まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


嫉妬は、誰かの輝きに心が動いた瞬間なのかもしれない

 

 

最近、ふと「嫉妬」について考えることがありました。

 

恋愛関係の中で生まれる嫉妬もあれば、同性同士で感じる嫉妬もある。

 

自分より才能があるように見える人、活躍している人、魅力的に見える人を見て、

 

「いいな」

「羨ましいな」

 

と感じることもあります。

 

嫉妬というと、あまり良くない感情のように扱われることがあります。

 

でも私は最近、嫉妬ってもう少し違う見方もできるんじゃないかなと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

私たちは、その人の一部分しか見ていない


 

昔、私は誰かに嫉妬したことがありました。

 

その人が持っている才能か何かを見て、「いいな、羨ましいな」と感じていたのだと思います。

 

ところが、その人と話す機会があって、それまで歩んできた人生について本人から聞いたことがありました。

 

表からは見えなかったけれど、いろいろな苦労があったこと。

 

失敗したこと。

 

そこからまた進んできたこと。

 

そういう話を知ったとき、私は少し恥ずかしくなりました。

 

「私は何も知らないで嫉妬していたんだな」と。

 

今となっては、それが誰だったのか、何に嫉妬していたのかさえ忘れてしまいました。

 

でも、そのとき感じたことだけは残っています。

 

考えてみれば、私たちが誰かを見て羨ましいと思うとき、その人の人生すべてを知っているわけではありません。

 

今、目の前に見えている「輝いている部分」を見ているだけかもしれないのです。

 

その場所にたどり着くまで、どんな時間を過ごしてきたのか。

 

何度失敗したのか。

 

何に悩み、何を諦め、それでも何を続けてきたのか。

 

そんなことは、外から見ているだけではわかりません。

 

だからといって、知らずに嫉妬した自分を恥ずかしく思う必要もなかったのだと、今は思います。

 

知らなかったのだから仕方がない。

 

そして嫉妬すること自体も、人間の自然な心の動きの一つなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かの輝きは、ときに「いいショック」になる


 

もう一つ思ったことがあります。

 

誰かがものすごく輝いて見えた瞬間って、ちょっとした衝撃がありませんか?

 

「えっ、こんなことができるんだ」

 

「こんな一面があったんだ」

 

「すごい!」

 

予想していなかったものを見せられて、一瞬圧倒される。

 

私はこれを、ある意味で「いいショック」なのではないかと思います。

 

その人が積み重ねてきたものが、表現や作品、仕事、活動などを通してパッと表に現れた瞬間。

 

それを受け取った側の心が大きく揺さぶられる。

 

その最初の衝撃は、もしかすると純粋な感動なのかもしれません。

 

ところが、その次の瞬間、

 

「いいな」

「羨ましい」

「この人にはあるのに、私にはない」

 

という気持ちが出てくる。

 

そこで感動が、羨望や嫉妬へと枝分かれしていくこともあるのかもしれません。

 

「この人にはある。私にはない」

 

嫉妬が生まれたとき、そこには、

 

「この人は、自分にないものを持っている」

 

という感覚があるのかもしれません。

 

でも、そんなとき私は、

 

「私はこの人の何を見て、嫉妬しているんだろう?」

 

と考えてみるようになりました。

 

才能なのか。

 

評価されていることなのか。

 

自由に表現している姿なのか。

 

自信を持っているように見えることなのか。

 

好きなことを思い切りやっている姿なのか。

 

そこを見ていくと、意外な自分が見えてくることがあります。

 

たとえば、素晴らしいダンサーを見て、ものすごく羨ましくなったとします。

 

でも、

 

「じゃあ私は、この人のようなダンサーになりたいの?」

 

と自分に聞いてみたら、

 

「いや、それは別にやりたくない」

 

となるかもしれません。

 

それでも、なぜか目が離せない。

 

だったら、本当に心を動かされたものは「ダンス」ではないのかもしれません。

 

堂々と自分を表現している姿かもしれない。

 

好きなことに夢中になっている姿かもしれない。

 

人目を気にせず、自分の世界を表現している自由さかもしれない。

 

嫉妬の奥を見ていくと、

 

「私、本当はこういうものに惹かれるんだ」

 

という、自分でも気づかなかった願いや価値観が見えてくることがあります。

 

 

 

 

 

 

羨ましい。でも、私はそれをやりたい?


 

最近の私は、人を見て「すごいな」と思っても、その次の瞬間には、

 

「それはそれ」

 

と切り替わることが多くなりました。

 

なぜなら、その人と私は違うからです。

 

経験してきたことも違う。

 

外見も違う。

 

性格も違う。

 

価値観も、考え方も、望んでいる人生も違う。

 

同じことに興味を持っていたとしても、人生そのものを比べることはできません。

 

一人ひとりに物差しがあるとしても、その物差しそのものが違う。

 

だから、そもそも重ならないのです。

 

誰かを見て、

 

「すごいな」

「羨ましいな」

 

と思ったとしても、

 

「じゃあ、私はそれをしたい?」

 

と聞いてみる。

 

すると意外と、

 

「いや、私はやりたくないな」

 

ということもあります。

 

それなら、その人はその人。

 

私は私。

 

「あなた、すごいね」

 

それだけで終わってもいいのです。

 

 

 

 

 

 

嫉妬は、自分を知る入口にもなる


 

嫉妬を感じたからといって、必ず深く分析する必要もないと思います。

 

「あ、今ちょっと羨ましいと思ったな」

 

それだけで通り過ぎてもいい。

 

でも、どうしても気になる。

 

なぜか目が離せない。

 

何度もその人のことを考えてしまう。

 

そんなときには、

 

「私は、この人の何にこんなに心を動かされているんだろう?」

 

と自分に聞いてみるのも面白いと思います。

 

そして、もう一つ。

 

「この人にはあるけれど、私にはない」

 

と思ったその何かは、本当に自分にはないのでしょうか。

 

まだ表に出していないだけかもしれない。

 

まだやったことがないだけかもしれない。

 

その人とは違う形で、すでに自分の中にあるのかもしれない。

 

誰かの輝きに心を大きく動かされた瞬間。

 

それは、その人について何かを感じた瞬間であると同時に、

 

まだ自分でも知らなかった自分自身に出会った瞬間

 

なのかもしれません。

 

そう考えると、嫉妬もそれほど悪いものには見えなくなります。

 

誰かの輝きを見て、心が「うわっ」と動いた。

 

その心の動きから、

 

「私は何に惹かれたんだろう?」

 

と自分の方へ戻ってみる。

 

そして、自分も本当に望んでいることなら、自分なりの形でやってみればいい。

 

望んでいないなら、

 

「素敵だな。すごいな」

 

と、その人の輝きをその人のものとして眺めればいい。

 

誰かの人生を自分の物差しにする必要もないし、自分の人生を誰かの物差しで測る必要もない。

 

その人には、その人の物差しがある。

私には、私の物差しがある。

 

だからこそ誰かの輝きは、自分を小さくするものではなく、

 

「こんな輝き方もあるんだ」

 

と世界を少し広げてくれるものなのかもしれません。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




一つの答えで、世界のすべてを説明しなくていい



 

最近、スピリチュアルに関する発信を見ていて、

少し気になることがありました。

 

それは、自分が信じているものや、

自分が扱っているものの素晴らしさを伝えるために、

 

「こちらが本物で、あちらは偽物」

「それは間違っている」

「そんなものは意味がない」

 

というように、ほかの考え方や方法を強く否定する発信です。

 

 

もちろん、「私はこの考え方には賛同しません」と意見を伝えることと、

誰かや何かを否定したり馬鹿にしたりすることは違います。

 

私自身も、スピリチュアルの世界で言われていることに対して、

「それはちょっと違うんじゃないかな」と感じることはあります。

 

だから、疑問を持つことや批判的に考えること自体が悪いとは思いません。

 

 

 

でも私は何かを学ぶとき、

 

「ほかはダメだけれど、これはすごい」

 

という伝え方をされるものを、あまり学びたいとは思わないんですよね。

 

なぜなら、本当にそのものに魅力があるのなら、

ほかを下げなくても、その魅力を伝えることはできると思うからです。

 

 

 

 

 

 

「正解」は、本当に一つなのだろうか


 

そんなことを考えるきっかけの一つになったのが、誕生石についての話でした。

 

誕生石は国によって違いがあります。

 

そして、そもそも誕生石そのものも、絶対的な自然法則ではありません。

 

「この月に生まれた人は、絶対にこの石を持たなければならない」というものでもありませんよね。

 

誕生石を知って、

 

「自分の誕生月の石だから、なんだか親近感がある」

 

と思うのも素敵です。

 

でも、自分の誕生石より別の石のほうが好きなら、好きな石を選んでもいい。

 

それくらい自由でいいと私は思います。

 

ところが、一つの体系を「これが正しい」と決めた瞬間、そこから外れたものを「間違い」「偽物」としたくなることがあります。

 

これは誕生石だけの話ではありません。

 

考えているうちに、以前から私がスピリチュアルについて感じていた、

もっと大きな疑問につながっていきました。

 

 

 

 

 

 

「原因はすべて自分」という考え方に苦しくなった

 

 

以前の私は、

 

「自分に起こる出来事の原因は自分にある」

 

という考え方を、かなり広い範囲に当てはめていました。

 

自分の内側を見つめたり、自分にできることを考えたりするためには、役立つこともある考え方だと思います。

 

でも、あるとき疑問を感じました。

 

本当に、すべての出来事の原因を自分にする必要があるのだろうか?

