まっさらな瞳

こんにちは。

このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。

 

ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。

 

私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。

 

このブログでは、

 

自己信頼や内なる叡智を思い出すこと

 

自分らしい生き方を育む気づき

 

夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント

 

などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。

 

ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。

 

さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。

ふと、昔のことを思い出しました。

 

「マヤ暦は2012年で終わっている」

 

そんな話が、ずいぶん話題になっていた時期がありました。

 

そしてそこから、

 

「2012年に地球が滅亡するのではないか」

 

という話まで広がっていたことを覚えています。

 

私は当時から、地球が滅亡するという話をそれほど信じてはいませんでした。

 

むしろ、

 

「誰も怖がらせるために、わざわざその日で暦を終わらせたわけではないだろう。何か意味があるんじゃないかな」

 

と、なんとなく思っていました。

 

でも先日、改めてマヤ暦について調べてみたら、私が知らなかった、とても面白い世界がありました。

 

 

 

 

 

 

2012年は「世界の終わり」ではなかった


 

2012年12月21日は、マヤの「長期暦」における13バクトゥンという、とても大きな節目でした。

 

その長さは、約5,125年。

 

けれど、古代マヤの人々が「この日に世界が滅亡する」と記した証拠は確認されていません。

 

世界の終わりではなく、とても大きな時間の区切りだったのです。

 

これを知ったとき、私は少し悔しくなりました。

 

あのとき、このことを知っていたかったな、と。

 

「地球が滅亡するかもしれない日」としてではなく、

 

何千年という壮大な時間を数えてきた暦の、大きな節目を迎える日として2012年12月21日を過ごしていたら。

 

ずっと昔を生きた人たちから、数え切れないほどの命がつながり、その先に自分がいることを感じながら、その日を迎えていたら。

 

いつもの年末年始とはまた違った、宝物のような時間になっていたのかもしれません。

 

そう思うと、ちょっともったいなかったなと思います。

 

 

 

 

 

 

1999年にも「世界の終わり」があった


 

そういえば、そのずっと前にも似たことがありました。

 

1999年。

 

ノストラダムスの予言です。

 

「1999年7の月、空から恐怖の大王が……」

 

そんな言葉が有名になり、「1999年に人類が滅亡する」といった話が盛んに語られていました。

 

でも、これも改めて調べてみると、ノストラダムス自身が「1999年に地球が滅亡する」と明確に書いたものではありませんでした。

 

有名な「恐怖の大王」という言葉についてさえ、原文の版や古いフランス語の解釈をめぐって異なる読み方があります。

 

つまり、元の文章があり、そこに後の時代の人たちによる解釈が加わり、さらにセンセーショナルな物語になって広がっていった部分があるのです。

 

もちろん、どんな意図でそれを伝えたのかは、一人ひとり違うでしょう。

 

だから「人を怖がらせるためだった」と決めつけることもできません。

 

ただ、少なくとも私は、

 

「怖い話として広まっているもの」と

「もともとの資料に書かれていること」は、

同じとは限らないんだな、

 

と改めて思いました。

 

 

 

 

 

 

 

マヤの暦は、時計の歯車みたいだった

 

そして今回、私が一番惹かれたのは「2012年問題」そのものより、マヤの時間の捉え方でした。

 

マヤには一つだけではなく、いくつもの暦があります。

 

260日の周期を持つツォルキン。

 

365日の周期を持つハアブ。

 

その二つが組み合わさって巡る、約52年のカレンダー・ラウンド。

 

そして、さらに長い時間を数えていく長期暦。

 

それを知ったとき、私の頭の中には「時計の中の歯車」が浮かびました。

 

小さな歯車がくるくる回っている。

 

その横では、もう少し大きな歯車が回っている。

 

さらにその外側には、とても大きな歯車があって、ゆっくり、ゆっくり動いている。

 

それぞれの周期が重なりながら、時間が進んでいく。

 

なんだか、とても壮大です。

 

 

 

 

 

 

巡ってくるものと、一度きりの今


 

そして、この話をしているときに、とても素敵だなと思った言葉がありました。

 

「巡ってくるものと、一度きりの今が同時に存在している」

 

春は、またやってきます。

 

朝も、またやってきます。

 

