものが、そもそも○×をつける対象ではないから。

 

なのかもしれません。

 

何かをやってみて、

 

「うまくいった」

 

なら、それでいい。

 

「今回はうまくいかなかった」

 

なら、それもひとつの結果です。

 

そこから、

 

「じゃあ次はどうしよう?」

 

と考えればいい。

 

でも、

 

「うまくいかなかった。だから私はダメ」

 

まで行かなくていい。

 

結果を振り返ることと、自分を採点することは別のことなんですよね。

 

 

 

 

 

 

選ばれなくても、私は小さくならない


 

これは恋愛でも同じだと思います。

 

好きな人に選ばれた。

 

両思いになった。

 

嬉しい。

 

好きな人に選ばれなかった。

 

思いは通じなかった。

 

悲しい。

 

それは大きな出来事だと思います。

 

実際にその立場になったら、簡単には割り切れないこともあるでしょう。

 

でも、

 

悲しいことと、私の価値が下がることは別。

 

相手が私を選ばなかったからといって、私という存在が昨日より小さくなるわけではありません。

 

ただ、その人の好みや気持ちとは一致しなかった。

 

その二人の間では、恋愛として成立しなかった。

 

それを、

 

「選ばれなかった私は×」

 

にしなくていい。

 

相手が私をどう思うかは、相手の自由。

 

そして、

 

その人の評価の下に、自分自身を置かなくてもいい。

 

私は私。

 

選ばれても、私は私。

 

選ばれなくても、私は私です。

 

 

 

 

 

 

外側の物差しで、自分そのものを測らない


 

生きていると、外側からたくさんの物差しがやってきます。

 

学歴。

 

収入。

 

仕事。

 

肩書き。

 

容姿。

 

年齢。

 

恋愛。

 

結婚。

 

フォロワー数。

 

売上。

 

資格。

 

実績。

 

人気。

 

それぞれが必要な場面では、数字や条件として意味を持つこともあります。

 

でも、

 

それらは私という存在そのものを測る物差しではない。

 

肩書きが増えても、私が大きくなるわけではない。

 

肩書きがなくなっても、私が小さくなるわけではない。

 

誰かに褒められても、

 

誰かに批判されても、

 

それによって私という存在そのものの点数が上下するわけではない。

 

外側の世界には、評価があります。

 

でも、

 

私は、その評価そのものではない。

 

 

 

 

 

 

だから「私は私」


 

これをもっと上手に表現できる言葉が、いつか見つかるかもしれません。

 

今はまだ、

 

「私は私」

 

としか言えないところがあります。

 

でも、その「私は私」の中には、

 

私を高く評価しよう。

 

もっと自信を持とう。

 

自分は素晴らしいと思おう。

 

ということとは少し違う、静かな感覚があります。

 

私は誰かより上だから大丈夫なのではない。

 

何かができるから大丈夫なのでもない。

 

誰かに認めてもらったから大丈夫なのでもない。

 

ただ、私は私。

 

評価される前から私で、

 

評価されたあとも私。

 

うまくいく前から私で、

 

うまくいかなかったあとも私。

 

何かを得ても私。

 

失っても私。

 

そこにあるのは、強く自分を肯定するような自信というより、

 

もっと静かなものです。

 

私は今のところ、それを

 

「静かな自信」

 

と表現しています。

 

 

 

 

 

 

評価という壇上には立たない


 

私はこれからも、評価されることはあると思います。

 

仕事をすれば、お客様から評価されることもある。

 

何かに挑戦すれば、結果も出る。

 

ブログを書けば、読まれる記事もあれば、あまり読まれない記事もあるでしょう。

 

うまくいくこともあれば、失敗することもある。

 

そのたびに、嬉しくなったり、がっかりしたりもすると思います。

 

それでいい。

 

ただ、ひとつ忘れたくないことがあります。

 

評価される結果と、私という存在は別のもの。

 

結果について考える。

 

必要なら改善する。

 

失敗したら、また試す。

 

成功したら、喜ぶ。

 

でも、そのたびに私自身まで採点台に乗せなくていい。

 

私は、

 

100点だから○になる存在でも、

 

0点だから×になる存在でもない。

 

そもそも、

 

私は評価という壇上には立たない。

 

それが今の私にとって、

 

「私は私」

 

という言葉に一番近い表現です。

 

いつか、もっとぴったりの言葉が生まれるかもしれない。

 

でも今は、この言葉を大切にしていたい。

 

私は私。

 

結果には○も×もある。

 

評価されるものもある。

 

でも、私そのものには○も×もつけない。

 

私は採点される答案用紙ではない。

 

誰かの物差しで自分の存在を測らなくていい。

 

評価という壇上から降りて、

 

私はただ、

 

私として、自分の人生を生きていく。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション




「選ばれる私」より、「私は私」で生きていく


 

前回、

 

「たくさんの選択肢から選べることだけが、自由なのだろうか」

 

ということについて書きました。

 

誰かから与えられた100個の選択肢の中に欲しいものがなければ、全部選ばなくてもいい。

 

101個目を自分で探しに行ってもいい。

 

まだこの世にないのなら、自分で作ってもいい。

 

そんなふうに、

 

私は、自分の人生を選ぶ人でありたい。

 

そう考えていたとき、ふと今度は反対側のことを思いました。

 

私たちは「選ぶ側」になるだけではありません。

 

ときには、自分自身が「選ばれる側」になることもあります。

 

そして、そこで私はまたひとつ、大切なことに気づきました。

 