 

人と人との間で起きる出来事には、自分だけではなく相手がいます。

 

相手にも意思があります。

相手にも選択があります。

相手にもその人自身の人生があります。

 

それなのに、そこで起きたことまで全部、

 

「私が引き寄せた」

「私の思考が作った」

「私の内側に原因があった」

 

と考える必要があるのでしょうか。

 

私は、そうではないと思うようになりました。

 

自分が原因ではない出来事もある。

 

でも、それは人生の主導権を失うこととは違います。

 

出来事の原因をすべて自分にしなくても、その後どう生きるかは自分で選べる。

 

このことに気づいたとき、私はとてもホッとしました。

 

 

 

 

 

 

そして思い出した「前世とカルマ」への疑問


 

今回いろいろ考えているうちに、以前から心のどこかに残っていた疑問を思い出しました。

 

それは、前世やカルマについてです。

 

スピリチュアルの世界ではときどき、

 

「今世で起きる苦しい出来事には、前世からのカルマが関係している」

 

というような説明を耳にすることがあります。

 

でも私は、以前からここに引っかかりを感じていました。

 

たとえば、小さな子どもが事故で命を落としたとします。

 

その出来事に対して、

 

「前世で悪いことをしたから、今世でその罪を償っている」

 

と説明したらどうでしょう。

 

私は、とても苦しくなります。

 

そもそも前世について、私は「絶対にある」と証明することもできなければ、「絶対にない」と証明することもできません。

 

わからないものは、わからない。

 

それでいいのではないでしょうか。

 

わからない出来事に対して、無理にスピリチュアルな説明をつけなくてもいい。

 

特に、人の命や深い苦しみに関わる出来事にまで、

一つの理論を当てはめて「だからこうなった」と説明する必要はないと、今の私は思っています。

 

 

 

 

 

 

一つの考え方を「万能の法則」にしない


 

ここまで考えて、ようやく一つにつながりました。

 

私が苦しくなっていたのは、スピリチュアルそのものではなかったのかもしれません。

 

一つの理論や仮説、考え方を、人生で起こるすべての出来事に適用しようとしていたこと。

 

そこに苦しさがあったのだと思います。

 

一つの考え方が、ある場面では自分を助けてくれることがあります。

 

でも、別の場面に同じものを当てはめた途端、自分や誰かを苦しめることもあります。

 

だったら、そこで一度立ち止まってもいい。

 

「この考え方は、ここにも本当に当てはまるのかな?」

 

「これを信じることで、私は生きやすくなっているかな?」

 

「自分や誰かを必要以上に責めることになっていないかな?」

 

そうやって、自分で考えていいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルを全部信じなくてもいいし、全部捨てなくてもいい


 

私はスピリチュアルが好きです。

 

でも、スピリチュアルで言われていることを、全部信じているわけではありません。

 

私にとってスピリチュアルは、

自分自身や人生を縛るためのものではなく、

より良く、より自分らしく生きるために役立てるものです。

 

だから私は、その中から自分にとってプラスになるものを選びたい。

 

自分だけではなく、誰かに伝えるのであれば、その人にとってもプラスになる可能性のあるものを伝えたい。

 

そして、その人自身が、

 

「私はこの考え方が好き」

「これは今の私には必要ない」

 

と選べる余白も残しておきたいと思っています。

 

何かを信じることと、それを絶対的な真実にすることは違います。

 

何かに疑問を持つことと、それを信じている人を馬鹿にすることも違います。

 

「私はこれを選びます」

 

それだけで、本当は十分なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

一つの答えで、世界を塗りつぶさない

 

 

世の中には、わからないことがたくさんあります。

 

なぜこんなことが起きたのだろう。

 

なぜ私だったのだろう。

 

なぜあの人だったのだろう。

 

考えても、答えの出ないことがあります。

 

そんなとき、人は答えが欲しくなるのかもしれません。

 

「カルマだから」

「引き寄せたから」

「思考が現実化したから」

 

そう説明できれば、一瞬、世界が理解できたような気持ちになることもあります。

 

でも、答えがないことを、答えがないままにしておくこともできる。

 

「確認できないことは、私にはわからない」

 

それも一つの誠実な態度だと思います。

 

そして、今の自分に役立つ考え方は取り入れて、苦しくなる考え方は手放してもいい。

 

一度取り入れた考え方を、途中でやめたっていい。

 

「前は信じていたけれど、今の私は違うと思う」

 

それだっていい。

 

一つの理論で、世界のすべてを説明しなくていい。

 

一つの答えで、世界全部を塗りつぶさなくていい。

 

何を信じるかさえ、自分で選んでいい。

 

私は最近、そう思えるようになったことで、スピリチュアルから離れたというよりも、むしろ以前より自由にスピリチュアルと付き合えるようになった気がしています。

 

自分を怖がらせるためではなく。

自分を縛るためでもなく。

誰かを裁くためでもなく。

 

自分と仲良く、自分の人生を生きるために。

 

私はこれからも、自分で感じ、自分で考え、自分で選びながら、必要なものだけを大切にしていきたいと思います。







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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



自分の世界は、自分で選んでいい――「一人一宇宙」という自由

 

 

前回、「怖いときは、決めなくていい」ということについて書きました。

 

何か新しい考え方を知ったとき、すぐに信じなくてもいい。

 

すぐに否定しなくてもいい。

 

怖いと感じたなら、一度立ち止まって、

 

「私はこれをどう感じている?」

 

「私はこの考え方と一緒に生きたい?」

 

と、自分のところへ戻ってきてもいい。

 

そう考えたとき、私はなんだか、自分の人生の主導権が自分に戻ってきたような感覚がありました。

 

自分の人生の操縦席に、もう一度自分が座ったような感覚です。

 

そして、そこからもう一つ気づいたことがあります。

 

そもそも私たちは、誰もがすでに、自分なりの「世界」を作りながら生きているのではないか。

 

ということです。






 

同じ世界にいても、見えている世界は少しずつ違う


 

私たちは、同じ世界で生きています。

 

けれど、一人ひとり経験してきたことは違います。

 

育ってきた環境も違う。

 

出会った人も違う。

 

嬉しかったことも、傷ついたことも違う。

 

何に安心を感じるかも違えば、何を怖いと思うかも違う。

 

好きなものも、大切にしたいものも違います。

 

同じ出来事を経験しても、感じ方が違うことがあります。

 

同じ本を読んでも、心に残るところは違います。

 

同じ人に会っても、

 

「素敵な人だな」

 

と思う人もいれば、

 

「私はちょっと合わないな」

 

と思う人もいる。

 

そう考えると私たちは、生まれてから経験したこと、知ったこと、感じたこと、考えたことを材料にしながら、

 

「人間って、こういうもの」

 

「人生って、こういうもの」

 

「幸せって、こういうもの」

 

「私は、こういう人」

 

という、自分なりの世界の見取り図を少しずつ作っているのだと思います。

 

つまり、

 

私たちはもともと、自分なりの世界観を持って生きている。






 

外から入ってきた情報も、自分の世界を作る材料になる


 

そして、その世界の中には、外からさまざまな情報が入ってきます。

 

本。

 

動画。

 

学校で教わったこと。

 

親から言われたこと。

 

先生から教わったこと。

 

尊敬している人の言葉。

 

スピリチュアルな教え。

 

心理学や哲学。

 

社会の常識。

 

それらを知るたびに、

 

「なるほど、世界ってそういうものなのか」

 

「人間ってこういうものなんだ」

 

と、自分の世界観に少しずつ加えていきます。

 

でも、ここで一つ気をつけたいことがあります。






 

「その人の世界観」が「世界の絶対的な法則」に変わるとき


 

たとえば、有名な人が本の中で、

 

「思考が現実を作ります」

 

「あなたの波動に合った現実が引き寄せられます」

 

「起きる出来事の原因は自分にあります」

 

と書いていたとします。

 

本になっている。

 

たくさんの人が読んでいる。

 

有名な人が言っている。

 

自信を持って語られている。

 

そうすると、その言葉はとても真実味を帯びて感じられることがあります。

 

そして、いつの間にか、

 

「この人は、こういうふうに世界を見ている」

 

という一つの考え方が、

 

「世界は、本当にこういう仕組みで動いている」

 

に変わることがあります。

 

もちろん、本当に事実として確認できることもあります。

 

そういうものについては、根拠を確認すればいい。

 

でも、科学的に確認できないことや、哲学、価値観、スピリチュアルな世界観については、

 

「これは一つの世界の見方でもあるんだな」

 

と、少し距離を置いて眺めてもいいのだと思います。






 

思想を「全部入り」で採用しなくてもいい


 

そして、ここで私は、とても自由なことに気づきました。

 

一つの思想を、全部そのまま採用しなくてもいい。

 

たとえば「引き寄せの法則」の中に、

 

「自分が望んでいる方向を意識してみよう」

 

「自分が本当に望んでいることに目を向けよう」

 

「希望を持って、その方向へ動いてみよう」

 

という考え方があったとします。

 

私はそこには魅力を感じる。

 

だったら、そこは自分の人生に取り入れてもいい。

 

でも、

 

「ネガティブなことを考えたら、ネガティブな現実を引き寄せる」

 

という部分は、自分を怖がらせ、自分の思考を監視することにつながる。

 

だったら、

 

「そこは私は採用しない」

 

でもいい。

 

「原因は自分」という考え方についても同じです。

 

何かが起きたとき、

 

「私にもできることがあったかな?」

 

「私はここから何を変えられるかな?」

 

と自分を振り返ることには意味を感じる。

 

でも、

 

「自分に起きたことは、すべて自分が原因」

 

というところまでは採用しない。

 

それでもいい。

 

思想を、パッケージごと受け取らなくてもいいのです。

 

自分にとって大切なところを受け取って、

 

違和感のあるところは保留にして、

 

必要ないと思ったものは置いていく。

 

そんな自由があっていいと思います。






 

それは「都合よく信じる」ということなのだろうか?