誕生日も、一年経てばまた巡ってきます。

 

でも、今年の春と去年の春は同じではありません。

 

今日の朝と昨日の朝も違います。

 

同じ9月9日は、来年もやってくるけれど、2026年9月9日の私は今日しか存在しません。

 

周期は巡ってくる。

 

でも、そのたくさんの周期が重なり合ってできる「今」は、一度きりです。

 

そう考えたら、なんだか「今日」という一日が、とても貴重なものに感じられました。

 

 

 

 

 

 

怖い情報より、その向こう側を見てみたい


 

1999年のノストラダムス。

 

2012年のマヤ暦。

 

当時はどちらも「何か恐ろしいことが起こるのではないか」という話が大きく広がりました。

 

でも時間が経ってから元の情報に近づいてみると、当時見えていた景色とはずいぶん違いました。

 

だから私はこれから、何か不安になるような情報に出会ったとき、

 

「これは本当にそうなのかな?」

 

と、一度立ち止まってみたいと思います。

 

誰かの解釈なのか。

 

元の資料には何と書かれているのか。

 

分かっていることと、分かっていないことは何なのか。

 

一つの方向からだけではなく、いろいろな角度から見てみる。

 

そうしたら、恐怖に隠れていた面白いものを発見することがあるのかもしれません。

 

今回の私にとって、それがマヤの時間でした。

 

2012年12月21日を、もっと味わって過ごしたかった。

 

そんな小さな悔しさはあります。

 

でも、過ぎた時間には戻れなくても、

 

「今」という時間を見る目は、今日から変えることができます。

 

何千年という時間の中を生きながら、

 

季節が巡り、

太陽が昇り、

一日が過ぎていく。

 

巡ってくるものの中に、一度きりの今日がある。

 

そう思うと、

 

何でもない今日という一日も、

壮大な時間の中にぽつんと光っている、

小さな宝物のように感じます。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



まみの哲学|動かない夢を動かす「GX理論」

 

 

叶えたい夢やゴールがある。

 

同じように「叶えたい」と思っているのに、

なぜか自然と動いていく夢もあれば、

ずっと現状が動かない夢もあります。

 

この違いって、何なんだろう?

 

そんな小さな疑問から、自分自身の夢や人生を振り返りながら、

考え、対話を重ねていく中で、ひとつの数式が生まれました。

 

 

 

(G − B)+ X = GX

 

 

 

私はこれを、

 

動かない夢を動かす「GX理論」

 

と名づけました。


 

これは、誰かから教わった理論ではなく、

私自身が自分の人生と向き合う中から生まれてきた、ひとつの思考モデルです。

 

まだGX理論は、生まれたばかり。

 

 

これから私自身が実践しながら、ひとつずつ確かめ、育てていきたいと思っています。

 

動かなかった夢が、

動きはじめるかもしれない。

 

そんな可能性を秘めた、小さな数式の誕生です。

 

 

 

まみの哲学

(G − B)+ X = GX

動かない夢を動かす「GX理論」







魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

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現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション



近づくと見えるもの、離れると見えてくるもの


 

世界においても、人間関係においても、そして自分自身についても。

 

私たちは、どこから見るかによって、見えるものが変わるのだと思います。

 

近づくことで見えるものがある。

近づくことで、見えなくなるものもある。

 

離れることで見えてくるものがある。

そして離れることで、見えなくなるものもある。

 

この4つは、どれか一つが正しいのではなく、同時に存在しているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

近づいたからこそ、見える世界


 

たとえば、あるコミュニティに所属したとします。

 

そこに入って、その場所に関心を向け、人と関わっていく。

 

すると、外から眺めていただけではわからなかったことが、たくさん見えてきます。

 

そこにいる人たちのこと。

人と人との関係性。

その場所で大切にされていること。

言葉にはなっていない空気感。

 

近づいたからこそ、見えるものです。

 

けれど、その世界に近づき、そこへの臨場感が強くなればなるほど、反対に見えにくくなるものもあります。

 

たとえば、自分自身。

 

「私は本当はどう感じているんだろう」

 

「私はこれを大切だと思っているのかな」

 

「私はここにいたいんだろうか」

 