 

 

 

 

 

「選ばれたい」と思うことは悪くない


 

たとえば恋愛では、

 

「好きな人に選ばれたい」

 

という言葉を耳にすることがあります。

 

好きな人から好きになってもらいたい。

 

魅力的だと思ってもらいたい。

 

両思いになりたい。

 

付き合いたい。

 

そのために自分を磨いたり、相手に魅力を感じてもらえるようなことをしたりする。

 

私は、それ自体が悪いことだとは思いません。

 

好きな人から好きになってもらえたら、やっぱり嬉しい。

 

恋が実るか実らないかは、当事者にとって、とても大きなことだと思います。

 

でも、「選ばれたい」という気持ちが大きくなっていったとき。

 

いつの間にか、主語が変わってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「私はどう思う?」から「相手は私をどう思う?」へ

 

 

最初は、

 

「私はこの人が好き」

 

だった。

 

ところが、いつの間にか、

 

「相手は私を好きだろうか」

 

になっていく。

 

そして、

 

どうしたら好きになってもらえるだろう。

 

どうしたら選んでもらえるだろう。

 

どんな私なら魅力的に見えるだろう。

 

こんなことを言ったら嫌われるかな。

 

こうしたらもっと好かれるかな。

 

そんなふうに、少しずつ相手の目を通して自分を見るようになっていく。

 

そして気がついたら、

 

「私はどうしたい?」より、「相手は私をどう思っている?」のほうが大きくなっている。

 

私が以前感じていた「選ばれる側になると、自分が下になったように感じる」という感覚は、もしかするとここだったのかもしれません。

 

選ばれる側だから価値が低いわけではない。

 

相手が自分より上なわけでもない。

 

そうではなくて、

 

相手の評価の下に、自分で自分を置いてしまう。

 

私は、そこに不自由さを感じていたのだと思います。

 

 

 

 

 

 

私も、相手を選んでいる


 

好きな人に、

 

「私を選んでほしい」

 

と思う。

 

でも、そのもっと手前には、

 

「私は、この人を選びたいの?」

 

という問いがあります。

 

私はこの人が好き?

 

私はこの人と一緒にいたい?

 

私はこの人といるときの自分が好き?

 

私はこの関係を大切にしたい?

 

相手が私をどう評価するかだけではなく、

 

私にも、相手を見る目がある。

 

私にも選択する権利がある。

 

恋愛だけではありません。

 

「この会社に採用してもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はこの会社で働きたいのだろうか」。

 

「この人に認めてもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はこの人から学びたいのだろうか」。

 

「このコミュニティに受け入れてもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はここにいたいのだろうか」。

 

相手にも選ぶ自由がある。

 

そして、

 

私にも選ぶ自由がある。

 

どちらかが上で、どちらかが下なのではなく、

 

お互いに自分の人生を選んでいる人なんですよね。

 

 

 

 

 

 

選ばれなかったら、私の価値は下がるのだろうか


 

好きな人に選ばれなかった。

 

告白したけれど、思いが通じなかった。

 

付き合いたかったけれど、付き合えなかった。

 

それは悲しいことだと思います。

 

私自身、もし当事者になったら、

 

「そんな簡単に割り切れないよ」

 

と思うかもしれません。

 

頭ではわかっていても、心はそんなに簡単ではない。

 

悲しいものは悲しい。

 

傷つくことだってある。

 

でも、

 

「悲しい」と「私の価値が下がった」は、同じではない。

 

と思うんです。

 

相手が私を選んだとしても、

 

私は私。

 

相手が私を選ばなかったとしても、

 

私は私。

 

好かれても、

 

私は私。

 

嫌われても、

 

私は私。

 

付き合えても、

 

私は私。

 

付き合えなくても、

 

私は私。

 

結果は変わっても、

 

私という存在そのものまで、その結果によって○になったり×になったりするわけではない。






 

「見る目がなかったのね」くらいでもいい


 

もし好きな人から選ばれなかったとき、

 

心のどこかで、

 

「そっか。私の魅力はこの人には響かなかったんだな」

 

くらいに思えてもいいのかもしれません。

 

もっと元気になったあとなら、

 

「まあ、私を見る目がなかったのね」

 

くらいに笑ってしまってもいい。

 

これは、

 

「私はこんなに素晴らしいのに、私を選ばないなんておかしい!」

 

と相手を見下すということではありません。

 

相手には相手の好みがある。

 

相手には相手の人生がある。

 

誰を好きになるかも、その人の自由です。

 

ただ、

 

その人の選択を、自分自身の価値を測る物差しにはしない。

 

ということです。

 

「この人には響かなかったんだな」

 

それだけ。

 

そして私もまた、自分の人生を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

結果に○×をつけても、私には○×をつけない


 

私は最近、

 

「結果に○×をつけても、自分には○×をつけない」

 

ということをよく考えています。

 

試験に受かった。

 

落ちた。

 

仕事に採用された。

 

されなかった。

 

誰かに選ばれた。

 

選ばれなかった。

 

恋が実った。

 

実らなかった。

 

現実の出来事には結果があります。

 

その結果について、

 

「今回はうまくいった」

 

「今回はうまくいかなかった」

 

と判断することもできます。

 

でも、その結果をそのまま自分自身へ貼り付けて、

 

うまくいった私=○。

 

うまくいかなかった私=×。

 

選ばれた私=価値がある。

 

選ばれなかった私=価値がない。

 

とする必要はない。

 

