まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。


人生の主役は自分。技術は「プラスアルファ」でいい



 

ヒーリング、気功、セラピー、願望実現のメソッド。

 

私は、こうした技術を否定したいわけではありません。

 

むしろ、人生をより豊かにしたり、自分では気づかなかったものに気づいたり、希望へ向かって進む助けになったりする素晴らしい技術もあると思っています。

 

だからこそ私は、技術との付き合い方を大切にしたいと思っています。

 

最近の私の感覚を一言で表すなら、

 

技術は「プラスアルファ」でいい。

 

ということです。





 

土台にあるのは、自分



 

私の中では、こんな順番があります。

 

自分を知る。

 

自分とつながる。

 

自分と仲良くなる。

 

自分を信頼する。

 

その中から、自分が本当に望んでいることを知る。

 

そして、自分で選んでいく。

 

ここまでが土台です。

 

そのうえで、

 

「これを使ってみたい」

 

と思ったら、ヒーリングでも、気功でも、セラピーでも、さまざまな技術を使ってみればいい。

 

私はそれくらいの関係が好きです。

 

自分が土台。

技術はプラスアルファ。

 

だから、ある方法が合わなくても大丈夫です。

 

やってみて違うと思ったら、やめてもいい。

 

途中で別の方法に変えてもいい。

 

何も使わないという選択をしてもいい。

 

技術よりも自分の感覚を上に置いているから、自由に選べます。






 

「絶対に叶う」よりも大切にしたいもの



 

私は、すべての願いが必ず思い通りになる人生を目指したいわけではありません。

 

もちろん、希望することが叶ったら嬉しいです。

 

思い描いていた方向へ人生が進んだら嬉しい。

 

でも、それ以上に大切にしたいのは、

 

結果によって自分との関係が壊れないこと。

 

です。

 

願いが叶った私も好き。

 

願いがまだ叶っていない私も大切にする。

 

うまくできた私を信じる。

 

うまくできなかった私とも一緒にいる。

 

そして、

 

「じゃあ、これから私はどうしたい?」

 

と、また自分に聞いてみる。

 

私は、そんな自分との関係を育てていきたいと思っています。






 

安心から希望へ



 

自分を信頼できる。

 

自分の気持ちを聞ける。

 

必要なら選び直せる。

 

私は私を見捨てない。

 

そんな内側の安心が育ってくると、その安心の上から未来を見ることができます。

 

「失敗したらどうしよう」だけではなく、

 

「私は何を経験してみたいんだろう?」

 

と考えられる。

 

「正解はどれだろう」だけではなく、

 

「私はどちらを選びたいんだろう?」

 

と自分に聞ける。

 

そうすると、希望は「これが叶わなければ私は幸せになれない」という条件ではなくなります。

 

私は今ここにいて、ここからこんな世界へ行ってみたい。

 

そんな、自分から未来へ伸びていくものになっていきます。

 

そこに必要なら、技術を少し足せばいい。

 

ヒーリングを使ってもいい。

 

気功を使ってもいい。

 

セラピーを使ってもいい。

 

魔術という世界に惹かれるなら、それを探究してみてもいい。

 

でも、人生の主役の席は渡さない。

 

そこには、いつでも自分がいる。






 

自分を信じる力を土台にして、生きる



 

私がこれから大切にしていきたいのは、

 

自分を知り、自分とつながり、自分を信じる力を育てること。

 

そして、その安心の上から、自分の希望する人生へ進んでいくことです。

 

願いを叶えるためだけに自分を変えるのではなく、

 

自分との関係そのものを育てながら人生を生きる。

 

その途中で、さまざまな技術の力も借りる。

 

でも最後には、また自分に戻ってくる。

 

私の人生を生きるのは、私だから。

 

そして私は、この「自分とのつながり」こそが、
どんな技術を使うときにも、その下にある大切な土台なのだと思っています。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



願いが叶ったから安心、ではなく「私は私を信じられるから安心」

 

 

 

「願いを叶えたい」

 

そう思うことは、とても自然なことだと思います。

 

好きな仕事をしたい。

 

豊かに暮らしたい。

 

大切な人と幸せな関係を築きたい。

 

健康でいたい。

 

安心できる場所で暮らしたい。

 

人によって願いは違っていても、

「こうなったらいいな」という希望を私たちは持っています。

 

私自身も、希望する人生を生きたいと思っています。

 

でも最近、願いが叶うことよりも、もっと大切なものがあるのではないかと思うようになりました。

 

それは、

 

願いが叶っているかどうかにかかわらず、

自分自身を信頼し、安心していられること。

 

です。

 

 

 

 

 

「願いが叶えば安心できる」という順番



 

私たちはつい、

 

これが手に入ったら安心できる。

 

この問題が解決したら安心できる。

 

願いが叶ったら幸せになれる。

 

そんなふうに考えることがあります。

 

もちろん、実際に問題が解決したことで安心することもあります。

 

欲しかったものが手に入って嬉しいこともあります。

 

それ自体は自然なことです。

 

でも、自分の安心をすべて「外側の結果」に預けてしまうと、人生はとても不安定になります。

 

なぜなら、自分では完全にコントロールできないことも、この世界にはたくさんあるからです。

 

だったら、

 

願いが叶ったから安心する

 

だけではなく、

 

願いがまだ叶っていなくても、自分を信頼できるから安心していられる

 

という土台を育てることも、大切なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

「私は私を見捨てない」という安心



 

私が考える自己信頼は、

 

「私は何でもできる」

 

「私は絶対に失敗しない」

 

と思い込むことではありません。

 

うまくいかないことがあってもいい。

 

間違えることがあってもいい。

 

途中で考えが変わってもいい。

 

一度決めたことを、選び直してもいい。

 

それでも、

 

私はそのときの自分の気持ちを聞き、考え、また自分で選んでいける。

 