 

 

もしかすると、

 

「そんなふうに好きなところだけ取るのは、都合がよすぎるのでは?」

 

と思う人もいるかもしれません。

 

でも、私は必ずしもそうは思いません。

 

そもそも私たちは、これまでだってそうやって自分の世界観を作ってきたからです。

 

たくさんの人と出会い、

 

たくさんのことを経験し、

 

たくさんの情報に触れ、

 

「これは好き」

 

「これは違うと思う」

 

「以前はこう思っていたけれど、今は違う」

 

と変化しながら生きています。

 

だったら、スピリチュアルな考え方だけを特別扱いして、

 

「一度受け入れたら、全部信じ続けなければならない」

 

と考える必要もないのではないでしょうか。

 

自分の経験と照らし合わせながら、

 

今の自分が何を大切にしたいのかを選んでいく。

 

それも、自分の世界観を育てるということなのだと思います。






 

自分の世界観を、他人の正解にしなくてもいい


 

そして、自分なりの世界観ができたからといって、それを他の人にも信じてもらう必要はありません。

 

「私は今、こんなふうに世界を見ています」

 

それだけでもいい。

 

相手には相手の人生があります。

 

相手が経験してきたことがあります。

 

相手が大切にしているものがあります。

 

だから、

 

私には私の世界観があり、あなたにはあなたの世界観がある。

 

それでいい。

 

自分の世界観を大切にすることと、他人の世界観を尊重することは、両立できると思います。

 

 

 

 

 

 

「一人一宇宙」と考えてみる


 

私は以前から、「一人一宇宙」という言葉が好きです。

 

もちろん、

 

「一人ひとりが物理的に別の宇宙を作っている」

 

という意味ではありません。

 

これは、私にとっての比喩です。

 

一人ひとり、

 

経験してきたことが違う。

 

感じることが違う。

 

大切なものが違う。

 

世界を見る角度が違う。

 

その人にしかない世界の見え方がある。

 

それを一つの「宇宙」と呼んでみる。

 

そう考えると、私はなんだかとても自由な気持ちになります。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則に従う」から、「自分の宇宙を育てる」へ


 

以前の私は、

 

「宇宙の法則がこうなら、それに自分を合わせなければ」

 

と思うことがありました。

 

ネガティブにならないようにする。

 

波動を下げないようにする。

 

悪い現実を引き寄せないように、自分の思考を整える。

 

でも今は、少し違います。

 

どこか外側にある「正しい宇宙」に、自分を合わせ続けなくてもいい。

 

それよりも、

 

「私は、どんな世界観と一緒に生きたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

希望を持てるもの。

 

自分自身と仲良くなれるもの。

 

人生が少し豊かに感じられるもの。

 

世界への好奇心が広がるもの。

 

そんなものを、自分の世界に迎え入れていく。

 

そして、

 

「これはもう私には合わないな」

 

と思ったものは、手放してもいい。

 

私は、そのほうが好きです。

 

 

 

 

 

 

世界観は、完成しなくてもいい


 

そして、自分の世界観を完璧に完成させる必要もないと思います。

 

今日、

 

「私はこう思う」

 

と思っていたことを、

 

5年後には、

 

「あれ? 今はもうそう思わないな」

 

と思うかもしれません。

 

それでいい。

 

新しい経験をすれば、新しいことを感じる。

 

新しいことを知れば、考え方が変わる。

 

以前大切だったものが必要なくなることもあれば、昔は分からなかったものが、後になって大切になることもあります。

 

だから、

 

自分の宇宙を完成させるのではなく、自分と一緒に育てていく。

 

そんな感覚でもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

人生の主導権を、自分に戻す

 

自分の人生の主導権を持つということは、

 

世界で起きるすべてを、自分の思い通りにすることではない。

 

未来を完全にコントロールすることでもない。

 

私は今、

 

何を自分の世界に迎え入れるのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

そして、どんな方向へ歩いていきたいのか。

 

それを、自分自身で決められることなのではないかと思っています。

 

誰かの世界観を、そのまま自分の世界にしなくてもいい。

 

有名な人が言ったことも、

 

本に書いてあったことも、

 

スピリチュアルな教えも、

 

一度、自分の前に置いてみる。

 

「私はどう思う?」

 

「私はこれに魅力を感じる?」

 

「これは、今の私の人生を豊かにしてくれる?」

 

そうやって、自分と相談しながら選んでいく。

 

そして、迷ったら保留にしてもいい。

 

後から選び直してもいい。

 

自分の世界を作る決定権は、自分にある。

 

そう思えると、私は自分の人生の操縦席に、自分自身が戻ってきたような気がします。

 

「正しい世界」を探して、その世界に自分を合わせ続けなくてもいい。

 

自分自身と一緒に、

 

自分が生きたい世界を少しずつ育てていく。

 

それが私にとっての、

 

「一人一宇宙」

 

なのだと思います。






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怖いときは、決めなくていい

――自分の世界観を守るためのバウンダリー


 

前回、「自分の世界観を決める権利を、自分自身に戻していく」ということについて書きました。

 

スピリチュアルな世界には、さまざまな考え方があります。

 

「引き寄せの法則」

 

「原因は自分にある」

 

「思考が現実をつくる」

 

「波動」

 

「宇宙の法則」

 

私は、これらをすべて否定したいわけではありません。

 

今でもスピリチュアルな世界には好きなところがありますし、自分の人生を豊かにしてくれたものもあります。

 

だからこそ、

 

「スピリチュアルを信じるか、信じないか」

 

という二択ではなく、

 

「私は、何を自分の世界観として採用したいのだろう?」

 

と考えてみたいのです。

 

そして、そのために一つ、とてもシンプルな基準があることに気づきました。

 

怖いときは、決めなくていい。






 

不安や恐怖を感じたら、一旦立ち止まる


 

私は以前、

 

「不安や恐怖を感じさせるものは、採用しなくていい」

 

と考えていました。

 

今でも、その考え方は自分を守るうえで大切だと思っています。

 

でも、もう少し丁寧に考えてみると、

 

正しい情報であっても、怖いと感じることはあります。

 

健康について大切なことを知らされたとき。

 

災害についての情報を知ったとき。

 

自分にとって大きな問題に直面したとき。

 

真実かどうかと、怖いと感じるかどうかは、必ずしも同じではありません。

 

だから私は、

 

「怖いから間違っている」

 

と判断するのではなく、

 

「怖いと感じたから、今は決めない」

 

という選択があってもいいと思うようになりました。

 

採用しないと決めなくてもいい。

 

信じると決めなくてもいい。

 

否定もしなくていい。

 

ただ、

 

一旦、保留にする。

 

それだけです。

 

 

 

 

 

 

「すぐに決めない」ことも、バウンダリー


 

バウンダリーというと、

 

「NOと言うこと」

 

「断ること」

 

「ここから先には入れません、と線を引くこと」

 

というイメージがあるかもしれません。

 

でも、

 

「今は決めません」

 

というのも、一つのバウンダリーだと思います。

 

情報を受け取ったからといって、すぐ自分の中に入れなくてもいい。

 

本に書いてあるからといって、すぐ信じなくてもいい。

 

尊敬している人が言っているからといって、自分の世界観に採用しなくてもいい。

 

一度、自分の前に置いて眺めてみる。

 

「私はこれをどう感じている?」

 

「本当にそうなのかな?」

 

「私はこれを、自分の中に入れたい?」

 

そう考える時間を、自分に与えてもいい。

 

自分の内側にも、玄関があっていい。

 

訪ねてきた考え方を、すべてそのまま家の中に通さなくてもいいのです。

 

 

 

 

 

 

怖いと感じた自分を、今度は信じてみる


 

以前の私は、スピリチュアルな考え方を知って怖くなったとき、

 

「怖いけれど、宇宙の法則なら仕方がない」

 

という方向へ考えることがありました。

 

「ネガティブなことを考えたら、ネガティブな現実を引き寄せる」

 

そう聞いて怖くなったとしても、

 

「だったら、ネガティブにならないようにしなきゃ」

 

と、自分のほうを変えようとする。

 

でも今なら、

 

「あ、私、この考え方を聞いて怖くなっている」

 

と、まず自分の感覚に戻ることができます。

 

そして、

 

「じゃあ、今は採用しなくていいよ」

 

と、自分に言ってあげることができます。

 

怖さをなくしてから決めなくてもいい。

 

怖がっている自分を説得しなくてもいい。

 

まず、その自分と一緒に立ち止まる。

 

それだけでもいいのだと思います。






 

不安は「従いなさい」という命令ではない


 

不安や恐怖を感じると、

 

「怖いということは、きっとこれは重要なことなんだ」

 

「従わなかったら、本当に悪いことが起きるかもしれない」

 

と思うことがあります。

 

でも、

 

怖いと感じたことと、その情報が正しいことは別です。

 

同じように、

 

怖いと感じたことと、その情報が間違っていることも別です。

 

だから、不安や恐怖を「答え」にしなくてもいい。

 

私は、不安や恐怖を、

 

「一度、自分に戻ろう」

 

というサインとして扱ってもいいのではないかと思っています。

 

怖い。

 

じゃあ、少し待とう。

 

不安だ。

 

じゃあ、今は決めなくていい。

 

そうやって、判断するための時間を自分に返していく。






 

「正しいか」だけではなく、「私はこれに魅力を感じる?」


 

そして、もう一つ大切にしたい問いがあります。

 

それは、

 

「私は、この考え方に魅力を感じるだろうか?」

 

ということです。

 

世界観というものは、「正しいか、間違っているか」だけで選ばなくてもいいものもあると思います。

 

もちろん、事実について考えるときには、根拠を確かめることは大切です。

 

でも、哲学や価値観、人生をどう捉えるかというところには、

 

「私はどんな考え方と一緒に生きたい?」

 

という問いもあっていい。

 

この考え方を持っていると、私は自分を好きでいられるだろうか。

 

自分自身と仲良くなれるだろうか。

 

人生に希望を感じられるだろうか。

 

それとも、

 

自分を監視するようになるだろうか。

 

自分を怖がるようになるだろうか。

 

自分の感情を否定するようになるだろうか。

 

そんなふうに、自分との相性を確かめてもいい。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則だから」より、「私はどう感じている?」


 

以前なら、

 

「宇宙の法則なのだから、私が合わせなければ」

 

と思っていたことを、

 

今は、

 

「私は、この考え方と一緒に生きたい?」

 

と問い直すことができます。

 

これは、とても大きな違いです。

 

情報を基準にして、自分を評価するのではなく、

 

自分を基準にして、情報との関係を考える。

 

「この教えに合わない私は間違っている」

 

ではなく、

 

「この考え方は、今の私に合っている?」

 

と考える。

 

決定権が、自分のところに戻ってきます。






 

怖いときに急いで決めないことは、自分を守ること


世の中には、不安や恐怖、そして「時間がない」という感覚によって、人の判断を急がせるものがあります。

 

「今すぐ決めなければいけない」

 

「今を逃したら大変なことになる」

 

「これをしなければ悪いことが起きる」

 

そんな言葉を聞いて怖くなったときほど、

 

今すぐ決めなくてもいい。

 

もちろん、本当に急ぐ必要がある状況もあります。

 

だから「急かされたものは全部間違い」という意味ではありません。

 

ただ、

 

恐怖によって自分の判断が狭くなっていると感じたら、一度立ち止まる。

 

可能なら、時間を置く。

 

情報を確認する。

 

別の視点からも見てみる。

 

誰かに相談してみる。

 

そして、自分自身にも聞いてみる。

 

それは、自分の決定権を守るための大切なバウンダリーになると思います。

 

 

 

 

 

 

新しい「掟」を作らなくてもいい

 

そして、ここでまた一つ気をつけたいことがあります。

 

「怖いものは採用してはいけない」

 

という新しい掟を、自分の中に作らなくてもいいということです。

 

それでは、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

という以前のルールが、

 

「怖いものを信じてはいけない」

 