出来事の結果と、私という存在は別のもの。

 

私は、その感覚を大切にしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

「私は私」という静かな場所


 

これをどう言葉にしたらいいのか、私はずっと考えています。

 

自己肯定感。

 

自己信頼。

 

自信。

 

存在価値。

 

どれも近いようで、少し違う。

 

今のところ、私にはとても単純な、

 

「私は私」

 

という言葉が一番近いように感じています。

 

誰かより優れているから、自信があるわけではない。

 

何かができるから、自分を認められるわけでもない。

 

誰かに選ばれたから、自分には価値があるわけでもない。

 

反対に、

 

できなかったからといって、私そのものがダメになるわけでもない。

 

誰かに嫌われたからといって、私そのものが小さくなるわけでもない。

 

私は私。

 

そのままここにいる。

 

それは、

 

「私はすごい!」

 

と大きな声で言うような自信とは少し違います。

 

もっと静かなもの。

 

誰かと比べなくてもいい。

 

証明しなくてもいい。

 

評価されなくても、なくならない。

 

私はこれを、

 

「静かな自信」

 

と呼んでもいいのかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

選ばれることを喜びながら、自分を明け渡さない


 

もちろん、誰かから選ばれたら嬉しい。

 

好きな人から好きだと言われたら嬉しい。

 

仕事で評価されたら嬉しい。

 

自分の作品やサービスを選んでもらえたら嬉しい。

 

その喜びまで手放す必要はありません。

 

ただ、

 

選ばれることを、自分の存在価値の証明にはしない。

 

そして、

 

選ばれようとするあまり、

 

自分の気持ちを曲げたり、

 

相手に合わせ続けたり、

 

自分が本当はどうしたいのかを見失ったりしない。

 

選ばれる喜びを味わいながらも、

 

人生の主語は、

 

「私は」

 

のままにしておく。

 

私はどう感じる?

 

私は何が好き?

 

私は誰といたい?

 

私はどんな関係を望んでいる?

 

私はどんな人生を生きたい?

 

そこへ何度でも戻ってくる。

 

 

 

 

 

 

私は、私の人生を選ぶ人


 

誰かが私をどう思うかは、その人の自由です。

 

私には、それを完全に決めることはできません。

 

でも、

 

私が私をどう扱うかは、私が選べる。

 

そして、

 

私は自分の人生をどう生きるかを選ぶことができる。

 

選ばれる私になるために生きるのではなく、

 

私が私の人生を選びながら生きていく。

 

誰かに選ばれたら、一緒に喜べばいい。

 

選ばれなかったら、悲しいときは悲しめばいい。

 

でも、どちらになっても、

 

最後には自分のところへ帰ってくる。

 

私は私。

 

あなたが私を選んでも、

 

選ばなくても。

 

私という存在そのものまで、

 

あなたの選択によって大きくなったり、小さくなったりするわけではない。

 

そして私はまた、

 

「私はどうしたい?」

 

と自分に聞きながら、

 

次の一歩を自分で選んでいく。

 

誰かの評価の下に自分を置くのではなく、

 

誰かの上に立とうとするのでもなく、

 

ただ静かに、

 

私は私として、自分の人生の舵を握っていたい。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション




「選べること」と「自由であること」は、本当に同じなのだろうか


 

前回、情報にあふれた今の時代だからこそ、

 

「流れてきた100個の情報から1個を選ぶのではなく、自分から欲しい1個を探しに行く」

 

そんなことが大切なのではないか、ということを書きました。

 

そこからさらに考えていて、ふと気づいたことがあります。

 

それは、

 

「たくさんの中から自由に選べること」と「本当に自由であること」は、もしかしたら同じではないのかもしれない。

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

5つから自由に選べる。それは本当に自由?


 

たとえば、

 

「この5つの中から、好きなものを選んでください」

 

と言われたとします。

 

Aを選んでもいい。

BでもCでもDでもEでもいい。

 

「どれを選んでもあなたの自由ですよ」

 

と言われれば、一見とても自由に感じます。

 

確かに、その5つの中では自由です。

 

でも、そこには最初から「5つ」という枠があります。

 

本当は、

 

「どれもいらない」

 

でもいいかもしれない。

 

5つ以外のものを探しに行ってもいい。

 

自分で6個目を作ってもいい。

 

あるいは、そもそも「私は今、何も選びたくない」でもいい。

 

そう考えると、

 

与えられた選択肢から自由に選ぶことと、自分の人生を自由に選ぶことは、少し違うのではないか

 

と思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

「選ばない」が許されなかった経験


 

そう考えていて、以前のある経験を思い出しました。

 

あるメルマガを購読したときだったと思います。

 

登録の途中で、いくつもの項目の中から興味のあるものを選ぶ場面がありました。

 

ところが、

 

「最低5つ選んでください」

 

というような条件があったんです。

 

私はそのとき、

 

「別に5つもいらないんだけどな」

 

と思いました。

 

でも、登録するためには選ばなければならない。

 

だから結局、本当は読みたいとも、購読したいとも思っていないものにまでチェックを入れました。

 

そして、欲しくもなかったメルマガが届くことになりました。

 

そのとき私は、とても不自由だと感じました。

 

100個から好きなものを選べたとしても、

 

「ひとつも選ばない」という選択が許されていないのなら、それは本当に自由なのだろうか。

 

たくさん選択肢があることと、自由であることは、必ずしも同じではないんですよね。

 

 

 

 

 

 

「どれにする?」と「何がしたい?」は違う


 

私たちは日常生活の中でも、たくさんの選択をしています。

 

この中ならどれがいい?