そう思えること。

 

そして、

 

何が起こっても、私は私を置き去りにしない。

 

そんな感覚が、自分への信頼につながっていくのではないかと思います。

 

これは、「世界では嫌なことが何も起こらない」という安心とは違います。

 

未来を完全にコントロールできるから安心なのでもありません。

 

何が起こるかわからない世界の中でも、

 

私は私と一緒にいられる。

 

そのことから生まれる安心です。

 

 

 

 

 

 

幸せを未来だけに置かない



 

もし、

 

「この願いが叶ったら幸せになれる」

 

と考えていたら、願いが叶うまでの時間は「まだ幸せではない時間」になってしまいます。

 

でも人生は、願いが叶った瞬間だけではありません。

 

そこへ向かっている今日も人生です。

 

迷っている今日も。

 

考えている今日も。

 

休んでいる今日も。

 

何かに気づいた今日も。

 

全部、自分の人生です。

 

だからこそ私は、未来の願いを持ちながらも、

 

今の自分とも仲良く生きていたい。

 

と思っています。

 

願いが叶ったら幸せになるのではなく、

今の自分とのつながりを育てながら、その安心の上に希望を乗せていく。

 

そんな生き方なら、
願いが叶うまでの道のりそのものも、
大切な人生になっていくのではないでしょうか。






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どんなに素晴らしい技術よりも、まず大切にしたいこと




 

世の中には、願いを叶えるためのさまざまな方法があります。

 

 

ヒーリング、セラピー、気功、願望実現のメソッド。

そして昔から存在する魔術や呪術なども、

「何かを変えたい」「願いを実現したい」という人間の思いから生まれてきたものの一つなのかもしれません。

 

私自身も、これまでさまざまな技術や考え方に触れてきました。

 

そして最近、改めて思うことがあります。

 

それは、

 

どんなに素晴らしい技術があったとしても、

一番大切なのは、自分自身の内側なのではないか。

 

ということです。

 

もちろん、私は技術が必要ないとは思っていません。

 

ヒーリングにも、気功にも、セラピーにも、それぞれの良さがあります。

 

自分だけでは気づけなかったことに気づくきっかけになったり、今までとは違う視点を持てたり、一歩踏み出す助けになったりすることもあります。

 

だから、技術そのものを否定したいわけではありません。

 

ただ、私はそれよりも前に、

 

その技術を使う「自分」は、今どんな状態なのだろう?

 

ということを大切にしたいのです。






 

「この方法なら幸せになれる」に安心を預けない


 

新しい方法を知ったとき、

 

「これなら人生が変わるかもしれない」

 

と希望を感じることがあります。

 

その希望によって、今までできなかったことに挑戦できたり、物事を見る目が変わったりすることもあるでしょう。

 

でも、

 

「この方法さえあれば大丈夫」

 

「これを続けていれば願いが叶う」

 

「この先生についていけば幸せになれる」

 

というところに、自分の安心まで預けてしまったらどうでしょう。

 

その方法で思うような結果が出なかったとき、自分の安心まで一緒に揺らいでしまいます。

 

すると、

 

「もっと効果のある方法はないだろうか」

 

「もっとすごい先生はいないだろうか」

 

「もっと強力な技術が必要なのではないか」

 

と、答えを外へ外へと探し続けることにもなります。

 

でも本当に育てたかったものは、そこではないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

技術より先に、自分とのつながりを育てる



 

私が大切にしたいのは、

 

自分が何を感じているのかを知ること。

 

自分が本当は何を望んでいるのかを知ること。

 

なぜ私はこれを選びたいのかを知ること。

 

そして、自分で考え、自分で選んだ自分自身を信頼していくことです。

 

つまり、

 

自分を知り、自分とつながり、自分を信じる力を育てること。

 

私はここが、人生の土台になるのではないかと思っています。

 

その土台があったうえで、必要ならヒーリングを使う。

 

気功を使う。

 

セラピーを受ける。

 

何かのメソッドを試してみる。

 

それでいいのだと思います。

 

技術を人生の主役にするのではなく、

 

自分が人生の主役であり、技術は自分を助けてくれるもの。

 

私は、そんな関係でありたいと思っています。

 

 

 

 

 

主役は、いつでも自分


 

どんなに素晴らしい方法を知っていても、人生を生きるのは自分です。

 

何を望むのか。

 

何を選ぶのか。

 

何をやめるのか。

 

そして、うまくいかなかったときに、そこから何を感じ、次に何を選ぶのか。

 

それを決めていくのも自分です。

 

だから私は、技術を学ぶこと以上に、

 

自分とのつながりを育てることを大切にしたい。

 

技術に自分の人生を預けるのではなく、

自分の人生のハンドルを自分で持ったまま、必要なときには技術の力も借りる。

 

そんな生き方が、私の考える「自分らしい人生」につながっていくのだと思います。






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「嫌いじゃないから残す」から、「私はこれを選ぶ」へ。

断捨離で気づいた人生の選び方

 

 

 

最近、少しずつ断捨離をしています。

 

ただ物を減らしたいというよりも、

 

「未来の私は、どんなものを身の回りに置いているだろう?」

 

そんなことを考えながら、今の自分の身の回りにあるものを、一つひとつ見直しています。

 

そんな中で、ふと気づいたことがありました。

 

それは、

 

好きでもない。

でも、嫌いでもない。

 

そんなものが、意外と身の回りに残っているということです。

 

嫌いなものなら、「もういらない」と比較的簡単に気づけます。

 

壊れていたり、明らかに使わなくなったものも、手放す判断がしやすい。

 

でも、

 

「別に嫌いじゃない」

「まだ使おうと思えば使える」

「特に困っているわけでもない」

 

そんなものは、なかなか気づきません。

 

ずっとそこにあるうちに、いつの間にか日常の風景になってしまうからです。

 