に変わっただけになってしまいます。

 

だから、

 

怖いものを信じてもいい。

 

あとで考えが変わってもいい。

 

一度手放した考え方を、また信じそうになってもいい。

 

迷ってもいい。

 

自分の世界観を、一度できれいに完成させなくてもいい。

 

その都度、

 

「今の私はどう思う?」

 

と、自分に戻ってくればいい。

 

 

 

 

 

 

縛りをほどくように、少しずつ自由になる


 

「ネガティブになったら、悪いことを引き寄せる」

 

「今起きていることは、過去の自分が作った」

 

「波動を下げてはいけない」

 

そうした考え方を深く信じていたなら、

 

「今日からやめます」

 

と言っただけでは、完全には消えないかもしれません。

 

それでもいい。

 

一本ずつ、結び目をほどいていくように、

 

「これは本当なのかな?」

 

「私はこれを持っていたい?」

 

「怖いなら、今日は決めなくてもいいよ」

 

と、自分に聞いていく。

 

そして少しずつ、

 

自分で自分を縛っていたものから、自分自身を自由にしていく。

 

私は、それでいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

何を信じるかを決める前に、自分のところへ帰ってくる

 

不安になってもいい。

 

怖くなってもいい。

 

迷ってもいい。

 

その感情を消してからでなければ、人生を選べないわけではありません。

 

怖かったら、

 

「怖いね。じゃあ、今は決めなくていいよ」

 

と、自分と一緒に立ち止まる。

 

そして落ち着いたら、

 

「これは事実として確認できる?」

 

「私はこれに魅力を感じる?」

 

「この考え方と一緒に生きたい?」

 

「この考え方を持つことで、私は自分自身と仲良くなれる?」

 

と、もう一度考えてみる。

 

答えは、そのとき出なくてもいい。

 

保留でもいい。

 

後から変わってもいい。

 

自分の世界観を決める権利は、自分にある。

 

そう思えるだけでも、

 

「この法則からは逃れられない」

 

という怖さから、少しずつ自由になっていけるのではないでしょうか。

 

怖いときは、決めなくていい。

 

まず、自分のところへ帰ってくる。

 

そして、自分と一緒に考える。

 

私は、それも自分自身と仲良くなるための、大切なバウンダリーなのだと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「宇宙の法則」って、そもそも何だろう?

――信じてきた世界観を、自分に優しく選び直す

 

 

スピリチュアルな世界には、私は今でも好きなところがあります。

 

だから、スピリチュアルそのものを否定したいわけではありません。

 

けれど最近、「原因は自分説」や「引き寄せの法則」について改めて考えている中で、一つ気づいたことがありました。

 

それは、

 

一度、自分の中に出来上がった世界観は、そんなに簡単には手放せない

 

ということです。

 

「この考え方は、もう私には必要ない」

 

そう決めれば、すぐ自由になれる。

 

必ずしも、そんなに簡単ではないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かに縛られたわけではない


 

私の場合、誰か一人から、

 

「これを信じなさい」

 

と言われたわけではありません。

 

何かの団体に所属して、決められた教義を教え込まれたわけでもありません。

 

自分で本を読み、いろいろなことを知り、自分が興味を持ったものを自分なりに取り入れてきました。

 

「思考が現実をつくる」

 

「引き寄せの法則」

 

「波動」

 

「原因は自分にある」

 

そうしたさまざまな考え方を知り、それらが少しずつ自分の中でつながっていきました。

 

そしていつしか、

 

「世界とは、こういう仕組みで動いている」

 

という、自分なりの世界観が出来上がっていったのだと思います。






 

自分の中に「スピリチュアルな世界と掟」ができていく


 

その世界観の中では、

 

ポジティブなことを考えれば、ポジティブな現実につながる。

 

ネガティブなことを考えれば、ネガティブな現実につながる。

 

自分の波動が、経験する現実に影響する。

 

起きたことの原因を、自分の中に探す。

 

そんなさまざまな考え方がつながっていきます。

 

すると、それは単なる「知識」ではなくなります。

 

いつしか、

 

「この世界では、こう生きなければならない」

 

という、まるで自分の中の「掟」のようになっていくことがあります。

 

誰かが監視しているわけではありません。

 

誰かが罰を与えるわけでもありません。

 

けれど、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

「波動を下げてはいけない」

 

「そうしなければ、幸せになれないかもしれない」

 

と、自分自身が自分を監視するようになる。

 

自分で作り上げた世界観の中で、自分自身がそのルールを守ろうとするようになるのです。

 

 

 

 

 

 

なぜ、簡単には手放せないのだろう?


 

でも、あるとき、

 

「私はもう、この考え方は好きじゃない」

 

と思ったとしても、簡単には離れられないことがあります。

 

なぜなら、自分の人生を振り返ったときに、

 

「あのとき願っていたことが本当に叶った」

 

「嫌なことを考えていたら、本当に嫌なことが起きた」

 

「気分がよかった時期には、いいことが続いた」

 

という経験を思い出すことがあるからです。

 

すると、

 

「やっぱり、あの法則は本当なのではないか」

 

と思います。

 

本に書いてあったから信じるだけではありません。

 

自分自身の経験が「証拠」のように感じられる。

 

だから、頭では、

 

「もう、この考え方から離れたい」

 

と思っていても、

 

心のどこかでは、

 

「でも、本当だったらどうしよう」

 

という怖さが残る。

 

だから簡単には離れられないこともあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「経験したこと」と「その経験についての説明」は別


 

ここで私は、一つ大切なことに気づきました。

 

自分が経験したことと、

その経験について自分が与えた説明は、同じものではない。

 

たとえば、

 

「願っていたことが実現した」

 

これは、自分が経験したことです。

 

でも、

 

「私の思考の波動が宇宙に作用して、その現実を引き寄せた」

 

となると、それは経験そのものではなく、経験についての一つの説明です。

 

願っていたから、そのために行動したのかもしれない。

 

願っていたから、関連する情報に気づきやすくなったのかもしれない。

 

周りの人との関わりが影響したのかもしれない。

 

偶然が重なったのかもしれない。

 

いろいろな要因があったのかもしれない。

 

あるいは、

 

なぜそうなったのかは、確認できない。

 

それでもいい。

 

自分の経験を否定する必要はありません。

 

ただ、

 

「私はこう経験した」と「だから宇宙はこういう法則で動いている」の間には、まだ距離がある。

 

そう考えるだけでも、少し余白が生まれます。

 

 

 

 

 

 

「宇宙の法則」――ところで、その宇宙って何だろう?


 

そして、ここで究極的ともいえる、とてもシンプルな疑問が浮かびました。

 

スピリチュアルな本では、

 

「宇宙に願いを届ける」

 

「宇宙が応援してくれる」

 

「宇宙の法則」

 

「宇宙に委ねる」

 

といった表現を目にすることがあります。

 

私自身も「宇宙」という言葉を使ってきました。

 

でも、ふと思ったのです。

 

「この“宇宙”って、一体何なのだろう?」

 

天文学や物理学で扱われている、星や銀河や時空を含む宇宙のことでしょうか。

 

それとも、何らかの意思を持った存在なのでしょうか。

 

神のようなものなのでしょうか。

 

集合的な意識なのでしょうか。

 

エネルギーなのでしょうか。

 

それとも、目には見えない大きなものを表現するための比喩なのでしょうか。

 

私は、ここについて明確な答えを持っていません。

 

だから、

 

「確認できません」

 

というところに、一度置いてみてもいいのではないかと思いました。

 

 

 

 

 

 

分からないことを、分からないままにしてもいい


 

もちろん、「宇宙」という言葉を使ってはいけないわけではありません。

 

「私にとって宇宙という言葉は、大きな流れを象徴する言葉です」

 

という使い方だってできます。

 

詩的な表現として使ってもいい。

 

自分の感覚を表現するために使ってもいい。

 

私は、そういう世界まで否定したいわけではありません。

 

ただ、

 

その「宇宙」が何を指しているのか自分でも分からないのに、

「宇宙の法則だから絶対に従わなければならない」と自分を怖がらせる必要があるのだろうか。

 

ここは、問い直してもいいのではないでしょうか。

 

「ネガティブなことを考えたら、宇宙がそれに合った現実を返してくる」

 

もし、それが怖くて不安を感じることさえ怖くなっているのなら、

 

一度、

 

「ところで、それは誰が確認した法則なのだろう?」

 

と立ち止まってみてもいい。

 

分からないことを「宇宙の法則」という言葉で確定させなくてもいい。

 

分からないなら、

 

「私には分からない」

 

でいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

信じるのをやめようとして、また信じてもいい


 

そして、一度深く信じた世界観なら、問い直したからといって翌日から完全に消えるわけではありません。

 

嫌なことが起きたとき、

 

「あ……昨日ネガティブなことを考えていたからかな」

 

と思うこともあるかもしれません。

 

それでもいい。

 

そこで今度は、

 

「また引き寄せを信じてしまった」

 

「こんな考え方をする私はダメだ」

 

と自分を責めたら、監視する対象が変わっただけです。

 

以前は、

 

「ネガティブになってはいけない」

 

だったものが、

 

今度は、

 

「スピリチュアルなことを考えてはいけない」

 

になってしまいます。

 

それでは、やっぱり苦しい。

 

だから、

 

「ああ、私はまだそう結びつけることがあるんだな」

 

でいい。

 

そして、

 

「でも、本当にそれが原因だったかは分からないよね」

 

と、ほんの少し余白を作ってみる。

 

それくらいの優しい選び直しでもいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

スピリチュアルを捨てるのではなく、自分に決定権を戻す


 

私は、スピリチュアルのすべてを捨てたいわけではありません。

 

好きなものは、これからも好きでいていいと思っています。

 

自分の人生を豊かにしてくれるもの。

 

世界を見ることを楽しくしてくれるもの。

 

希望を感じられるもの。

 

自分自身と深くつながれるもの。

 

そういうものは、自分の中に残していい。

 

でも、

 

自分を怖がらせるもの。

 

自分を嫌いにさせるもの。

 

自分の思考を監視させるもの。

 

自分の感情を「悪いもの」にしてしまうもの。

 

それについては、

 

「これは本当に、これからの私が持っていたい考え方なのだろうか?」

 

と問い直してもいい。

 

すぐに答えが変わらなくてもいい。

 

少しずつ選び直していけばいい。

 

大切なのは、

 

自分の世界観を決める権利を、自分自身に戻していくこと。

 

なのだと思います。






 