どちらが好き?

何番にする?

このプランの中ならどれにする?

 

もちろん、こうした選択が悪いわけではありません。

 

社会生活を送るうえでは、限られた候補から選ぶ必要があることもたくさんあります。

 

でも私は、自分自身のこれまでを振り返ってみて、あることに気づきました。

 

「どれにしよう?」と考えることと、「私は何がしたい?」と考えることは、似ているようで全然違う。

 

「どれにしよう?」には、すでに候補があります。

 

あとは比較して選べばいい。

 

でも、

 

「あなたは何がしたいですか?」

 

には候補がありません。

 

自分自身の中を見なければならないんです。

 

 

 

 

 

 

自由になったのに、動けなくなった


 

これは私自身が何度も経験してきたことです。

 

私はずっと、

 

「もっと自由になりたい」

 

と思っていました。

 

そして、いざ自由になったとき。

 

最初は、

 

「自由にしていいんだ!」

 

と、とても嬉しかったんです。

 

ところが、その次の瞬間、

 

「……じゃあ、私は何をしよう?」

 

となりました。

 

何でもしていい。

 

どこへ行ってもいい。

 

好きなことをしていい。

 

誰かが候補を出してくれるわけでもない。

 

すると不思議なくらい、何も思いつかなかったんです。

 

「私は何がしたいんだろう?」

 

と戸惑いました。

 

そして考えているうちに、

 

「それなら、この3つから選んでくださいと言われたほうが楽かもしれない」

 

とさえ思いました。

 

そのとき私は、少し怖くなりました。

 

自由になりたかったはずなのに。

 

自由を手にした途端、何をしたらいいのかわからない。

 

私は、自分から「やりたいもの」を見つけることが、こんなにも難しくなっていたんだ。

 

そう気づいたからです。

 

 

 

 

 

 

与えられたものから選ぶほうが、楽なこともある


 

考えてみれば、限られた選択肢から選ぶことは楽でもあります。

 

3つなら、3つを比較すればいい。

 

5つなら、その中から一番いいものを探せばいい。

 

でも、

 

「この世界にあるもの全部から、好きなものを自由に選んでください」

 

と言われたら、一気に難しくなります。

 

さらに、

 

「まだ存在していないものを自分で作ってもいいですよ」

 

まで含めたら、可能性はほとんど無限です。

 

自由には、

 

自分で考えることが必要なんですよね。

 

私は何が好き?

 

何が嫌い?

 

何をしたい?

 

何が欲しい?

 

どんなふうに生きたい?

 

どこへ行きたい?

 

今の私は何を感じている?

 

誰かが候補を与えてくれている間は、こうしたことを深く考えなくても選択できます。

 

だからこそ私は、外から選択肢を与えられ続けることに慣れてしまうと、自分の中を見る機会が少なくなることもあるのではないか、と自分自身の経験から感じています。

 

 

 

 

 

 

SNSは、次の候補をずっと出してくれる


 

そう考えると、SNSも少し似ています。

 

自分が、

 

「次は何を見よう?」

 

と考える前に、次が出てきます。

 

これ面白くないですか?

 

こんな生き方がありますよ。

 

これ欲しくないですか?

 

こんなサービスがありますよ。

 

これが流行っていますよ。

 

こんな考え方がありますよ。

 

次。

 

次。

 

また次。

 

自分の中から、

 

「私は何が見たいんだろう?」

 

という欲求が立ち上がる前に、次の候補が供給されます。

 

すると、

 

「私は何が欲しい?」ではなく、「流れてきたものの中なら、どれがいい?」

 

という選び方が増えていく。

 

私は、それが続いていくと、自分から湧いてくる「やりたい」「知りたい」「欲しい」という感覚を感じる機会も少なくなってしまうのではないかな、と感じています。

 

 

 

 

 

 

「まあまあいい」を「好き」だと思っていないだろうか


 

そして、もうひとつ気になったことがあります。

 

流れてきたものの中から、

 

「まあ、これはいいかな」

「これはちょっと面白そう」

「この中だったらこれかな」

 

というものを選び続けていると、

 

いつの間にか、

 

「これが私の好きなものなんだ」

「これが私の求めていたものなんだ」

 

と思うこともあるのではないでしょうか。

 

もちろん、偶然出会ったものが本当に好きになることもあります。

 

知らなかった世界を外から教えてもらったことで、

 

「私、これが好きだったんだ!」

 

と初めて気づくこともあります。

 

だから、外から与えられる情報や選択肢が悪いわけではありません。

 

ただ、ときどき私は自分に聞いてみたい。

 

「で、本当のところ、私はどうなんだろう?」

 

と。

 

 

 

 

 

 

自分を見るということ


 

これは、ヒーリングやセラピーでも同じだと思っています。

 

誰かが、

 

「これは素晴らしいですよ」

「これはあなたに必要ですよ」

「こういう変化がありますよ」

 

と言ったから、それをそのまま自分の答えにするのではなく、

 

私は何のためにこれを受けたいのだろう。

 

私は何を求めているのだろう。

 

実際に受けてみて、身体はどう感じている?

 

心はどう感じている?

 

私は心地いい?

 

続けたい?

 

それとも、もうやめたい?