 

 

 

 

 

「残っている」と「残す」は違う



 

もちろん、好きでも嫌いでもないものを持っていてはいけないわけではありません。

 

それを残すのも、一つの選択です。

 

でも今回、私が気になったのは、

 

「私はこれを残したいから残している」のか、

「捨てる理由がないから、なんとなく残っている」のか。

 

という違いでした。

 

外から見れば、どちらも同じように「その物を持っている」状態です。

 

でも、自分の中ではまったく違います。

 

「私はこれを残す」と決めたのであれば、そこには自分の意思があります。

 

一方で、

 

「嫌いじゃないから」

「まだ使えるから」

「なんとなく」

 

という理由だけで置き続けているものは、自分で選んだというより、選択しないまま時間だけが過ぎていることもあります。

 

そして私は、

 

これって、物だけではなく人生にもあるのではないだろうか?

 

と思いました。

 

 

 

 

 

 

人生にも「なんとなく残っているもの」がある



 

仕事、人間関係、習慣、暮らし方。

 

私たちの人生には、

 

「ものすごく嫌なわけではない」

「今すぐ変えなくても困らない」

「このままでも一応やっていける」

 

というものが、たくさんあると思います。

 

だから、そのままでも生きていくことはできます。

 

でも、

 

「このままでもいい」と、

「私はこれを選んでいる」は、同じではない。

 

嫌ではないから続けているのか。

 

それとも、

 

「今の私は、これを続けたい」

 

と自分で選んでいるのか。

 

その違いは、とても小さなものに見えて、実は大きいのではないかと思います。

 

自分で「こうしよう」と決めなければ、物事はそのまま動かないことがあります。

 

それが悪いという意味ではありません。

 

ただ、何も選ばなければ、それまでの流れがそのまま続いていくことも多い。

 

だからこそ人生では、大きな決断だけではなく、

 

小さなことから「私はどうしたい?」と自分に問い、自分で決めていくことが大切なのではないか。

 

断捨離をしながら、そんなことを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

白か黒だけが「決める」ではない



 

そして、もう一つ気づいたことがあります。

 

「自分で決める」というと、

 

YESかNOか。

やるか、やらないか。

残すか、捨てるか。

 

そんなふうに、白か黒かを決めなければいけないようにも感じます。

 

でも、そうではないんですよね。

 

グレーを選んでもいい。

 

「今はまだ分からない」

 

「もう少し使ってから考えたい」

 

「今すぐ答えを出したくない」

 

そう思うのであれば、

 

「今は保留にする」と自分で決めればいい。

 

それも立派な選択です。

 

答えが出ないことと、何も考えずに放置することは違います。

 

「今は答えが出ない。だから、今は決めないことにする」

 

そこに自分の意思があるのなら、それも自分で選んだ人生の一部なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

大切なのは、自分の人生に自分が参加すること




 

そう考えていくと、人生を自分で選ぶというのは、すべてのことに明確な答えを出し続けることではないのだと思います。

 

大切なのは、

 

自分の人生を無意識のまま放置しないこと。

 

「私はこれが好きだから選ぶ」

 

「これはもう必要ないから手放す」

 

「これはまだ分からないから、今は保留にする」

 

どの答えでもいい。

 

そのときの自分が感じ、考え、自分なりに決める。

 

それを繰り返していくことが、自分の人生を生きるということなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

未来の自分なら、これを選ぶだろうか?



 

今回、私は断捨離をしながら、

 

「未来の自分なら、これを持っているだろうか?」

 

という視点で物を見るようになりました。

 

もちろん、未来がどうなるかなんて分かりません。

 

だから未来を当てようとしているわけではありません。

 

むしろこれは、

 

「私はこれから、どんな自分として生きていきたいのだろう?」

 

と、今の自分に問いかけているのだと思います。

 

未来を想像することで、今の自分の望みが見えてくる。

 

そして、その未来につながるものを、今日一つ選んでみる。

 

断捨離という、とても日常的な行動の中にも、そんな人生の選択があるのだと気づきました。

 

「嫌いじゃないから残す」から、

「私はこれを選ぶから残す」へ。

 

そして、

 

「分からないから放置する」から、

「今はグレーにすると決める」へ。

 

人生は、大きな決断だけでつくられているわけではないのだと思います。

 

今日何を残すのか。

何を手放すのか。

何を保留にするのか。

 

そんな小さな選択の一つひとつにも、自分の意思を戻していく。

 

そうして少しずつ、

 

「なんとなく続いている人生」から、

「私が選んでいる人生」へ。

 

断捨離をしながら、私はそんなことを改めて感じました。







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バウンダリーは、相手を遠ざけるための壁ではない




 

「バウンダリー」「境界線」という言葉を初めて聞いたとき、私は少し冷たいもののように感じていました。

 

ここから先は、私の領域。

 

ここからは入ってこないでね。

 

そんなふうに、人との間に線を引いて、相手を遠ざけるもののように感じていたのです。

 

もしかすると、同じような印象を持つ人もいるのではないでしょうか。

 

でも、自分自身のバウンダリーについて考え、少しずつ育てていく中で、今はまったく違うものに感じています。

 

バウンダリーとは、

 

相手を拒絶するための線ではなく、自分と相手の両方を尊重するためのもの。

 

私は今、そんなふうに感じています。






 

「私はこう感じる。だからあなたも同じ」は、本当に尊重なのだろうか

 

 

 

例えば、私はある出来事に悲しさを感じたとします。

 

すると以前の私は、

 

「こんなことをされたら、誰だって悲しいよね」

 

と思ってしまうことがありました。

 

自分が悲しいのだから、相手も同じことをされたら悲しいはず。

 

自分が嬉しいのだから、相手も嬉しいはず。

 

自分ならこうするのだから、相手も同じようにするはず。

 