周りの人や、その場所で起きていることが大きく見えるほど、自分自身の感覚が小さくなってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

近くにいると、それが「世界のすべて」に見えることがある


 

そして、とても興味深いのは、

 

近くにいるときには、自分が近くにいることに気づきにくい

 

ということです。

 

その場所の考え方や価値観、人間関係、そこで起きている出来事が、自分にとってとても大きなものになっていく。

 

すると、いつの間にか、

 

「これが世界なんだ」

 

という感覚になってしまうことがあります。

 

本当は、広い世界の中にある一つの場所なのに。

 

たくさんある価値観の中の、一つの価値観なのに。

 

その中にいるときには、それがなかなかわからない。

 

少し離れてみて、初めて、

 

「ああ、私はずいぶん近くから見ていたんだ」

 

「世界そのものだと思っていたけれど、世界の一部分だったんだ」

 

と気づくことがあります。

 

 

 

 

 

 

離れたからこそ、見えてくるもの


 

これは、大きな絵を見ることに似ていると思います。

 

大きな絵にぐっと近づいてみる。

 

すると、絵の具の重なりや筆の跡、細かな線までよく見えます。

 

それは、近づかなければ見ることのできない世界です。

 

でも、その距離からは、

 

「この絵には何が描かれているのか」

 

という全体像が、かえって見えにくくなります。

 

そこで数歩、後ろに下がってみる。

 

すると、それまで見えなかった全体の構図や色のバランスが、ふっと見えてきます。

 

「ああ、こういう絵だったんだ」

 

と気づく。

 

けれど今度は、近くにいたときに見えていた細かな筆の跡は見えなくなります。

 

つまり、

 

近いほうがよく見えるわけでも、遠いほうがよく見えるわけでもない。

 

見えるものが違うのです。

 

 

 

 

 

 

自分を見るときも同じ


 

これは、自分自身についても同じなのだと思います。

 

自分の感情に近づいていけば、

 

「私は悲しかったんだ」

 

「本当は嫌だったんだ」

 

「私はこうしたかったんだ」

 

という細かな感覚が見えてきます。

 

でも、その感情の真ん中にいるときには、それが自分の世界のすべてのように感じられることもあります。

 

そんなとき、ほんの少し離れたところから、

 

「今の私は、こう感じているんだな」

 

と眺めてみる。

 

すると、それまでとは違うものが見えてくるかもしれません。

 

反対に、離れたところから自分を分析することばかりしていたら、今度は自分の生々しい気持ちがわからなくなることもあります。

 

だから、どちらか一方にいなければならないわけではないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

私は、見る位置を変えることができる


 

そして今回、私がとても大切だと思ったことがあります。

 

それは、

 

私は、ずっと同じ場所から見続けなくてもいい

 

ということです。

 

近づくこともできる。

 

離れることもできる。

 

中に入ってみることもできる。

 

外から眺めてみることもできる。

 

自分に近づくこともできるし、人や世界に目を向けることもできる。

 

私は、どの位置にも移動することができる。

 

一度近づいたからといって、そこに居続けなければならないわけではありません。

 

離れたからといって、二度と近づけないわけでもありません。

 

近づいて見てみる。

 

少し離れて見てみる。

 

そして、必要ならまた近づいてみる。

 

そうやって位置を変えるたびに、それまで見えなかったものが見えてくる。

 

 

 

 

 

 

「これがすべて」と感じたときこそ


 

もしかすると、

 

「これが世界のすべてだ」

 

と感じているときほど、私たちは何かにとても近づいているのかもしれません。

 

そんなとき、

 

「少し違う位置から見たら、何が見えるだろう?」

 

と、自分の立ち位置を変えてみる。

 

答えを変えるのではなく、見る場所を変えてみる。

 

すると、今まで見えていたものが少し小さくなり、その代わりに、今まで見えていなかったものが姿を現すかもしれません。

 

世界が変わったのではなく、


私の立っている位置が変わったから、見える世界が変わった。

 

そして何より、

 

私は、自分でその位置を動くことができる。

 

近づいてもいい。

離れてもいい。

また戻ってきてもいい。

 

世界を見る距離を、自分で選ぶことができる。

 