 

自分自身をちゃんと見る。

 

誰かが感じる私ではなく、

 

私が感じている私を、自分で確かめる。

 

それがとても大切だと思っています。

 

 

 

 

 

 

100個全部いらなくてもいい


 

100個の選択肢を与えられて、

 

「好きなものを選んでください」

 

と言われたとき、

 

その中から必ず1個を選ばなくてもいい。

 

100個全部いらない。

 

でもいい。

 

そして、

 

「じゃあ、101個目を自分で探しに行こう」

 

でもいい。

 

もっと言えば、

 

「私が欲しいものは、まだここにはない」

 

と気づいたなら、自分で作ったっていい。

 

それもまた、自分の人生を選ぶということだと思います。

 

 

 

 

 

 

欲しいものは、いっぱいあっていい


 

そして私は、自分の欲求をひとつに絞らなくてもいいと思っています。

 

これも欲しい。

 

あれも欲しい。

 

これもやってみたい。

 

あそこにも行ってみたい。

 

こんなことにも挑戦したい。

 

これも作りたい。

 

もっと知りたい。

 

いっぱいあっていい。

 

誰かから提示されたものを比較して、

 

「この中ではこれが一番マシかな」

 

と選んだときとは違う、

 

自分の中から「やってみたい!」と湧いてくる感覚。

 

そこには、ワクワクや意欲や生命力のようなものが伴うことがあります。

 

「あれをやりたい」

 

と思ったら、そちらへ動いてみる。

 

「これが欲しい」

 

と思ったら、取りに行ってみる。

 

最初から正解でなくてもいい。

 

途中で、

 

「思っていたのと違った」

 

となったっていい。

 

また自分に戻って、選び直せばいい。

 

 

 

 

 

 

自由とは、自分の中から選択肢を生み出せること


 

自由とは、

 

たくさん用意された選択肢から、好きなものを選べることだけではないのだと思います。

 

選ばないこともできる。

 

全部断ることもできる。

 

別のものを探しに行くこともできる。

 

そして、

 

まだ目の前に存在していない選択肢を、自分の中から生み出すこともできる。

 

「私は何がしたい?」

 

「私は何が欲しい?」

 

その答えがすぐに出てこなくてもいい。

 

外からやってくる情報を少し静かにして、

 

まだ言葉にもなっていない自分の欲求が、

 

「あのね」

 

と顔を出してくるのを待ってみる。

 

そして見つかったら、1ミリでもそちらへ動いてみる。

 

人生の舵を取るというのは、

 

誰かが用意した人生の中から一番いいものを選ぶことではなく、

 

自分自身を見ながら、自分で行き先を決めていくこと。

 

なのかもしれません。

 

私自身も、ともするとSNSをずっとスクロールして、流れてくる情報を次々と見てしまいます。

 

だからこれは、誰かに「こうしたほうがいい」と伝えたい話というより、

 

私自身も忘れないようにしたいことです。

 

ときどき情報を閉じて、

 

「さて、私は何がしたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

与えられた100個の中から選ぶ前に。

 

もしかしたら私が本当に欲しいものは、

 

まだ101個目にあるのかもしれないから。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




情報を待つのではなく、自分から取りに行く人生へ



 

今の時代は、ものだけではなく、情報にもあふれています。

 

SNSをひとつ開けば、次から次へと情報が流れてくる。

 

自分が知りたいと思って探したわけでもないのに、

誰かの暮らしや考え方、成功談、悩み、商品、サービス、ニュースなど、たくさんの情報が向こうからやってきます。

 

そんな今だからこそ、私はふと思いました。

 

 

これからは「自分から取りに行く」ということが、ますます大切になるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

生きるものは、自分から動く


 

 

たとえば野生動物は、お腹が空けば、生きるために食べ物を求めて動きます。

 

獲物を探しに行く動物もいれば、自分自身は大きく動かず、仕掛けのような方法を使って餌を得る生き物もいます。

 

 

もちろん人間の人生は、命をつなぐためだけにあるわけではありません。

 

「あれが食べたい」

「あそこへ行ってみたい」

「これを知りたい」

「こんなことをしてみたい」

 

そんな自分の中から生まれた欲求をきっかけに、私たちは自分から動いていくことができます。

 

私は、この**「自分の中から何かが生まれて、それに向かって自分から動く」**ということが、とても自然な生命のあり方のように感じています。

 

ところが今は、自分から探しに行かなくても、情報のほうからどんどんやってきます。

 

 

 

 

 

 

「いらない」と判断することにも注意を使っている


 

流れてきた情報に興味がなければ、見なければいい。

 

確かにそうです。

 

でも最近、私はこんなことを思いました。

 

 

「これはいらない」と判断することにも、ほんの少しずつ自分の注意を使っているのではないだろうか。

 

これは認知科学の考え方とも重なる部分があります。

 

人間は目や耳に入ったものをすべて深く処理しているわけではありません。

 

それでも、たくさんの刺激がある中で、

 

「これは自分に関係がある」

「これは関係がない」

 

と選別したり、不要なものから注意を外したり、また自分がしていたことへ注意を戻したりすることには、認知的な処理が伴います。

 

SNSを眺めながら、

 

これはいらない。

これもいらない。

これは何だろう?