一見すると、これは相手の気持ちを考えているようにも見えます。

 

でも今は、少し違うように感じています。

 

私は悲しい。

 

それは私の感情です。

 

でも、同じ出来事について相手がどう感じるのかは、相手にしか分かりません。

 

もしかすると悲しいかもしれない。

 

何とも思わないかもしれない。

 

あるいは、私には想像できなかった感じ方をするかもしれない。

 

「私はこう感じる。でも、あなたがどう感じるかは、あなたのもの。」

 

そう考えられることも、相手への尊重なのだと思います。







 

自分と相手を分けるからこそ、相手を一人の人間として見られる




 

バウンダリーというと、「自分を守る」という側面がよく語られます。

 

もちろん、それも大切です。

 

でも、バウンダリーにはもう一つ、とても大切な役割があるのだと思います。

 

それは、

 

相手を自分とは違う、一人の人間として尊重すること。

 

「私ならこうするのに、どうしてあなたはしてくれないの?」

 

そんな怒りの奥には、ときとして、

 

「あなたも私と同じ価値観のはず」

 

という前提が隠れていることがあります。

 

でも、本当は違うのかもしれません。

 

私はこれを大切にする。

 

でも、相手は別のものを大切にしている。

 

私はこの言葉を悲しいと感じる。

 

でも、相手は同じ言葉をそれほど重く受け取らない。

 

私と相手は、同じ世界を生きているように見えて、それぞれ違う経験をし、違う価値観を持ち、違う感じ方をしています。

 

だから、

 

私は私。あなたはあなた。

 

これは、冷たい言葉ではないのだと思います。

 

むしろ、

 

「あなたには、私には分からないあなたの世界があるんだね」

 

と認めること。

 

それは、とても深い尊重なのではないでしょうか。

 

相手を理解することと、受け入れることは違う

 

ここで、私がとても大切だと感じていることがあります。







 

相手を理解することと、その人の行動をすべて受け入れることは違います。

 

 

 

 

「この人には、この人なりの事情があったのかもしれない」

 

と思うことはできます。

 

でも同時に、

 

「それでも私は悲しかった」

 

と言っていい。

 

相手に悪気がなかったとしても、

 

「私はその関わり方は望みません」

 

と伝えてもいい。

 

相手の考えを尊重しながら、

 

「でも私は、その考えには賛同しません」

 

と距離を取ることもできます。

 

以前の私は、相手を理解すると、自分が我慢しなければならないように感じることがありました。

 

相手にも事情がある。

 

悪気があったわけではない。

 

だから私が受け入れればいい。

 

でも、それでは自分の気持ちが置き去りになってしまいます。

 

本当の意味で相手を尊重することは、自分を犠牲にすることではありません。

 

あなたの気持ちも大切。

そして、私の気持ちも大切。

 

その二つを同時に存在させるために、バウンダリーがあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

バウンダリーは「壁」ではなく「橋」




 

私は以前、バウンダリーとは壁のようなものだと思っていました。

 

でも今は、むしろ「橋」に近いものなのではないかと感じています。

 

境界線がない状態では、自分と相手が混ざってしまいます。

 

「私がこう思うのだから、あなたもそう思うはず」

 

「あなたが悲しんでいるから、私も何とかしなければ」

 

「あなたが望んでいるから、私は嫌だけれど応えなければ」

 

そんなふうに、どこまでが自分で、どこからが相手なのかが分からなくなってしまうことがあります。

 

でも、まず、

 

こちら側に私がいる。

向こう側にあなたがいる。

 

ということが分かっていれば、その間に橋を架けることができます。

 

「私はこう感じています。あなたはどうですか?」

 

「私はこうしたいです。あなたはどうしたいですか?」

 

「ここまではできます。でも、ここから先はできません。」

 

そうやって、お互いの世界を尊重しながら関わることができる。

 

境界があるから、つながることができる。

 

これは、一見すると不思議なことかもしれません。

 

でも、境界のない「一体化」と、お互いを尊重した「つながり」は、まったく違うものなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「誰が悪いか」から、「私はどうしたいか」へ



 

バウンダリーが育ってくると、何か問題が起きたときの感じ方も、少しずつ変わってくるように感じています。

 

もちろん、腹が立つこともあります。

 

「あの人が悪い」と思うことだってあります。

 

それも人間として自然な反応なのだと思います。

 

でも、その先で、

 

「私は何に傷ついたんだろう?」

 

「私は本当は、どうしてほしかったんだろう?」

 

「私は何を大切にしていたんだろう?」

 

「そして、これから私はどうしたいんだろう?」

 

と、自分自身へ意識を戻せるようになっていく。

 

すると、相手を責め続けることだけが、自分を守る方法ではなくなっていきます。

 

相手を悪者にしなくても、

 

「私は嫌だった」

 

と言える。

 

相手を変えなくても、

 

「私はここから離れます」

 

と選べる。

 

相手の価値観を否定しなくても、

 

「私は違うものを選びます」

 

と言える。

 

そこに、自分自身への信頼も育っていくのだと思います。







 

私は私。あなたはあなた。それでも、つながることはできる

 

バウンダリーは、人とのつながりを切るためのものではありません。

 

むしろ、

 

自分を失わずに、人とつながるためのもの。

 

なのだと思います。

 

私は私の気持ちを大切にする。

 

あなたには、あなたの気持ちがあることを認める。

 

私は私の人生を選ぶ。

 

あなたには、あなたの人生を選ぶ自由がある。

 

その上で、一緒にいられるところでは一緒にいる。

 

違うところでは、お互いの違いを認める。

 

そして、どうしても一緒にいることが苦しいのであれば、距離を取ることもできる。

 

それは冷たさではなく、お互いを一人の人間として扱うことなのだと思います。

 

だから今の私は、バウンダリーという言葉に、以前ほど冷たいものを感じません。

 