「現実を創造する」という言葉も、もっと自由に考えていい


 

そして私は、「現実を創造する」という言葉そのものまで捨てなくてもいいと思っています。

 

ただ、その意味を少し変えてみる。

 

思考だけで宇宙を操作して、望んだ出来事を引き寄せる。

 

そういう意味ではなく、

 

私はこう生きたいという希望を持つ。

 

その方向へ一歩進んでみる。

 

何かを選ぶ。

 

行動する。

 

人と出会う。

 

ときには予定外のことが起きる。

 

そこでまた感じ、考え、次を選ぶ。

 

そうやって、自分の人生を少しずつ作っていく。

 

それもまた、「現実を創造する」ということなのではないでしょうか。

 

世界のすべてをコントロールできなくてもいい。

 

嫌なことが起きても、自分のせいにしなくていい。

 

不安になっても、未来を壊したと思わなくていい。

 

それでも、

 

「私は、ここからどんな方向へ歩いていきたい?」

 

という問いは、自分の手元にあります。






 

世界を支配する責任から降りて、自分の人生を生きる


 

すべての現実の原因を、自分にしなくてもいい。

 

すべての思考を、ポジティブに管理しなくてもいい。

 

「宇宙の法則」に背かない自分になろうとしなくてもいい。

 

分からないことは、分からないままでいい。

 

ネガティブな自分が出てきてもいい。

 

そして、以前信じていたものをまた信じそうになったっていい。

 

そのたびに、

 

「私は今、どう感じている?」

 

「私は何を信じたい?」

 

「私はどう生きたい?」

 

と、自分に戻ってくればいい。

 

すべての現実の原因は自分ではない。

でも、ここからの人生をどう生きたいか、その決定権は自分にある。

 

世界を支配する責任から降りても、

 

自分の人生まで手放す必要はありません。

 

むしろ、

 

世界を支配しようとすることから自由になったとき、

ようやく自分の人生を、自分の足で歩いていけるのかもしれません。

 

スピリチュアルを信じるか、信じないか。

 

その二択でなくてもいい。

 

好きなものは大切にして、

 

分からないものは分からないままにして、

 

怖くなったら立ち止まって、

 

そしてまた、自分で選ぶ。

 

そんなふうに、自分自身と仲良くしながら世界観を作っていくこともできる。

 

私は今、そのくらい自由でいいのではないかと思っています。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


「原因は自分」を手放しても、人生は自分で選べる


 

「ネガティブなことを考えていたから、ネガティブな出来事を引き寄せた」

 

スピリチュアルな世界では、ときどきそんな言葉を耳にします。

 

以前の私も、こうした考え方についていろいろ考えてきました。

 

けれど今、改めて考えてみると、とてもシンプルなことに気づきました。

 

そもそも、その出来事を「ネガティブな出来事」と決めているのは誰なのだろう?

 

ということです。






 

出来事そのものと、私の評価は別のもの


 

何かが起きたとします。

 

その出来事に対して、

 

「嫌なことが起きた」

「最悪な出来事だった」

「いいことが起きた」

「ラッキーだった」

 

と私たちは表現します。

 

でも、ここには「出来事」と「私の評価」という二つのものがあります。

 

出来事そのものに、最初から「ポジティブ」「ネガティブ」という札が貼られているわけではありません。

 

私はこれが好き。

 

私はこれは嫌だ。

 

私にとってこれは嬉しい。

 

私にとってこれは困る。

 

そうやって、自分自身がその出来事を感じ、評価し、意味づけしています。

 

もちろん、だからといって「どんな出来事もポジティブに考えよう」という話ではありません。

 

嫌なものは嫌でいい。

 

悲しいものは悲しいし、腹が立つことだってあります。

 

大切なのは、

 

「ネガティブな出来事が存在した」ということと、

「私はその出来事をネガティブだと評価した」ということは、厳密には同じではない

 

ということです。






 

「ネガティブ思考がネガティブな出来事を引き寄せた」という物語


 

たとえば、

 

「最近ずっとネガティブなことを考えていた」

 

その後、

 

「自分にとって嫌だと感じる出来事が起きた」

 

とします。

 

すると、

 

「ネガティブなことを考えていたから波動が下がり、その波動に合った出来事を引き寄せた」

 

と説明することもできます。

 

でも、確実に起きたことだけを取り出してみれば、

 

「ネガティブなことを考えていた」

 

「その後、ある出来事が起きた」

 

「私はその出来事を嫌だと感じた」

 

ということでもあります。

 

前に起きたことと、後に起きたこと。

 

この二つが時間的につながっているからといって、前者が後者を発生させたとは限りません。

 

 

 

 

 

 

そもそも「時間」って何だろう?


 

私たちは普段、時間を過去から現在、そして未来へと続いていく一本の流れのように感じています。

 

だから、その中で起きた出来事についても、

 

「あのあとに、これが起きた」

 

「こう考えていたときに、こんなことが起きた」

 

というように、前後の出来事を自然につなげて考えます。

 

でも、

 

前に起きたことと後に起きたことがつながって見えることと、

前の出来事が後の出来事を起こしたことは同じではありません。

 

私たちは時間の中で起きたさまざまな出来事をつなぎ合わせながら、自分なりの「物語」として理解していることがあります。

 

だから、ときにはその物語を少しほどいて、

 

「これは本当に原因と結果なのかな?」

 

「ただ前と後に起きただけなのかな?」

 

と見てみてもいいのだと思います。

 

すべてを一本につなげなくてもいい。

 

そう考えるだけでも、過去に今の原因を探し続けることから、少し自由になれるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

原因は自分にしなくても、人生は自分で選べる



 

では、「すべての原因は自分ではない」と考えたら、人生の主体性まで失われてしまうのでしょうか。

 

私は、むしろ逆なのではないかと思います。

 

何かが起きた。

 

それを私はどう感じるのか。

 

そして、ここからどうするのか。

 

Aを選ぶのか。

 

Bを選ぶのか。

 

何も選ばず、しばらく立ち止まるのか。

 

それは今の自分が決めることができます。

 

そして一つ選択すれば、その行動によって、その後に起こりうることも変わっていきます。

 

もちろん、選んだからといって、すべてが思い通りになるわけではありません。

 

自分以外の人も生きています。

 

社会も動いています。

 

自然もあります。

 

偶然もあります。

 

自分にはコントロールできないことが、世界にはたくさんあります。

 

だからこそ、

 

「世界のすべてを私が作っている」必要なんてないのです。

 

 

 

 

 

 

過去の自分を原因にしなくてもいい


 

「今こんなことが起きているのは、過去の私の思考が悪かったから」

 

「私の波動が低かったから」

 

「私がこの現実を引き寄せたから」

 

そうやって、今起きていることの原因を、いつも過去の自分の中から探さなくてもいいのだと思います。

 

今起きていることは、さまざまな要因が重なって起きているのかもしれない。

 

あるいは、私には原因が分からないことだってある。

 

分からないものは、分からないままでいい。

 

それでも私は、今ここからどうするのかを選ぶことができます。

 

過去の自分に今の責任を背負わせなくても、今の自分の人生を生きることはできるのです。

 

 

 

 

 

 

「ネガティブになってはいけない」という新しい苦しさ


 

そして、「ネガティブな思考がネガティブな出来事を引き寄せる」と考えると、もう一つの問題が生まれます。

 

「だったら、ネガティブなことを考えないようにしよう」

 

「嫌なことを引き寄せないように、ポジティブでいよう」

 

と思うようになることです。

 

実際、以前の私もそうでした。

 

嫌な出来事を引き寄せたくない。

 

嬉しいことが起きてほしい。

 

だったら、なるべくポジティブでいよう。

 

一見すると、自分を幸せにするための考え方に見えます。

 

でも、それがいつの間にか、

 

不安になってはいけない。

 

怒ってはいけない。

 

悪いことを考えてはいけない。

 

落ち込んではいけない。

 

という、自分の内側への監視に変わってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

ネガティブなことを考えるのも、人間として自然なこと


 

そもそも人間には、危険を察知し、自分の身を守るための仕組みがあります。

 

「大丈夫かな?」

 

「危険はないかな?」

 

「こんなことになったらどうしよう」

 

未来について心配したり、良くない可能性を考えたりすること自体は、人間として不自然なことではありません。

 

不安も恐れも、ときには私たちを守るために働きます。

 

だから、

 

不安を感じたというだけで、自分の状態が悪いことにはならない。

 

ネガティブなことを考えたからといって、自分を修正しなければならないわけでもありません。

 

嬉しいことを考えてもいい。

 

怖いことを考えてもいい。

 

希望を持ってもいい。

 

不安になってもいい。

 

人間なのだから、いろんなことを考えていい。

 

 

 

 

 

 

「ポジティブでいなければ」は、自分への抑圧になることもある


 

本当は怖い。

 

本当は悲しい。

 

本当は腹が立っている。

 

それなのに、

 

「こんなことを考えたら、悪いものを引き寄せてしまう」

 

と思って、その感情や思考を押し込める。

 

それでは、自分を幸せにするために始めたはずの考え方によって、自分自身の自由を奪ってしまいます。

 

私は、それは自分自身への抑圧になってしまうことがあると思います。

 

少し強い言葉を使うなら、

 

自分を守ろうとして、自分で自分をいじめてしまう。

 

そんな状態にもなり得るのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

不安になった自分を直すより、自分を知っていく


 

不安を感じたとき、

 

「こんなことを考えちゃダメ」

 

と消そうとするのではなく、

 

「私は、どうして不安なんだろう?」

 

と自分に聞いてみる。

 

すると、

 

傷つくことが怖かった。

 

失敗したくなかった。

 

大切なものを失いたくなかった。

 

安心したかった。

 

本当はこうしたかった。

 

そんな自分自身の気持ちが見えてくることがあります。

 

だから私は、ネガティブな思考をなくすことよりも、

 

「今、自分は何を感じ、何を考えているんだろう?」

 

と、自分自身を知っていくことのほうを大切にしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

思考は、ただの「思考」でもいい


 

私たちは普段、

 

「ポジティブ思考」

 

「ネガティブ思考」

 

という言葉を使います。

 

もちろん、物事を理解したり、人に伝えたりするためには便利な言葉です。

 

でも私は、それも人間が理解しやすいように分類し、名前をつけたものだと捉えています。

 

思考は、思考。

 

最初から「いい思考」「悪い思考」という札が貼られているわけではありません。

 

「ああ、今私はこんなことを考えているんだな」

 

それだけでもいい。

 

そう考えると、自分の中に浮かんだ思考と戦わなくてもよくなります。

 

 

 

 

 

 

過去の自分を責めず、今の自分を抑圧せず、ここから選ぶ


 

私は今、この三つがとても大切なのではないかと思っています。

 

過去の自分を、今起きていることの原因にして責めない。

 

今の自分に、「ポジティブでいなさい」と命令して抑圧しない。

 

そして、

 

今ここから、自分がどうしたいのかを選ぶ。

 

世界で起きるすべてのことを、自分が引き寄せたことにしなくてもいい。

 

自分の思考を完璧に管理しなくてもいい。

 

それでも、人生の主体性は失われません。

 

何を考えてもいい。

 

何を感じてもいい。

 

そして、その自分と一緒に、

 

「じゃあ、私はここからどうしたい?」

 

と考えればいい。

 

過去の自分が今を引き寄せたのではなく、

今の私は、ここから何を選ぼう?