それもまた、自分の人生を自分で生きるということの一つなのかもしれません。






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「私は私」を今の私が言葉にするなら――評価という壇上には立たない


 

最近、私はずっと、

 

「私は私」

 

という感覚について考えています。

 

とても単純な言葉なのに、説明しようとすると難しい。

 

「自己肯定感」なのかな。

 

「自己信頼」なのかな。

 

「自信」なのかな。

 

「存在価値」なのかな。

 

どれも近いようで、どこか少し違う。

 

それでも私は、今の自分が感じているこの感覚を、今の時点で言葉にしておきたいと思いました。

 

いつかもっとぴったりの言葉が生まれるかもしれません。

 

そのときは、そのとき。

 

今の私が「私は私」を表現するなら、

 

「私は、評価という壇上には立たない」

 

という言葉が、一番近いように感じています。

 

 

 

 

 

 

私は100点だから素晴らしい、ではない


 

私たちは小さな頃から、たくさんの評価に触れて生きています。

 

何かができたら、

 

「すごいね」

「偉いね」

 

と褒められる。

 

テストを受ければ点数がつく。

 

学校では成績がつく。

 

試験には合格と不合格がある。

 

大会には順位がある。

 

社会に出れば、採用されたり、されなかったりする。

 

仕事でも成果が評価される。

 

恋愛でも、

 

好きな人から選ばれた。

選ばれなかった。

 

そんな結果があります。

 

社会の中で生きていれば、評価そのものをなくすことはできません。

 

そして、評価がすべて悪いとも思いません。

 

できたことを褒めてもらえたら嬉しい。

 

努力を認めてもらえたら嬉しい。

 

試験に合格したら嬉しい。

 

好きな人から好きになってもらえたら嬉しい。

 

ただ、いつの間にか私は、

 

「結果についての評価」と「私という存在そのもの」を結びつけていたことがあった

 

ように思います。

 

できた私は○。

 

できなかった私は×。

 

認められた私は○。

 

認められなかった私は×。

 

選ばれた私は○。

 

選ばれなかった私は×。

 

まるで、人生のあらゆる出来事によって、私自身の点数まで上がったり下がったりするように。

 

でも最近、私は思うようになりました。

 

そもそも、私という存在は採点するものなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

私は、採点される答案用紙ではない


 

テストなら採点できます。

 

100点だった。

 

70点だった。

 

30点だった。

 

試験なら結果があります。

 

合格した。

 

不合格だった。

 

大会なら順位があります。

 

1位だった。

 

予選で敗退した。

 

仕事にも成果があります。

 

うまくいった。

 

今回は思うような結果にならなかった。

 

それらは、それぞれの基準に沿って評価することができます。

 

でも、

 

その結果と、私はイコールではない。

 

テストで30点だったことと、

 

「私は30点の人間だ」

 

は、まったく違う。

 

何かに失敗したことと、

 

「私は失敗した人間だ」

 

も違う。

 

誰かに選ばれなかったことと、

 

「私は魅力のない人間だ」

 

も違う。

 

結果について評価することはできる。

 

でも、その評価をそのまま私という存在に貼り付ける必要はない。

 

なぜなら、

 

私は採点される答案用紙ではないから。

 

 

 

 

 

 

「自分に100点をあげよう」とも少し違う


 

自分を大切にするために、

 

「私は100点」

 

「私は素晴らしい」

 

「私は価値のある人間」

 

と思うことも、ときには自分を支えてくれると思います。

 

でも、今の私が感じている「私は私」は、そこからもう少し違うところにあります。

 

100点を目指すのでもなく、

 

0点だと思っている自分を100点まで引き上げるのでもない。

 

そもそも私は、点数をつける対象ではない。

 

「価値が高い私」になりたいわけでも、

 

「価値が低い私」を否定したいわけでもない。

 

高い、低い。

 

優れている、劣っている。

 

○、×。

 

そういう評価の物差しが置かれている壇上から、

 

私は静かに降りてしまいたい。

 

というより、本当は最初から、

 

私という存在そのものは、その壇上に立つ必要なんてなかったのかもしれない。

 

そう思うんです。

 

 

 

 

 

 

結果に○×をつけても、私には○×をつけない


以前から私は、

 