むしろ、とても優しいものに感じています。

 

自分を大切にするために、相手を悪者にしなくていい。


相手を大切にするために、自分を犠牲にしなくていい。

 

私は私。

 

あなたはあなた。

 

そして、その二人が必要なときに橋を架けて出会う。

 

それが、人と人が本当の意味で尊重し合いながらつながるということなのかもしれません。

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「好きだから我慢する」から卒業する——自分とのつながりとバウンダリーを育てる

 

 

 

 

好きなものなのに、関わっていると苦しくなる。

 

好きな人なのに、一緒にいると傷つく。

 

好きな場所なのに、そこにはどうしても不快に感じるものがある。

 

学びたいことがあるのに、その環境には自分には合わない価値観がある。

 

こういうことは、意外と人には話しにくいものなのかもしれません。

 

「好きなら続ければいいじゃない」

 

「嫌ならやめればいいじゃない」

 

外から見れば、その二択で簡単に答えが出るように見えるからです。

 

でも、自分の中ではそんなに単純ではありません。

 

好きだから離れたくない。

 

でも、嫌だと感じている自分もいる。

 

その二つの気持ちの間で、密かに迷い続けることがあります。

 

 

 

 

 

 

「好き」を優先していた頃


 

私自身、以前は「好き」という気持ちをとても大切にしていました。

 

もちろん、好きなものを大切にすること自体は素敵なことです。

 

でも私の場合は、そこに一つの癖がありました。

 

好きなものを得るためなら、同時に存在する「嫌だ」「苦しい」「不快」という感覚を我慢してしまうことがあったのです。

 

「でも、ここは好きだから」

 

「良いところもあるから」

 

「これくらい我慢すればいい」

 

そうやって、「嫌だ」と感じている自分の声よりも、「好き」を優先していました。

 

そのときの私は、好きなものを大切にしているつもりでした。

 

でも今振り返ってみると、好きなものを守るために、嫌だと感じている自分を置き去りにしていたところもあったのだと思います。

 

次の段階で起きたこと

 

その後、少しずつ自分とのつながりやバウンダリーについて考えるようになりました。

 

すると、以前とは違う選択をするようになりました。

 

「確かにここは好き。でも、同時に私は嫌だとも感じている」

 

その「嫌だ」を、なかったことにしなくなったのです。

 

好きか、嫌いか。

 

どちらか一つに決めなくてもいい。

 

好きな部分があることも本当。

 

不快に感じていることも本当。

 

その両方が同時に存在してもいいのです。

 

そして今の私は、好きなものがそこにあったとしても、同時にある不快感が自分にとって大きいのであれば、

 

「今の私には、ここから離れることが必要なんだ」

 

と考えるようになりました。

 

これは、好きなものを否定することではありません。

 

まして、相手を悪者にすることでもありません。

 

好きだったこと、素晴らしいと思ったこと、そこから受け取ったもの。

 

それらはそのままでいい。

 

ただ同時に、

 

「私はここに居続けると苦しい」

 

という自分の感覚も、大切にする。

 

それだけなのです。





 

「嫌だ」は、自分を知るためのセンサー



 

以前の私は、「嫌だ」と思っても受け入れることがありました。

 

でも、何でも受け入れ続けていると、自分の感覚は少しずつぼやけていきます。

 

私は何が好きなのか。

 

何が嫌なのか。

 

何を選びたいのか。

 

本当はどうしたいのか。

 

それさえ分からなくなっていくことがあります。

 

だから今は、「嫌だ」「なんとなく違う」「ここにいると苦しい」という感覚も、自分を知るための大切な情報なのだと思っています。

 

もちろん、違和感を感じたものすべてが悪いわけではありません。

 

「嫌だ」という感覚が、いつでも絶対的に正しい答えを教えてくれるわけでもありません。

 

でも、

 

「私は今、何かに反応している」

 

ということを知らせてくれるセンサーにはなります。

 

そこで一度、自分に聞いてみる。

 

「私は何が嫌だったんだろう?」

 

「何に違和感を感じたんだろう?」

 

「ここに居続けることで、私は自分らしくいられるだろうか?」

 

そうやって、自分の感覚を無視せずに聞いてあげる。

 

それも、自分とのつながりを育てることなのだと思います。






 

バウンダリーにも、育っていく段階がある



 

私は、バウンダリーにもいくつかの段階があるのではないかと思っています。

 

最初は、嫌なことがあっても受け入れてしまう。

 

次に、「私は嫌なんだ」と気づけるようになる。

 

そして、「嫌だと感じている自分を大切にしよう」と、そこから距離を取れるようになる。

 

さらに自分のバウンダリーが育っていけば、いつかは、

 

「ここは好き。でも、これは私は受け取らない」

 

と、同じ場所にいながら自分と他者を分けられるようになることもあるのかもしれません。

 

でも、今の私には、それが正解なのかは分かりません。

 

だからこそ、今できることを大切にしたいと思っています。

 

今の私に必要なのは、何でも受け入れられる自分になることではなく、

 

自分の輪郭をもう一度育てること。

 

「私はこれが好き」

 

「これは嫌だ」

 

「これは心地いい」

 

「これは私には合わない」

 

そんな一つひとつの感覚を、ちゃんと自分のものとして感じられるようになることです。

 

 

 

 

 

 

 

離れることは、弱さではない



 

嫌なものから距離を取ろうとすると、

 

「私が弱いからかな」

 

「もっと気にしない人になったほうがいいのかな」

 

と思うこともあるかもしれません。

 

でも私は今、そうは考えていません。

 

自分の感覚がまだ十分に育っていないと感じる時期だからこそ、何を自分の中に入れるのかを丁寧に選ぶ。

 

それは逃げることではなく、

 

自分自身を育て直すための選択

 

なのだと思っています。

 