 

私にとっては、こちらのほうがずっと自由です。

 

世界のすべての原因にならなくても、私は私の人生を生きることができる。

 

すべてをコントロールできなくても、そのとき、そのときの自分と一緒に選んでいくことはできる。

 

人生とは、過去の自分が作ってしまった現実を背負い続けることではなく、

 

今ここから、何度でも自分の足で歩いていけるもの。

 

そんなふうに考えると、
人生はもう少し自由で、もう少し軽やかなものになるのかもしれません。






 

魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy


 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「ネガティブに考えたから、嫌なことが起きた」は本当なのか?

――原因は自分説について考える

 

 

スピリチュアルな世界では、

ときどきこんな言葉を耳にします。

 

「ネガティブなことを考えていたから、波動が下がって嫌な出来事を引き寄せた」

 

「自分の波動に見合った出来事が現実に起きている」

 

以前の私は、

こうした考え方についていろいろ考えてきました。

 

けれど今、改めて考えてみると、

とてもシンプルなことに気づきました。


 

そもそも、その出来事を「ネガティブな出来事」と決めているのは誰なのだろう?

 

ということです。






 

出来事そのものと、私の評価は別のもの


 

何かが起きたとします。

 

その出来事に対して、

 

「嫌なことが起きた」

「最悪な出来事だった」

「いいことが起きた」

「ラッキーだった」

 

と感じることがあります。

 

でも、ここには「出来事」と「私の評価」という二つのものがあります。

 

出来事そのものに、最初から「ポジティブ」「ネガティブ」という札が貼られているわけではありません。

 

起きたことに対して、

 

私はこれが好き。

私はこれは嫌だ。

私にとってこれは嬉しい。

私にとってこれは困る。

 

そうやって、自分自身がその出来事を感じ、評価し、意味づけしています。

 

もちろん、だからといって「どんな出来事もポジティブに考えよう」という話ではありません。

 

嫌なものは嫌でいい。

 

悲しいものは悲しいし、腹が立つことだってあります。

 

大切なのは、

 

「ネガティブな出来事が存在した」ということと、

「私はその出来事をネガティブだと評価した」ということは、厳密には同じではない

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

「ネガティブ思考がネガティブな出来事を引き寄せた」という説明


 

ここで、いわゆる「原因は自分説」に戻ります。

 

たとえば、

 

「最近ずっとネガティブなことを考えていた」

     ↓

「嫌だと感じる出来事が起きた」

     ↓

「ネガティブな思考によって波動が下がり、その波動に合ったネガティブな出来事を引き寄せた」

 

という説明です。

 

一見すると、きれいにつながっているように見えます。

 

でも、私は今、この二つを因果関係として結びつける必要はないと思っています。

 

ネガティブなことを考えていた。

 

そして、ある出来事が起きた。

 

私はその出来事を嫌だと感じ、「ネガティブな出来事」と評価した。

 

それだけかもしれないからです。

 

つまり、

 

「ネガティブ思考をしていたこと」と「その出来事が発生したこと」は、

別々の出来事として考えることができます。

 

たまたま同じ時期に存在していたからといって、前者が後者を生み出したとは限りません。

 

 

 

 

 

 

「波動によって引き寄せた」は科学的に証明されているのか

 

 

2026年8月現在、私がここでいう、

 

「ネガティブな思考をすると波動が下がり、その波動と同質の外部の出来事が物理的に引き寄せられる」

 

という仕組みが、科学的事実として確立されているとは確認できません。

 

これは大切なところだと思います。

 

「科学で証明されていない=絶対に存在しない」という意味ではありません。

 

科学がまだ説明できていないこともあります。

 

けれど同時に、

 

「科学で否定できない=本当に存在する」でもありません。

 

わからないことは、わからない。

 

確認できていないことは、確認できていない。

 

私は、それでいいと思っています。

 

だから私は、スピリチュアルな考え方を楽しむことと、それを「現実に起きた出来事の原因」と断定することは分けて考えたいと思います。

 

 

 

 

 

 

「私が嫌だと思った」と「私が引き寄せた」はまったく違う


 

ここが、今回私が一番大切だと思ったところです。

 

何か嫌なことが起きたとき、

 

「私はこの出来事が嫌だ」

 

これは、自分自身の感覚です。

 

けれど、

 

「私がネガティブだったから、この出来事を引き寄せた」

 

となると、話が変わります。

 

これは自分の感覚ではなく、出来事がなぜ発生したのかという原因についての説明だからです。

 

私は雨が嫌いかもしれない。

 

でも、「雨を嫌だと思ったこと」と「雨が降った原因」は別です。

 

誰かの言葉に傷ついたとしても、「私はその言葉で傷ついたこと」と「その人がその言葉を発した原因」は別です。

 

この二つを混ぜなくてもいいのだと思います。






 

「原因は自分」ではなく、「評価しているのは自分」

 

 

そう考えていくと、私の中ではとてもシンプルになりました。

 

起きた出来事すべての原因が自分なのではなく、

その出来事を自分にとってどう感じ、どう評価するかは自分の内側にある。

 

「いいことが起きた」

 

「悪いことが起きた」

 

「今日は最悪だった」

 

「今日は最高だった」

 

私たちは普段、当たり前のようにこんな言葉を使います。

 

けれど、より丁寧に見れば、

 

「私にとって嬉しい出来事が起きた」

 

「私はこの出来事を嫌だと感じた」

 

「今日起きたことを、私はとても辛いと感じている」

 

ということなのかもしれません。

 

そこには、自分自身の価値観や好み、大切にしているもの、期待、過去の経験などが反映されています。

 

だからこそ、同じ出来事でも人によって感じ方が違うのでしょう。






 

自分の責任ではない。でも、自分の感覚は大切にする


 

私は、この考え方のほうが自分にとって自然です。

 

何か嫌なことが起きたとき、

 

「私がネガティブだったからだ」

 

「私の波動が低かったからだ」

 

「私がこの現実を引き寄せたんだ」

 

と、すべてを自分の責任にしなくてもいい。

 

ただ、

 

「私は、この出来事を嫌だと感じている」

 

それは大切にしていい。

 

出来事を起こした責任を自分に背負わせることと、自分が感じていることを自分のものとして受け止めることは、まったく別のことです。

 

むしろ私は、この二つを分けることで、自分自身の感覚が以前よりはっきり見えてくるように思います。

 

世界で起きるすべてのことを、自分の内側の状態と結びつけなくてもいい。

 

世界には、自分とは関係なく動いていることがたくさんあります。

 

その中でさまざまな出来事に出会い、

 

私はどう感じるのか。

私はどう受け止めるのか。

私はどうしたいのか。

 

そこに、自分自身の領域がある。

 

「すべての原因は自分」なのではなく、

「起きたことをどう感じているのかを知っているのは自分」。

 

今の私は、そのくらいの距離感で世界と自分を見ていたいと思っています。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



私はこれまで、ずっとどこかでモヤモヤしていたことがありました。

 

それは、

 

「人生に起こる出来事の原因は、すべて自分にある」

 

という考え方です。

 

本やSNS、スピリチュアルな世界などでも、似たような言葉を目にすることがあります。

 

自分の現実は自分がつくっている。

自分の内側が外側の世界に現れる。

起きた出来事には、自分にも原因がある。

 

私はこうした言葉を、自分の人生に起こるさまざまな出来事に当てはめて考えていました。

 

だから、人間関係で傷ついたときにも、

 

「こういう人と出会ったのは、私に何か原因があったからなのかな」

 

「私の振る舞いが悪かったのかな」

 

「相手がこういう態度を取ったのも、私の何かがそうさせたのかな」

 

そんなふうに考えてしまうことがありました。

 

確かに、どの出来事を振り返ってみても、そこには必ず「私」がいます。

 

だから、

 

「すべての出来事に共通しているのは自分なのだから、原因も自分なのではないか」

 

と思ってしまったのです。

 

でも今回、ふと気づきました。

 

人間関係の出来事には、私一人がいるわけではありません。

 

そこには、必ず相手もいる。

 

私には私の考えがあります。

 

私には私の感情があります。

 

そして、私は自分で選択して行動します。

 

でも、それは相手も同じです。

 

相手にも相手の考えがあり、

相手にも相手の感情があり、

相手も自分の意思で何かを選択し、行動しています。

 

そう考えたとき、

 

人と人との間で起きたことを、「すべて自分が原因」と考えることには無理がある

 

ということに気づきました。

 

もちろん、自分自身を振り返ることはできます。

 

「あのとき、私は本当は嫌だったのにNOと言えなかったな」

 

「もう少し早く距離を取ってもよかったな」

 

「相手に合わせすぎていたかもしれない」

 

「自分の気持ちをもっと大切にしてもよかったな」

 

そうやって、自分が選択したことや行動したことを振り返ることはできます。

 

そこは、自分の領域だからです。

 

でも、

 

相手が何を考えたのか。

相手がどんな目的を持っていたのか。

相手がどんな言葉を使ったのか。

相手が私に対してどんな行動を選んだのか。

 

それは相手の領域です。

 

私が境界線をうまく引けなかったことと、相手がどんな行動を選んだのかは、別の話なのです。

 

ここが、私にとってとても大きな気づきでした。






 

「原因」ではなく、「自分が選べること」に責任を持つ


 

さらに考えていくと、「すべて自分が原因」という言葉そのものについても、少し違って見えてきました。

 

自分の人生で起こることだとしても、すべてを自分が引き起こしているわけではありません。

 

天候も、社会も、偶然も、他人の行動も、自分だけでは決められません。

 

