浄化で爆速!願望達成☆体験100日チャレンジ第3弾26日目 起こることの原因は自分説は全てに適応ではない

私はこれまで、ずっとどこかでモヤモヤしていたことがありました。
それは、
「人生に起こる出来事の原因は、すべて自分にある」
という考え方です。
本やSNS、スピリチュアルな世界などでも、似たような言葉を目にすることがあります。
自分の現実は自分がつくっている。
自分の内側が外側の世界に現れる。
起きた出来事には、自分にも原因がある。
私はこうした言葉を、自分の人生に起こるさまざまな出来事に当てはめて考えていました。
だから、人間関係で傷ついたときにも、
「こういう人と出会ったのは、私に何か原因があったからなのかな」
「私の振る舞いが悪かったのかな」
「相手がこういう態度を取ったのも、私の何かがそうさせたのかな」
そんなふうに考えてしまうことがありました。
確かに、どの出来事を振り返ってみても、そこには必ず「私」がいます。
だから、
「すべての出来事に共通しているのは自分なのだから、原因も自分なのではないか」
と思ってしまったのです。
でも今回、ふと気づきました。
人間関係の出来事には、私一人がいるわけではありません。
そこには、必ず相手もいる。
私には私の考えがあります。
私には私の感情があります。
そして、私は自分で選択して行動します。
でも、それは相手も同じです。
相手にも相手の考えがあり、
相手にも相手の感情があり、
相手も自分の意思で何かを選択し、行動しています。
そう考えたとき、
人と人との間で起きたことを、「すべて自分が原因」と考えることには無理がある
ということに気づきました。
もちろん、自分自身を振り返ることはできます。
「あのとき、私は本当は嫌だったのにNOと言えなかったな」
「もう少し早く距離を取ってもよかったな」
「相手に合わせすぎていたかもしれない」
「自分の気持ちをもっと大切にしてもよかったな」
そうやって、自分が選択したことや行動したことを振り返ることはできます。
そこは、自分の領域だからです。
でも、
相手が何を考えたのか。
相手がどんな目的を持っていたのか。
相手がどんな言葉を使ったのか。
相手が私に対してどんな行動を選んだのか。
それは相手の領域です。
私が境界線をうまく引けなかったことと、相手がどんな行動を選んだのかは、別の話なのです。
ここが、私にとってとても大きな気づきでした。
「原因」ではなく、「自分が選べること」に責任を持つ
さらに考えていくと、「すべて自分が原因」という言葉そのものについても、少し違って見えてきました。
自分の人生で起こることだとしても、すべてを自分が引き起こしているわけではありません。
天候も、社会も、偶然も、他人の行動も、自分だけでは決められません。
だから、
「人生で起きることは、すべて自分が原因」
なのではなく、
「自分が選べることについては、自分で選び、その選択を自分のものとして引き受ける」
ということなのだと思います。
私は何を大切にしたいのか。
私は何を選びたいのか。
私はどんな人と関わりたいのか。
私は何をしたくて、何をしたくないのか。
何かが起こったとき、私はこれからどうしたいのか。
これは自分で選ぶことができます。
だから、ここには自分の責任があります。
「責任」という言葉は、少し厳しく聞こえるかもしれません。
でも、この意味での責任は、
「悪いことが起きたのだから自分のせい」
という意味ではありません。
むしろ、
「私が選べるところについては、私が選ぶ」
ということ。
これは自分を責めるための責任ではなく、自分の人生を自分の手に戻すための責任なのだと思います。
自分の人生の操縦席に座るということ
私はこれまで、「自分の人生の操縦席に自分が座る」ということを大切にしてきました。
今回、この意味もさらに深くわかった気がします。
操縦席に座るというのは、
「私の身に起こることは全部、私が引き起こしている」
と思うことではありません。
他人が何を考えるかは、私には決められません。
他人がどんな行動をするかも、私には決められません。
予想もしなかった出来事が起こることだってあります。
それでも、
起きたことを受けて、私はこれからどうするのか。
そこには、自分で握ることのできるハンドルがあります。
誰かに嫌なことをされたとき、
「こんなことをされたのは、私に原因があるからだ」
と考えなくてもいい。
でも、
「私はこの人とこれからも付き合いたいのかな」
「嫌だったことを伝えたいのかな」
「少し距離を取りたいのかな」
「私はこれから、どんな人間関係をつくっていきたいのかな」
ということは、自分に問いかけることができます。
相手のハンドルまで握ろうとせず、自分のハンドルを自分で握る。
それが、自分の人生を生きることなのだと思います。
「こういう人と出会ったのも私のせい」と思わなくていい
私はこれまで、
「こういう人が自分の周りにいるということは、自分にも原因があるのかな」
「こういうご縁があったのは、自分の行いに何か問題があったからなのかな」
と考えてしまうことがありました。
でも今は、そこまで自分の責任として引き受けなくてもいいのだと思っています。
出会った相手がどんな人なのか。
相手が私に対してどんな振る舞いをするのか。
それは、私だけが決めていることではありません。
ただ、その人と出会ったあと、
私はどう感じたのか。
私はどうしたいのか。
その関係を続けるのか。
距離を取るのか。
何を許容し、何を許容しないのか。
そこは、私が選ぶことができます。
自分の領域は自分が引き受ける。
でも、相手の領域まで自分の荷物として背負わない。
この境界が、私には必要だったのだと思います。
一つの考えを、人生のすべてに当てはめなくてもいい
そして今回、もう一つ、とても大きなことに気づきました。
それは、
本やSNSなどで知った一つの考え方を、人生のあらゆる出来事に当てはめなくてもいい
ということです。
どんなに素晴らしい言葉でも、
どんなに有名な人が言っていることでも、
どんなに自分が信頼している思想でも、
「これは本当に、この場面にも当てはまるのかな?」
と、一度自分で考えてみてもいい。
ある場面では、とても役に立つ考え方が、
別の場面では、自分を必要以上に責める考え方になってしまうこともあります。
「自分の人生は自分で選ぶ」という考え方は、私に自分の人生を生きる力を与えてくれます。
でも、それを、
「だから、他人からされたことまで全部自分が原因」
と広げてしまったら、まったく違うものになってしまいます。
大切なのは、言葉をそのまま人生に当てはめることではなく、
その言葉が何を意味しているのか。
どこまでなら自分にとって本当なのか。
今の出来事にも、本当に当てはまるのか。
自分で感じ、自分で考えてみることなのだと思います。
それもまた、自分を知ることなのかもしれません。
そして、誰かが出した答えをそのまま自分の人生の正解にするのではなく、自分自身で確かめていく。
それこそが、自分の人生の操縦席に座ることなのだと思います。
今回、長い間どこかでモヤモヤしていたものが、少しほどけました。
すべてを自分のせいにしなくていい。
相手の選択は、相手のもの。
私の選択は、私のもの。
そして私は、
自分の責任ではないものまで背負うのではなく、自分が選べることを、自分で選んで生きていけばいい。
そのことに気づいたとき、「自己責任」という少し厳しく感じていた言葉が、私には少し違って見えました。
責任とは、自分を責めることではない。
自分の人生を、自分に返してあげること。
そして、誰かの言葉をそのまま正解にするのではなく、自分で考え、自分で感じ、自分で確かめながら生きていく。
私はこれからも、そんなふうに自分の人生をつくっていきたいと思います。