そして、距離を取るために、相手を悪者にする必要もありません。

 

「あなたが間違っているから離れます」

 

ではなく、

 

「あなたにはあなたの考え方がある。でも、今の私には合わないから、私は離れます」

 

それでいい。

 

相手を尊重しながら、自分も尊重する。

 

それがバウンダリーなのだと思います。







 

好きなものより、自分を置き去りにしない

 

 

 

好きなものを大切にすることは素敵です。

 

でも、その好きなものを手に入れるために、自分自身を置き去りにしなくてもいい。

 

私は今、

 

「好きだから我慢する」から、「好きだけれど、自分も大切にする」へ

 

少しずつ生き方を変えている途中なのだと思います。

 

そしていつか、自分のバウンダリーがもっと育ったときには、今とはまた違う選択ができるようになっているかもしれません。

 

それは、そのときの自分に任せればいい。

 

今はまず、

 

「私はどう感じている?」

 

「私は本当はどうしたい?」

 

と自分に聞くこと。

 

そして、その答えをなかったことにしないこと。

 

自分との信頼関係は、そんな小さな選択の積み重ねから育っていくのだと思います。

 

好きなものを選ぶことと同じくらい、

 

嫌だと感じている自分を置き去りにしないこと。

 

それもまた、自分と仲良くなっていくための、大切な一歩なのだと感じています。







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



「人に関心がない」と思っていた私が、

本当の「関心」について考えてみた。

 

 

 

 

前回の記事で、

「気になることを、とことん調べたくなるようになった」という変化について書いた。

 

 

 

その記事を書いたあと、

さらに自分の中で面白い気づきがあった。

 

 

 

私はこれまで、自分のことを

「人にあまり関心がない人間なんだ」と思っていた。

 

 

誰かの噂話や芸能ニュースに興味があるわけでもない。

 

「あの人がこうだったらしい。」

「この人がああ言っていたらしい。」

 

 

 

そういう話には、

昔からそれほど興味がなかった。

 

 

 

だから私は、

「人に関心が薄い人なんだ」と思っていた。

 

 

 

 

 

でも、本当にそうなのだろうか。

 

 

そんな問いが、自分の中に生まれた。

 

 

 

 

 

今回、龍や魔女、言葉の歴史について考えているとき、

私はあることに気づいた。

 

 

 

私が知りたいのは、

「誰が有名だったか」ではない。

 

 

 

 

「なぜ龍という存在が生まれたのだろう。」

 

「どんな世界観があったのだろう。」

 

「どんな時代背景があったのだろう。」

 

そんなことだった。

 

 

 

 

つまり、私が関心を持っていたのは、

一人の人物というよりも、その背景にある物語だった。

 

 

 

 

 

ここで、「関心」という言葉について改めて考えてみた。

 

 

 

関心にも、いろいろな種類がある。

 

 

 

情報として知りたい関心。

 

利益につながるから知りたい関心。

 

娯楽として楽しみたい関心。

 

そして、背景や物語を理解したいという関心。

 

 

 

同じ「関心」という言葉でも、

その向かう先は少しずつ違う。

 

 

 

 

私は今まで、

「人そのもの」に強い関心があるタイプではなかったのかもしれない。

 

 

でも、「その人が生きてきた背景」や、「その考え方が生まれた理由」、

「文化や歴史の積み重ね」には、不思議なくらい惹かれる。

 

 

 

そう考えると、

「私は人に関心がない」という言葉だけでは表せない自分が見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

さらに考えていて、

もう一つ気づいたことがある。

 

 

 

 

最近、自分と向き合う時間が増えたことで、

 

 

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「どうして私はそう考えたんだろう。」

 

 

そんな問いを自分自身に向けることが増えた。

 

 

 

 

 

すると、不思議なことに、

その問いは自分だけでは終わらなくなった。

 

 

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この言葉は残ったんだろう。」

 

「なぜ、人はこう考えるようになったんだろう。」

 

 

同じ問いが、

世界へと向かっていくようになった。

 

 

 

 

 

 

私は以前、「知る」ということは、

答えを集めることだと思っていた。

 

 

 

でも今は少し違う。

 

 

知るということは、

その背景に耳を澄ませることなのかもしれない。

 

目に見えているものだけではなく、

その奥に流れている物語を感じようとすること。

 

 

 

 

それが、本当の意味で

「理解する」ということなのではないだろうか。

 

 

 

この変化を通して、

私は「新しい自分」が生まれたような感覚になった。

 

 

 

何か特別な能力が身についたわけではない。

 

 

 

 

 

ただ、一つの出来事や、一つの言葉、一つの文化に出会ったとき、

 

 

「その奥には、どんな物語があるんだろう。」

 

そう自然に思えるようになった。

 

 

 

以前の私は、

そこまで考えることはなかった。

 

 

 

だからこそ、この感覚は、

自分の中に新しい意識が芽生えたように感じている。

 

 

 

世界を見る目が少し変わると、

世界そのものが変わって見えてくる。

 

 

 

そして、その変化は、
自分自身を知る旅が、いつの間にか世界を知る旅へと広がっていたことを、静かに教えてくれた。







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現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション




「気になることを、とことん調べたくなる。」

それは自分と向き合った先に生まれた変化だった。

 

 

 

 

 

 

最近、自分の中で一つの変化に気がついた。

 

 

 

以前の私は、「気になることはあるけれど、

そこまで深く調べる」ということは、それほど多くなかった。

 

 

 

 

でも今は違う。

 

 

 

 

何か気になる言葉や出来事に出会うと、

 

 

「これはどういう背景があるんだろう。」

 

「どうして生まれたんだろう。」

 

「その時代には何があったんだろう。」

 

 

そんなふうに、自然と知りたくなる自分がいる。

 

 

 

最初は単なる好奇心なのかなと思っていた。

 