だから、

 

「人生で起きることは、すべて自分が原因」

 

なのではなく、

 

「自分が選べることについては、自分で選び、その選択を自分のものとして引き受ける」

 

ということなのだと思います。

 

私は何を大切にしたいのか。

 

私は何を選びたいのか。

 

私はどんな人と関わりたいのか。

 

私は何をしたくて、何をしたくないのか。

 

何かが起こったとき、私はこれからどうしたいのか。

 

これは自分で選ぶことができます。

 

だから、ここには自分の責任があります。

 

「責任」という言葉は、少し厳しく聞こえるかもしれません。

 

でも、この意味での責任は、

 

「悪いことが起きたのだから自分のせい」

 

という意味ではありません。

 

むしろ、

 

「私が選べるところについては、私が選ぶ」

 

ということ。

 

これは自分を責めるための責任ではなく、自分の人生を自分の手に戻すための責任なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の人生の操縦席に座るということ


 

私はこれまで、「自分の人生の操縦席に自分が座る」ということを大切にしてきました。

 

今回、この意味もさらに深くわかった気がします。

 

操縦席に座るというのは、

 

「私の身に起こることは全部、私が引き起こしている」

 

と思うことではありません。

 

他人が何を考えるかは、私には決められません。

 

他人がどんな行動をするかも、私には決められません。

 

予想もしなかった出来事が起こることだってあります。

 

それでも、

 

起きたことを受けて、私はこれからどうするのか。

 

そこには、自分で握ることのできるハンドルがあります。

 

誰かに嫌なことをされたとき、

 

「こんなことをされたのは、私に原因があるからだ」

 

と考えなくてもいい。

 

でも、

 

「私はこの人とこれからも付き合いたいのかな」

 

「嫌だったことを伝えたいのかな」

 

「少し距離を取りたいのかな」

 

「私はこれから、どんな人間関係をつくっていきたいのかな」

 

ということは、自分に問いかけることができます。

 

相手のハンドルまで握ろうとせず、自分のハンドルを自分で握る。

 

それが、自分の人生を生きることなのだと思います。






 

「こういう人と出会ったのも私のせい」と思わなくていい

 

 

私はこれまで、

 

「こういう人が自分の周りにいるということは、自分にも原因があるのかな」

 

「こういうご縁があったのは、自分の行いに何か問題があったからなのかな」

 

と考えてしまうことがありました。

 

でも今は、そこまで自分の責任として引き受けなくてもいいのだと思っています。

 

出会った相手がどんな人なのか。

 

相手が私に対してどんな振る舞いをするのか。

 

それは、私だけが決めていることではありません。

 

ただ、その人と出会ったあと、

 

私はどう感じたのか。

私はどうしたいのか。

その関係を続けるのか。

距離を取るのか。

何を許容し、何を許容しないのか。

 

そこは、私が選ぶことができます。

 

自分の領域は自分が引き受ける。

 

でも、相手の領域まで自分の荷物として背負わない。

 

この境界が、私には必要だったのだと思います。






 

一つの考えを、人生のすべてに当てはめなくてもいい


 

そして今回、もう一つ、とても大きなことに気づきました。

 

それは、

 

本やSNSなどで知った一つの考え方を、人生のあらゆる出来事に当てはめなくてもいい

 

ということです。

 

どんなに素晴らしい言葉でも、

どんなに有名な人が言っていることでも、

どんなに自分が信頼している思想でも、

 

「これは本当に、この場面にも当てはまるのかな?」

 

と、一度自分で考えてみてもいい。

 

ある場面では、とても役に立つ考え方が、

別の場面では、自分を必要以上に責める考え方になってしまうこともあります。

 

「自分の人生は自分で選ぶ」という考え方は、私に自分の人生を生きる力を与えてくれます。

 

でも、それを、

 

「だから、他人からされたことまで全部自分が原因」

 

と広げてしまったら、まったく違うものになってしまいます。

 

大切なのは、言葉をそのまま人生に当てはめることではなく、

 

その言葉が何を意味しているのか。

どこまでなら自分にとって本当なのか。

今の出来事にも、本当に当てはまるのか。

 

自分で感じ、自分で考えてみることなのだと思います。

 

それもまた、自分を知ることなのかもしれません。

 

そして、誰かが出した答えをそのまま自分の人生の正解にするのではなく、自分自身で確かめていく。

 

それこそが、自分の人生の操縦席に座ることなのだと思います。

 

今回、長い間どこかでモヤモヤしていたものが、少しほどけました。

 

すべてを自分のせいにしなくていい。

 

相手の選択は、相手のもの。

 

私の選択は、私のもの。

 

そして私は、

 

自分の責任ではないものまで背負うのではなく、自分が選べることを、自分で選んで生きていけばいい。

 

そのことに気づいたとき、「自己責任」という少し厳しく感じていた言葉が、私には少し違って見えました。

 

責任とは、自分を責めることではない。

 

自分の人生を、自分に返してあげること。

 

そして、誰かの言葉をそのまま正解にするのではなく、自分で考え、自分で感じ、自分で確かめながら生きていく。

 

私はこれからも、そんなふうに自分の人生をつくっていきたいと思います。







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現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



私たちは、何かを得ようとするとき、

 

「もっと知ろう」

「もっと学ぼう」

「もっと情報を集めよう」

 

と考えることがあります。

 

本を読んだり、誰かの話を聞いたり、動画を見たり。

 

もちろん、何かを知ること、学ぶことはとても大切です。

 

知らなかった世界を知ることで、今まで考えたこともなかったことを考えられるようになることもあります。

 

でも最近、私はふと思いました。

 

入れることと、生まれることには、違う時間が必要なのかもしれない。

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

本を見えないところに移したら、言葉が出てきた


 

今住んでいる家に引っ越してきた頃、私は寝室の見えるところにたくさんの本を置いていました。

 

私にとって本は大切なものです。

 

大好きな本だから、いつでも手に取れるようにしておきたい。

 

そんな気持ちで、自分のそばに置いていました。

 

ところが、その頃なぜか、ブログに書きたいことがあまり浮かばなくなりました。

 

何を書こう。

 

何について書こう。

 

考えても、なかなか出てこない。

 

そんな状態が1か月ちょっと続いていたと思います。

 

あるとき、ふと思いました。

 

「本を少し見えにくいところに移してみようかな」

 

そこで、同じ寝室のクローゼットへ本を移してみました。

 

捨てたわけでもありません。

 

別の部屋へ持っていったわけでもありません。

 

ただ、視界から外しただけです。

 

ところが、そのあと不思議と、

 

「これを書きたい」

「あれについても書きたい」

 

と、ブログで取り上げたいことがスラスラと出てくるようになりました。

 

本を見えなくしたことが直接の原因だったのかは分かりません。

 

でも私にとっては、とても印象に残っている体験でした。






 

情報は、多ければ多いほどいいわけではないのかもしれない


 

本があることは悪いことではありません。

 

本から得られるものはたくさんあります。

 

でも、情報というものは、

 

たくさんあれば、それだけ自分の中から何かが生まれやすくなる

 

とは限らないのかもしれません。

 

むしろ、外から入ってくるものが少なくなったときに初めて、自分の中にすでにあったものが見えてくることもある。

 

そんなことを思いました。

 

本を読めば、誰かが考えたことに触れることができます。

 

動画を見れば、誰かが作った世界に触れることができます。

 

SNSを見れば、次々と誰かの言葉や考えが入ってきます。

 

それらは私たちの世界を広げてくれます。

 

でも、それとは別に、

 

誰の言葉も入ってこない時間

 

も必要なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

入れる時間と、生まれる時間


 

何かを知るためには、入れる時間が必要です。

 

でも、自分の中から何かが生まれるためには、

 

何も入れない時間

 

も必要なのかもしれません。

 

入れる。

 

そして、いったん止める。

 

何も入れずに過ごす。

 

すると、それまでに見たもの、聞いたもの、経験したこと、感じたことが、自分の中で混ざり始める。

 

そしてあるとき、

 

「そういえば……」

 

「もしかすると……」

 

「こんなことをやってみたい」

 

というものが、ふっと出てくる。

 

それが、アイデアだったり、

 

ひらめきだったり、

 

想像だったり、

 

自分なりの考えだったりするのかもしれません。

 

そう考えると、

 

空白とは、何もない場所ではなく、何かが生まれるための場所なのかもしれない。

 

と思いました。






 

想像するためには、「まだない」が必要なのかもしれない


 

想像するということも、考えてみれば不思議です。

 

目の前にすべてが完成した状態で存在していたら、想像する必要はありません。

 

まだない。

 

まだ分からない。

 

まだ決まっていない。

 

だからこそ、

 

「こんなものがあったらいいな」

 

「こんなふうになったら面白いな」

 

「私はこうしてみたいな」

 

と、人は想像することができます。

 

何もないところに、心の中で何かを描いてみる。

 

そして、その中からアイデアが生まれる。

 

そう考えると、

 

「何もない」ということは、創造の始まりでもあるのかもしれません。






 

人生にも、空白が必要なのかもしれない


 

そして、このことを考えていたら、

 

これは本や情報だけではなく、人生にも同じことが言えるのではないかと思いました。

 

私たちは、空白ができると不安になることがあります。

 

予定がない。

 

やることがない。

 

次に何をするのか決まっていない。

 

目標がまだない。

 

これからどうなるのか分からない。

 

そんなとき、

 

「何かしなくちゃ」

 

「次を決めなくちゃ」

 

「この時間を無駄にしてはいけない」

 

と、急いで空白を埋めようとすることがあります。

 

でも、もしかすると、

 

その空白をすぐに埋めないからこそ、生まれてくるものもあるのではないでしょうか。

 

何も決めていないから、

 

「私は本当は何をしたいんだろう」

 

という問いが生まれる。

 

予定がないから、

 

「今日は何をしたい?」

 

と自分に聞くことができる。

 

誰かの答えを入れていないから、

 

「私はどう思う?」

 

という自分自身の声が聞こえてくる。

 

空白があるからこそ、自分の内側が動き始めることがあるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

空白は、「欠けている」ということではない


 

何もない状態を見ると、

 

「足りない」

 

と感じることがあります。

 

でも、

 

空白と不足は、同じではないのかもしれません。

 

何もないから、足りないとは限らない。

 

そこにはただ、

 

これから何かが生まれることのできる余地がある。

 

そう考えることもできます。

 

真っ白な紙に何も描かれていないからこそ、何を描くこともできるように。

 