あ、やっぱり興味ない。

次。

次。

 

そうやってスルーしているだけでも、まったく何もしていないわけではないんですよね。

 

ひとつひとつは、とても小さなことかもしれません。

 

でも私は、その**「小さな注意の浪費」も、なんだかもったいない**と思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

100個から1個を選ぶより、自分から1個を探しに行く


 

たとえば100個の情報が流れてきて、その中に自分に必要なものが1個あったとします。

 

その1個を見つけるためには、残りの99個についても、

 

「これは違う」

「これはいらない」

 

と選別しなければなりません。

 

だったら、

 

「今の私は何を知りたいんだろう?」

 

と自分に問いかけて、

 

「これが知りたい」

 

と思ったものを、自分から探しに行く。

 

必要な情報を見つけたら読む。

 

そして、終わったら閉じる。

 

私は、そんな情報との付き合い方をしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

情報が悪いわけではない


 

もちろん、偶然流れてきた情報によって、知らなかった世界に出会うこともあります。

 

思いもしなかったことに興味を持ったり、新しい可能性に気づいたりすることもあります。

 

だから私は、外から入ってくる情報そのものが悪いとは思っていません。

 

ただ、流れてくるものを拾うことばかりになってしまったらどうだろう。

 

拾って、拾って、また拾って。

 

気がついたら両手がいっぱいになっている。

 

そのとき、自分の中から、

 

「本当はあれが欲しい」

「あれを知りたい」

「あそこへ行ってみたい」

 

という小さな声が聞こえてきても、それを取りに行く余白がなくなってしまうかもしれません。

 

それどころか、何度も見せられたものを、

 

「私はこれが欲しいのかもしれない」

「これって私にも必要なのかな」

 

と、自分自身の欲求のように感じることだってあるかもしれません。

 

だからこそ私は、ときどき外から入ってくる情報を静かにすることが必要なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の欲求が動き出せる余白をつくる


 

情報を減らすことは、世界を狭くすることではないのかもしれません。

 

むしろ、外から押し寄せるものを少し静かにすることで、

 

「私は何がしたい?」

「何を知りたい?」

「どこへ行きたい?」

「何が欲しい?」

 

そんな自分自身の声が聞こえてくる。

 

そして、その声を聞いたら、自分から取りに行く。

 

情報を減らすことは、

 

自分の欲求が動き出せる余白を取り戻すこと。

 

そんなふうにも思います。

 

 

 

 

 

 

だから私は、メルマガではなくブログを書いている


 

現在、私は自分のホームページでメルマガを発行していません。

 

その代わりにブログを書いています。

 

メルマガにも、もちろん素敵なところがあります。

 

自分で「読みたい」と思って登録するものですから、そこにも読者の自発的な選択があります。

 

ただ、今の私は、あえてブログという形が好きです。

 

私が書いたものを、ここに置いておく。

 

そして、

 

「今これについて知りたい」

「これを読みたい」

 

と思った人が、自分から取りに来る。

 

必要なものを読んだら、また自分の人生へ戻っていく。

 

そんな関係がいいなと思っています。

 

私は、誰かに私の情報をずっと追いかけてほしいわけではありません。

 

必要なときに、必要なものを、自分から取りに来てもらえたらいい。

 

これからの時代、本来の自分の力を思い出し、自分の願いや希望に沿った人生を生きていくためにも、

 

外からやってくるものを受け取り続けるだけではなく、

 

「私は今、何を求めているんだろう?」

 

と自分に戻り、

 

そこから自分の足で取りに行く。

 

そんな小さな自発性を、私は大切にしていきたいと思っています。

 

情報にあふれた時代だからこそ、

 

何を見るかだけではなく、何を見ないかも自分で選ぶ。

 

そして、空いた両手で、

 

本当に欲しいものを、自分から取りに行く。

 

私はそんなふうに、自分の人生を生きていきたいと思います。






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夢の世界には、自分から会いにいく


 

最近、よく思うことがあります。

 

自分の人生を変えていくのも、夢に向かって進んでいくのも、結局は自分が「そちらへ行こう」と思って動かなければ、現実はなかなか動いていかないんだな、と。

 

夢について考えているときは、

 

「こんなふうになりたいな」

「こんな人生を作っていきたいな」

「よし、そのために行動してみよう」

 

と思います。

 

そのときは、その未来がとても近く感じられるんです。

 

ところが、いつもの日常生活に戻ると、ふっと忘れてしまう。

 

目の前の家事をしたり、仕事をしたり、スマホを見たり、いつもの生活をしているうちに、さっきまで思い描いていた未来が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

本を閉じた瞬間、日常の世界に戻ってしまう

 

これは本を読んでいるときにも、よく起こります。

 

素敵な本を読んで、

 

「なるほど」

「私もこういうふうに生きてみたい」

「これなら私も実践してみよう」

 

と心が動く。

 

本を読んでいる間は、その世界にどっぷり浸っています。

 

著者の言葉を読み、その考え方を感じながら、いつの間にか自分もその世界の中にいる。

 

ところが本をパタンと閉じて、いつもの生活に戻った途端、いつもの日常の方が一気にリアルになる。

 

そして数時間後には、

 

「そういえば、あの本を読んだとき、何かやってみようと思ったような……」

 

なんてことになってしまう。

 

せっかく心が動いたのに、それが日常の行動にまでつながらない。

 

これは意志が弱いというより、今ここにある現実の臨場感が、それだけ強いからなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

感動した思い出だって、少しずつ遠くなる


 

これは夢だけではありません。

 

たとえば、とても素敵なコンサートに行ったとします。

 

美しいピアノの演奏を聴いて、

 

「なんて素敵なんだろう」

 

と胸がいっぱいになった。

 

その瞬間は、音も、空気も、その場所の雰囲気も、自分の中に起きている感動も、とても鮮明です。

 