 

でも、よく考えてみると、

それだけではないような気がした。

 

 

 

例えば、「魔女」という言葉。

 

私は以前、魔女狩りの話を知っていたことで、

「魔女」という存在そのものが、どこか怖いもの、危険なものという印象を持っていた。

 

 

けれど、調べていくと、

本来の魔女と、魔女狩りで「魔女」とされた人たちは、

必ずしも同じではないことを知った。

 

 

そこには、宗教や時代背景、

人々の恐れや嫉妬、社会の仕組みなど、

さまざまな物語があった。

 

 

 

その背景を知った瞬間、

「魔女」という言葉の印象は大きく変わった。

 

 

 

 

私はそのとき初めて、

「言葉は背景を知ることで、まったく違う姿を見せる」ということを実感した。

 

 

 

 

 

 

 

同じことは、「確信犯」という言葉にも感じた。

 

 

以前は、「悪いとわかっていてやる人」

という意味だと思っていた。

 

 

でも調べてみると、

本来は「自分が正しいと確信して行動する人」という意味だった。

 

 

 

現在では、広く使われている意味も辞書に載るようになっている。

 

それでも私は、

「もともとの意味を知ることには価値がある」と感じた。

 

 

 

言葉は長い時間をかけて育まれてきたものだからこそ、

その歴史も含めて理解したいと思うようになった。

 

 

 

 

 

さらに振り返ると、この考え方は、

以前から自分が興味を持っていた「龍」という存在にもつながっていた。

 

 

 

私は龍を見て、

 

「龍は実在したのか。」

 

ということ以上に、

 

 

「なぜ人は龍という存在を思い描いたのだろう。」

 

「どんな願いや世界観がそこに込められているのだろう。」

 

そんなことを考えるようになっていた。

 

 

 

 

物を見るだけではなく、その物語を見る。

 

言葉を見るだけではなく、その歴史を見る。

 

 

そんな見方が、自分の中で少しずつ育ってきていることに気づいた。

 

 

 

 

 

 

そして、さらに考えているうちに、

一つのことに気づいた。

 

 

 

 

この視点は、もしかすると

「自分と向き合うこと」を続けてきたから生まれたものなのではないか、と。

 

 

 

 

 

自分と向き合うと、

 

「なぜ私はこう感じたんだろう。」

 

「なぜ私はこう考えたんだろう。」

 

という問いを、何度も自分自身に向けるようになる。

 

 

 

 

その問い方が身につくと、不思議なことに、

自分だけではなく、世界にも同じ問いを向けるようになる。

 

 

 

 

「なぜ、この言葉は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この文化は生まれたんだろう。」

 

「なぜ、この考え方が受け継がれてきたんだろう。」

 

 

 

 

そうやって、自分への問いが、世界への問いへと広がっていく。

 

 

 

もちろん、世界のすべてを知ることはできない。

 

 

 

でも、気になったものだけは、

できる限り背景まで知ってみる。

 

 

その積み重ねは、単なる知識を増やすことではなく、

世界をより立体的に見ることにつながるのではないか。

 

 

 

 

最近、そんなことを感じている。

 

 

 

物事には、

表面だけでは見えない物語がある。

 

 

 

 

そして、その物語を知ることは、
世界を知ることでもあり、
自分自身を知ることにもつながっているのかもしれない。







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「安心できる場所」を卒業するとき

 〜自分の人生を、自分の足で歩き始めるために〜

 

 

 

 

子どもの頃、親や先生は、とても大きな存在です。

 

 

分からないことを教えてくれる。

 

失敗したら励ましてくれる。

 

危険から守ってくれる。

 

 

 

 

安心できる場所があるからこそ、

私たちは少しずつ成長していくことができます。

 

 

 

だから私は、

 

親や先生の存在が悪いと言いたいわけではありません。

 

 

むしろ、人が安心して心を育てるためには、

そのような存在はとても大切だと思っています。

 

 

 

 

 

 

安心できる場所は、「土台」になる

 

 

 

植物が育つためには、まず根を張る土が必要です。

 

 

人も同じです。

 

安心して話せる。

 

失敗しても受け止めてもらえる。

 

分からないことを質問できる。

 

 

 

そんな環境があるからこそ、

人は少しずつ自分らしさを育てていくことができます。

 

 

 

だから、最初は親や先生を頼ることは、

とても自然なことです。

 

 

 

 

でも、成長には次の段階があります

 

 

 

ある程度心が育ってきたら、

 

今度は少しずつ、

 

自分で考える。

 

自分で選ぶ。

 

自分で決める。

 

 

そんな経験が必要になってきます。

 

 

 

もちろん、最初は不安です。

 

間違えることもあるでしょう。

 

迷うこともあるでしょう。

 

 

 

それでも、その経験を重ねることでしか育たない力があります。

 

それが、

 

「自己信頼」

 

です。

 

 

 

 

 

「安心できる場所」に留まり続けると…



 

安心できる場所は、とても大切です。

 

 

 

でも、もしそこだけに留まり続けると、

 

少しずつ、

 

「親はどう思うだろう。」

 

「先生なら何と言うだろう。」

 

ということが、自分の判断基準になってしまうことがあります。

 

 

 

すると、


自分で考える前に、

 

誰かの答えを探すようになります。

 

 

 

自分で決める前に、

 

誰かに正解を確認したくなります。

 

 

 

それは安心でもありますが、

 

同時に、

 

「その人がいなければ決められない。」

 

という不安も生み出してしまいます。

 

 

 

安心と不安は、

 

実は同じ場所に存在していることがあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

一歩踏み出す勇気

 

 

だからこそ、

 

ある時期が来たら、

 

少しずつ自分の足で歩いてみることが大切なのだと思います。

 

 

 

親や先生から離れるということではありません。

 

教えを否定することでもありません。

 