予定のない一日だからこそ、その日の自分が選ぶことができるように。

 

何も決まっていない未来だからこそ、自分で作っていくことができるように。






 

空白の中で、自分から何が生まれるのか


 

最近私は、寝室にあった本を別の部屋へ移しました。

 

今度はさらに、寝室に残っている文字のあるものや時計なども減らしてみようと思っています。

 

できるだけ情報を少なくして、

 

心と体を休める部屋にしてみる。

 

そして、その空白の中で自分がどう感じるのかを、実際に体験してみたいと思っています。

 

何も変わらないかもしれません。

 

もっと落ち着くかもしれません。

 

新しいアイデアが生まれるかもしれません。

 

逆に、やっぱり何かを置きたいと思うかもしれません。

 

それは、やってみなければ分かりません。

 

だからこそ、楽しみです。






 

「何かを入れる」だけが、自分を育てることではない

 

学ぶことは大切です。

 

知ることも大切です。

 

誰かの言葉によって、自分では開けなかった扉が開くこともあります。

 

でも、

 

何かを入れることだけが、自分を育てることではないのかもしれません。

 

何も入れずに、

 

静かにして、

 

空白を作って、

 

その中から自分自身のものが生まれてくるのを待つ。

 

そんな時間も必要なのだと思います。

 

入れる時間と、生まれる時間には、違う時間が必要なのかもしれない。

 

たくさん知ったあとには、何も入れない時間を作ってみる。

 

たくさん考えたあとには、考えることさえ少しやめてみる。

 

そして空いたところから、

 

何が生まれてくるのかを見てみる。

 

空白は、

 

何もない場所ではなく、

 

まだ何にでもなれる場所。

 

もしかすると私たちは、その空白から、

 

新しいアイデアだけではなく、

 

次の自分や、

 

これからの生き方さえも、

 

少しずつ生み出しているのかもしれません。



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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション


「自分を知る」ということについて、私は最近よく考えています。

 

 

自分は何が好きなのか。

何が嫌なのか。

何を大切にしているのか。

どんなふうに生きたいのか。

 

こうしたことを自分に問いかけたり、自分の感情を感じたりすることも、

自分を知るためにはとても大切なことだと思います。

 

でも最近、もう一つ大切なことがあると感じました。

 

それは、

 

実際にやってみること。

 

考えているだけでは分からない自分が、そこにはいるからです。






 

知識だけでは分からない「私の答え」


 

本を読めば、いろいろな知識を得ることができます。

 

誰かの経験を聞けば、「そんな方法もあるんだ」と知ることもできます。

 

そして、自分の頭で考えることもできます。

 

「きっとこうしたほうがいいだろう」

「私はこういうものが好きなんだろう」

「これは私に必要なものだろう」

 

そんなふうに、自分なりの答えを考えることはできます。

 

でも、それが本当に今の自分に合っているのかは、実際にやってみなければ分からないことがあります。

 

知識として知ることと、自分自身が体験して知ることは、やっぱり少し違うんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

寝室から本を移してみた



 

私は最近、寝室に置いていた本を、隣の部屋へ移してみました。

 

寝室には、いつでも読めるようにと、たくさんの本を置いていました。

 

私にとって本は大切なものです。

 

ずっと大切に持っている本もあります。

 

一方で、まだ読んでいない本もたくさんあります。

 

でも、それらを全部まとめて「大切な本」として、自分のすぐそばに置いていました。

 

そして今回、それを隣の部屋へ移しました。

 

別に捨てたわけではありません。

 

ほんの数メートル歩けば、いつでも手に取ることができます。

 

それなのに、移動させることには意外なくらい勇気が必要でした。

 

大切なものが自分のそばからなくなることに、どこか寂しさを感じていたのだと思います。

 

「なんで隣の部屋に移すだけなのに、こんなに抵抗があるんだろう?」

 

自分でも不思議でした。






 

「大切」と「そばに置いておきたい」は同じなのか




 

そこで、ふと思いました。

 

私は、

 

「大切なものは、自分のそばに置いておきたい」

 

という感覚を持っているのかもしれない、と。

 

もちろん、それが良いとか悪いとかいうことではありません。

 

ただ、

 

「ああ、私はこういう感覚を持っているんだな」

 

と気づいたのです。

 

これも一つの「自分を知る」なのだと思います。

 

そして、さらに興味深いのは、

 

大切なものだからといって、

本当にいつも自分のそばに置いておく必要があるのだろうか?

 

ということです。

 

本を隣の部屋へ移したからといって、その本の大切さが失われるわけではありません。

 

大切な本は、隣の部屋にあっても大切な本です。

 

まだ読んでいない本については、これから読んでみて、本当にずっと持っていたい本なのかが分かるかもしれません。

 

だから今は、答えを決めなくてもいい。

 

一度、自分のそばから少し離してみる。

 

そして、その状態で暮らしてみる。

 

これは私にとって、一つの実験になりました。







 

以前は、逆の実験をしたこともある




 

そういえば以前、断捨離をしていたときにも、少し変わったことを試したことがあります。

 

断捨離では、捨てるかどうか迷うものを「保留ボックス」に入れて、しばらく見えないところに置いておく方法があります。

 

たとえば3か月間使わなかったら、

 

「今の自分には必要ないのかもしれない」

 

と判断する方法です。

 

でも私は一度、それとは逆のことをしてみました。

 

保留にしたものを、あえて自分の部屋の見えるところに集めて置いたのです。

 

当然、情報量は増えます。

 

視界に入るので、気にもなります。

 

でも、だからこそ、そのものと向き合わざるを得なくなりました。

 

「私は本当にこれを持っていたいのかな?」

 

「どうして手放せないんだろう?」

 

「今の私に必要なのかな?」

 

一つ一つのものについて、自分の気持ちを見ることになりました。

 

そして結果的には、そのとき保留にしていたものは、ほとんど、あるいは全部手放したと思います。

 

私にとっては、この方法もとても良い実験でした。






 

見えるところに置く実験と、見えないところへ移す実験



 

今振り返ると、この二つは正反対の実験だったのだと思います。

 

以前は、

 

迷っているものを、あえて自分の目の前に置いてみる。

 

今回は、

 

大切だと思っているものを、あえて自分のそばから少し離してみる。

 

どちらにも共通しているのは、

 

環境を実際に変えてみて、そのとき自分がどう感じるのかを見ること。

 

なんですよね。

 

頭の中だけで、

 

「これは必要」

「これは大切」

「これは手放せない」

 

と考えているだけでは気づかなかった自分が、実際にものを動かしてみることで見えてきます。

 

 

 

 

 

 

 

時計もなくしてみようと思う




 

今度は、寝室に残っている本や文字のあるもの、時計なども、少しずつ隣の部屋へ移してみようと思っています。

 

できるだけ文字から離れて、情報を減らして、

 

心と体を休めるための部屋

 

にしてみたいからです。

 

ふと思いついたことを書けるように、メモだけは置いておこうと思っています。

 

そして時計については、以前にも自分の部屋からなくして生活したことがあります。

 

そのとき私は、時計のない生活をとても心地よく感じました。

 

もちろん、大切な予定がある日はスマートフォンのアラームを使えばいい。

 

だから今回も、また時計を外してみようかなと思っています。

 

これも、やってみなければ今の自分に合うかどうかは分かりません。






 

 

正解を決めるのではなく、試してみる




 

ここで大切なのは、

 

「寝室には本を置かないほうがいい」

「時計はないほうがいい」

 

という正解を作ることではないと思っています。

 

人によっては、枕元に大好きな本があることで安心して眠れるかもしれません。

 

時計があるほうが安心する人もいるでしょう。

 

だから、大切なのは一般的な正解ではなく、

 

「私はどうなんだろう?」

 

ということ。

 

そして、その答えを知るために、

 

実際にやってみる。

 

もし違ったら、戻せばいい。

 

本を隣の部屋へ移してみて、やっぱり一冊だけそばに置きたいと思ったら戻せばいい。

 

時計がない生活をしてみて、不便だと思ったら戻せばいい。

 

一度決めたことを、一生続けなければいけないわけではありません。

 

そう考えると、いろいろなことをもっと気軽に試せるような気がします。






 

自分を知ることは、自分を「生きてみる」こと



 

私はこれまで、「自分を知る」ということについてたくさん考えてきました。

 

自分の感情を見ること。

なぜそう感じるのかを知ること。

自分が何を大切にしているのかを知ること。

自分の内側に問いかけること。

 

どれも大切です。

 

でも今回、改めて思いました。

 

自分を知るには、自分を実際に生きてみることも必要なんだ。

 

頭の中で考えているだけでは、まだ分からない。

 

本で知識を得るだけでも、まだ分からない。

 

「こうかもしれない」と思ったら、少しやってみる。

 

環境を変えてみる。

 

いつもと違う選択をしてみる。

 

そして、そのときの自分の心や体の反応を感じてみる。

 

そうすると、自分から返事が返ってくることがあります。

 

「これは心地いい」

 

「これは違うみたい」

 

「なくても大丈夫だった」

 

「やっぱりこれは大切だった」

 

その一つ一つが、自分についての新しい発見になっていく。






 

自分の人生を、自分自身で実験してみる



 

今回、本を寝室から隣の部屋へ移したあと、私は少し気持ちに余裕ができたように感じました。

 

そしてその日は、久しぶりにスパイスカレーを作りました。

 

最近はなかなか料理をする気持ちになれなかったのに、その日はすっと作ることができて、しかも苦ではありませんでした。

 

もちろん、本を移動したことが直接の原因なのかは分かりません。

 

でも、

 

「環境を少し変えてみたら、私はこう感じた」

 

という事実は、自分の中に残ります。

 

これから寝室の情報をさらに減らしていったら、自分はどう感じるのか。

 

本を自分のそばから少し離した生活を続けてみたら、寂しさはどう変化するのか。

 

それとも、やっぱり大切な本をそばに置きたいと思うのか。

 

今はまだ分かりません。

 

だからこそ、楽しみです。

 

これは、誰かから答えを教えてもらうための実験ではありません。

 

自分自身を知るための実験です。

 

考えて、分からなければ、やってみる。

 

やってみて、自分がどう感じるのかを見る。

 

違ったら、また変えてみる。

 

そんなふうにして、自分についての答えを、自分自身の体験から少しずつ見つけていく。

 

自分を知るということは、

 

自分についてたくさん考えることだけではなく、

 

自分の人生を実際に生きながら、自分自身を発見していくことなのかもしれません。






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