ところが一週間、一か月と時間が経っていけば、その感覚は少しずつ薄れていきます。

 

「あのときは本当に感動したな」

 

という記憶は残っていても、あの日の感動を100%そのまま感じ続けているわけではありません。

 

でも、ある日ふと目を閉じて、

 

あのときの会場を思い出してみる。

ピアノの音を思い出してみる。

自分がどんな気持ちで演奏を聴いていたのかを思い出してみる。

 

そうすると、完全に同じではなくても、あの日の感動が少し蘇ってきたりします。

 

つまり、自分からその記憶に会いにいくことで、その世界の臨場感をもう一度呼び起こすことができるんですよね。

 

夢も、それと少し似ているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

夢の世界には、自分から会いにいく


 

今の現実は、何もしなくても毎日やってきます。

 

目の前には今日の予定があり、家事があり、仕事があり、スマホがあり、いつもの生活があります。

 

だから「今の現実」の臨場感は、放っておいても強くなります。

 

でも、まだ実現していない未来は違います。

 

未来の家も、

未来の仕事も、

やってみたいことも、

なりたい自分も、

 

まだ目の前にはありません。

 

だから、こちらから会いにいかなければ、どうしても今の現実の中に埋もれてしまいます。

 

だったら私は、自分から夢の方向へ接触しにいく時間を作ることが大切なんじゃないかなと思うようになりました。

 

一日5分でも10分でもいい。

 

「私はどこへ行きたいんだっけ?」

 

「どんな人生を作りたいんだっけ?」

 

「それが叶った世界って、どんな感じなんだろう?」

 

そんなふうに、自分が向かいたい世界をもう一度感じてみる。

 

これは単に願望を頭の中で繰り返すというより、自分が向かう方向を思い出す時間なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

そして、今日の現実を1ミリだけ動かす


 

ただ、夢の世界を感じるだけでは、現実は変わりません。

 

だから夢の世界に会いにいったあと、

 

「じゃあ今日、その方向へ1ミリだけ何をしよう?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

調べる。

申し込む。

一行書く。

一ページ読む。

練習する。

片づける。

誰かに連絡する。

 

本当に小さなことでいい。

 

大切なのは、夢を「いつかの世界」に置いたままにせず、今日という現実の中に、その未来につながるものを一つ持ってくること。

 

夢の世界に会いにいく。

 

そして、現実に戻って1ミリ動く。

 

また夢の世界に会いにいく。

 

そして、また1ミリ動く。

 

この往復を繰り返していったら、少しずつ夢と現実の距離が縮まっていくのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

未来は、待っているだけでは近づいてこない


 

夢を忘れてしまうことがあってもいい。

 

日常に飲み込まれてしまう日があってもいい。

 

大切なのは、また自分から会いにいけばいいということ。

 

素敵な思い出を自分から思い出すことで、あの日の感動にもう一度触れられるように。

 

夢もまた、自分から思い出し、自分から感じ、自分から接触しにいく。

 

そして、その世界から今日の自分へ、小さな一つを持ち帰る。

 

今の現実は、放っておいても目の前にある。

だから未来には、自分から会いにいく。

 

そして今日も、夢の方向へ1ミリだけ動いてみる。

 

そんな小さな積み重ねが、いつか振り返ったとき、

 

「あの頃は夢だったものが、今は私の日常になっている」

 

という場所へ、自分を連れていってくれるのかもしれません。






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夢を叶える1ミリの一歩

 

 

夢を叶えたい。

 

こうなりたい。

こんなことをしてみたい。

こんな人生を生きてみたい。

 

そんな夢を持っていても、現実を見ると、夢とはあまりにもかけ離れているように感じることがあります。

 

「今の私には無理かもしれない」

「お金がないから」

「家族がいるから」

「失敗したら怖い」

「人からどう思われるだろう」

 

そうしているうちに、夢は「いつか」のものになっていく。

 

いつかできたらいいな。

いつかチャンスが来たら。

いつか状況が変わったら。

 

でも、その「いつか」は、待っているだけではなかなかやってきません。

 

だから私は思うのです。

 

今日、自分の人生を夢の方向へ1ミリ動かしてみる。

 

それだけでもいいんじゃないか、と。

 

 

 

 

 

 

夢を小さくするのではなく、今日の一歩を小さくする


 

「夢を叶えるために行動しよう」と言われると、なんだか大きなことをしなければならないように感じます。

 

仕事を辞める。

大金を用意する。

告白する。

申し込む。

新しい場所へ飛び込む。

 

そんな大きな一歩を想像してしまったら、怖くなるのも当然です。

 

でも、最初からそんなに大きく動かなくてもいい。

 

お金が必要なら、まず必要な金額を調べてみる。

 

家族との調整が必要なら、まず「こんなことをやってみたいんだけど」と話してみる。

 

本を書きたいなら、最初の100文字を書いてみる。

 

行ってみたい場所があるなら、交通手段を一つ調べてみる。

 

誰かに気持ちを伝えたいなら、いきなり答えを求めるのではなく、自分から少し話しかけてみることだってできる。

 

夢を小さくする必要はない。

小さくするのは、今日の一歩。

 

1ミリなら、動けるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

考えているだけなのに、行動したつもりになっていた


 

私は以前、恋愛について振り返ったとき、とても驚いたことがありました。

 

その当時の私は、自分ではいろいろ行動していたつもりでした。

 

相手のことを考えたり、

どうしたらいいのか悩んだり、

誘おうと思ったり、

自分の気持ちについて考えたり。

 