 

 

これまで育ててもらった土台を胸に、

 

今度は、

 

自分で考え、

 

自分で選び、

 

自分で経験していく。

 

 

 

その一歩を踏み出すということです。

 

 

 

 

 

人生は、「正解をもらう旅」ではない

 

 

 

私は以前、

 

誰かが正解を持っていて、

 

私はそれを探しているのだと思っていました。

 

 

 

でも今は、少し考え方が変わりました。

 

 

人生は、

 

誰かから正解を受け取る旅ではありません。

 

 

 

自分で選び、

 

経験し、

 

時には迷い、

 

必要なら修正しながら、

 

自分の人生を、自分の手で育てていく旅なのだと思っています。

 

 

 

 

 

 

自分を信じるということ

 

 

 

「自分を信じる。」

 

その言葉を聞くと、

 

迷わない人になることのように感じるかもしれません。

 

 

 

 

でも、本当は違うのだと思います。

 

 

 

迷ってもいい。

 

失敗してもいい。

 

途中で考えが変わってもいい。

 

 

 

それでも、

 

「私はまた考えられる。」

 

「私はまた選び直せる。」

 

 

 

そう思えること。

 

 

 

それが、本当の意味で自分を信じるということなのではないでしょうか。

 

 

 

 

だから今日も、

 

私は少しずつ、

自分の足で歩いていこうと思います。

 

誰かの正解を探すためではなく、

 

自分の人生を、自分らしい答えへと育てていくために。







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どうにかしたい悩みのヒーリングセッション



なぜ私たちは「正解」しか言えなくなるのか




 

「今のあなたは、どう思いますか?」

 

そう聞かれたとき、すぐに答えられますか。

 

 

 

私は昔、この質問がとても苦手でした。

 

 

頭の中では何か感じている。

 

でも、それを言葉にすることができない。

 

 

いや、正確には、

 

言えなかったのです。

 

 

 

 

 

「正解」を言わなければいけないと思っていた


 

 

 

学校では、先生が質問をします。

 

 

答えられたら丸。

 

正解なら褒められる。

 

間違えればバツになる。

 

 

もちろん、知識を学ぶためには必要なことです。

 

 

 

でも、私はいつの間にか、

 

「答えるなら正解を言わなければいけない。」

 

そう思うようになっていました。

 

 

 

だから、自信がないときは答えない。

 

考えがまとまっていないときは黙る。

 

 

 

「違います。」

 

そう言われることが、とても怖かったのです。

 

 

 

 

 

本当に怖かったのは、「間違い」ではなかった

 

 

今思えば、怖かったのは間違うことではありませんでした。

 

 

 

怖かったのは、

 

「間違えた私」

 

を否定されることでした。

 

 

 

答えが違う。

 

すると、

 

「私はダメなんだ。」

 

「私は劣っているんだ。」

 

そんなふうに受け取ってしまっていました。

 

 

 

本当は、

 

「答えが違う」ことと、


「その人の価値」はまったく別のことです。

 

 

 

でも子どもの頃は、

その二つを分けて考えることは、とても難しいものです。

 

 

 

 

 

いつの間にか、学ぶ目的が変わっていた

 

 

 

本来、学ぶ目的は、

 

「知ること」

 

「理解すること」

 

「世界を広げること」

 

だったはずです。

 

 

 

でも、いつの間にか目的は変わっていました。

 

 

 

先生に褒められること。

 

親に認められること。

 

怒られないこと。

 

間違えないこと。

 

 

 

つまり、

 

「学ぶこと」よりも、


「評価されること」が目的になっていたのです。

 

 

 

そうすると、

 

意識は知識ではなく、

 

先生の表情を見ています。

 

親の反応を見ています。

 

 

 

「私はどう思う?」

 

ではなく、

 

「先生は何を答えてほしいのだろう?」

 

を考えるようになります。

 

 

 

 

 

「考える」のではなく、「正解を探す」

 

 

 

そんな状態では、

 

本当の意味で考えることは難しくなります。

 

 

 

考えるとは、

 

分からないことを分からないまま持ち、

 

仮説を立て、

 

話しながら整理し、

 

必要なら修正することです。

 

 

 

でも、

 

「正解しか言ってはいけない。」

 

という前提があると、

 

考えが完成するまで話せなくなります。

 

 

 

だから、自分の考えが育たないのです。

 

 

 

 

話すことで、自分を知る



 

不思議なことですが、

 

人は話しながら考えています。

 

 

口に出して初めて、

 

「あれ、私は本当はこう思っていたんだ。」

 

と気づくことがたくさんあります。

 

 

 

だから、

 

途中でもいい。

 

まとまっていなくてもいい。

 

間違っていてもいい。

 

その時点で感じていることを言葉にすることには、大きな意味があります。

 

 

 

 

 

 

「間違えること」は、成長の反対ではない

 

 

 

私は以前、

 

間違えないことが成長だと思っていました。

 

 

 

でも今は違います。

 

 

 

間違えるから考える。

 

考えるから気づく。

 

気づくから修正できる。

 

修正できるから成長する。

 

 

 

だから、

 

間違えることは、

 

成長の反対ではありません。

 

 

 

成長の入り口なのです。





 

自分の考えを話してもいい

 

 

 

人生には、

 

誰かが用意した模範解答はありません。

 

 

 

だから、

 

今の自分が感じたことを話していい。

 

あとから考えが変わってもいい。

 

 

 

 

「前はそう思っていたけれど、今はこう思う。」

 

そう言えることは、

 

間違いではなく、

 

成長なのです。

 

 

 

正解を言うことよりも、

 

自分で考えること。

 

 

 

そして、

 

自分で考えたことを、勇気を持って言葉にすること。

 

 

その積み重ねが、

 

少しずつ「自分を信頼する力」を育ててくれるのだと、私は思っています。







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