たくさんのエネルギーを使っていたので、私はてっきり「自分は動いている」と思っていたのです。

 

でも、あとから振り返ってみると、

 

「あれ? 私、現実では何をしたんだろう?」

 

と思いました。

 

もちろん多少の行動はしていました。

 

でも、頭の中で使っていたエネルギーの大きさに比べると、現実ではそれほど動いていなかった。

 

極端に表現するなら、

 

「自分では告白したくらいのつもりなのに、実際には何も伝えていなかった」

 

そんな感じです。

 

このことに気づいたとき、私はとても衝撃を受けました。

 

考えることにもエネルギーを使います。

 

悩むことにもエネルギーを使います。

 

想像することにもエネルギーを使います。

 

だからこそ、たくさん考えたことで「私はこんなにやった」と感じることがあるのかもしれません。

 

でも、

 

考えることと、現実を動かすことは違う。

 

考えることは、行動するために必要なこともあります。

 

でも、頭の中だけでどれほど遠くまで行っても、現実の自分が同じ場所に立ったままなら、現実はまだ動いていないのです。

 

 

 

 

 

 

「頭の中」ではなく「現実」を1ミリ動かす


 

だから最近、こんな問いを自分に向けるのもいいなと思っています。

 

「私は今、頭の中だけで動いている?

それとも、現実を1ミリ動かした?」

 

たった1ミリでいい。

 

メールを一通送る。

 

一つ調べる。

 

必要なお金を計算する。

 

一ページだけ読む。

 

一行だけ書く。

 

誰かに相談してみる。

 

興味のある場所まで行ってみる。

 

その一つひとつは、とても小さなことかもしれません。

 

でも、そこには大きな違いがあります。

 

それまで、

 

「いつかやってみたい」

 

だったものが、

 

「私はもう、その方向へ動き始めている」

 

に変わるからです。

 

 

 

 

 

 

夢を叶えられないことより、やらなかった後悔


 

もちろん、行動したからといって、すべての夢が思い通りに叶うとは限りません。

 

お金の問題もあります。

 

家族や仕事との兼ね合いもあります。

 

自分だけではどうすることもできないこともあります。

 

人が関係することであれば、相手にも相手の意思があります。

 

だから、どれだけ自分が行動しても叶わないことはあるでしょう。

 

でも、私が怖いと感じるのは、夢が叶わなかったことだけではありません。

 

もっと怖いのは、

 

本当は行きたい場所があった。

本当はやりたいことがあった。

それなのに、一度も自分からその方向へ動かないまま、いつもの日常を繰り返してしまうこと。

 

そしてずっと後になって、

 

「あのとき、やってみればよかった」

 

と思うことです。

 

結果は、自分だけでは決められません。

 

でも、

 

今日1ミリ動くかどうかは、自分で選ぶことができます。






 

動いたからこそ「違った」と気づくこともある


 

そして、一歩踏み出した結果、

 

「やっぱりこれは違った」

 

と分かることだってあります。

 

それも私は、失敗ではないと思っています。

 

やってみたから分かった。

 

動いたから、自分の本当の気持ちに気づいた。

 

「これが夢だと思っていたけれど、本当に欲しかったものは別のものだった」

 

そんな発見があるかもしれません。

 

何も動かなければ、頭の中で想像することしかできません。

 

でも現実を1ミリ動かせば、現実から返事が返ってきます。

 

楽しかった。

 

怖かった。

 

思っていたものと違った。

 

もっとやってみたい。

 

これは好きじゃなかった。

 

こっちのほうが好きだった。

 

そうやって、自分のことも少しずつ分かっていく。

 

だから夢への一歩は、

 

夢に近づくためだけではなく、自分自身を知るための一歩でもある

 

のだと思います。

 

 

 

 

 

 

人生の操縦席に、自分が座る


 

夢を叶えるというのは、何もかも一人でやることではありません。

 

誰かに助けてもらっていい。

 

家族に協力してもらっていい。

 

詳しい人に教えてもらっていい。

 

偶然のチャンスに乗ってもいい。

 

人との出会いによって、思いもしなかった方向へ進むことだってあります。

 

でも、その始まりには、

 

「私は、こっちへ行きたい」

 

という自分の意思があります。

 

自分が一歩動く。

 

その姿を見て誰かが力を貸してくれる。

 

必要な情報と出会う。

 

次の一歩が見えてくる。

 

そうして少しずつ、止まっていた車輪が回り始める。

 

途中で止まったら、また自分に聞けばいい。

 

「私は、どうしたい?」

 

そしてまた1ミリ動けばいい。

 

 

 

 

 

 

今日、夢の方向へ1ミリ


 

夢があまりにも遠くに見えるとき、

 

「どうしたら夢を叶えられるんだろう?」

 

と考えると、答えが分からなくなることがあります。

 

そんなときは、もっと小さな問いでいいのかもしれません。

 

「今日、夢の方向へ1ミリ動くとしたら、私は何ができる?」

 

1ミリでいい。

 

夢を小さくする必要はありません。

 

大きな夢のままでいい。

 

ただ今日の一歩だけ、小さくする。

 

そして一つ動いたら、昨日まで遠い未来にしかなかった夢が、ほんの少しだけ今日の現実の中に入ってくる。

 

夢は、いつかの未来だけにあるものではない。

 

今日、夢の方向へ1ミリ動いた瞬間から、

 

もう私は、その夢を生き始めている。





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