「結果に○×をつけても、自分には○×をつけない」

 

という言葉を大切にしています。

 

でも最近になって、その理由が少しわかってきた気がします。

 

なぜ、私自身には○×をつけなくていいのか。

 

それは、

 

私という存在そのものが、そもそも○×をつける対象ではないから。

 

なのかもしれません。

 

何かをやってみて、

 

「うまくいった」

 

なら、それでいい。

 

「今回はうまくいかなかった」

 

なら、それもひとつの結果です。

 

そこから、

 

「じゃあ次はどうしよう?」

 

と考えればいい。

 

でも、

 

「うまくいかなかった。だから私はダメ」

 

まで行かなくていい。

 

結果を振り返ることと、自分を採点することは別のことなんですよね。

 

 

 

 

 

 

選ばれなくても、私は小さくならない


 

これは恋愛でも同じだと思います。

 

好きな人に選ばれた。

 

両思いになった。

 

嬉しい。

 

好きな人に選ばれなかった。

 

思いは通じなかった。

 

悲しい。

 

それは大きな出来事だと思います。

 

実際にその立場になったら、簡単には割り切れないこともあるでしょう。

 

でも、

 

悲しいことと、私の価値が下がることは別。

 

相手が私を選ばなかったからといって、私という存在が昨日より小さくなるわけではありません。

 

ただ、その人の好みや気持ちとは一致しなかった。

 

その二人の間では、恋愛として成立しなかった。

 

それを、

 

「選ばれなかった私は×」

 

にしなくていい。

 

相手が私をどう思うかは、相手の自由。

 

そして、

 

その人の評価の下に、自分自身を置かなくてもいい。

 

私は私。

 

選ばれても、私は私。

 

選ばれなくても、私は私です。

 

 

 

 

 

 

外側の物差しで、自分そのものを測らない


 

生きていると、外側からたくさんの物差しがやってきます。

 

学歴。

 

収入。

 

仕事。

 

肩書き。

 

容姿。

 

年齢。

 

恋愛。

 

結婚。

 

フォロワー数。

 

売上。

 

資格。

 

実績。

 

人気。

 

それぞれが必要な場面では、数字や条件として意味を持つこともあります。

 

でも、

 

それらは私という存在そのものを測る物差しではない。

 

肩書きが増えても、私が大きくなるわけではない。

 

肩書きがなくなっても、私が小さくなるわけではない。

 

誰かに褒められても、

 

誰かに批判されても、

 

それによって私という存在そのものの点数が上下するわけではない。

 

外側の世界には、評価があります。

 

でも、

 

私は、その評価そのものではない。

 

 

 

 

 

 

だから「私は私」


 

これをもっと上手に表現できる言葉が、いつか見つかるかもしれません。

 

今はまだ、

 

「私は私」

 

としか言えないところがあります。

 

でも、その「私は私」の中には、

 

私を高く評価しよう。

 

もっと自信を持とう。

 

自分は素晴らしいと思おう。

 

ということとは少し違う、静かな感覚があります。

 

私は誰かより上だから大丈夫なのではない。

 

何かができるから大丈夫なのでもない。

 

誰かに認めてもらったから大丈夫なのでもない。

 

ただ、私は私。

 

評価される前から私で、

 

評価されたあとも私。

 

うまくいく前から私で、

 

うまくいかなかったあとも私。

 

何かを得ても私。

 

失っても私。

 

そこにあるのは、強く自分を肯定するような自信というより、

 

もっと静かなものです。

 

私は今のところ、それを

 

「静かな自信」

 

と表現しています。

 

 

 

 

 

 

評価という壇上には立たない


 

私はこれからも、評価されることはあると思います。

 

仕事をすれば、お客様から評価されることもある。

 

何かに挑戦すれば、結果も出る。

 

ブログを書けば、読まれる記事もあれば、あまり読まれない記事もあるでしょう。

 

うまくいくこともあれば、失敗することもある。

 

そのたびに、嬉しくなったり、がっかりしたりもすると思います。

 

それでいい。

 

ただ、ひとつ忘れたくないことがあります。

 

評価される結果と、私という存在は別のもの。

 

結果について考える。

 

必要なら改善する。

 

失敗したら、また試す。

 

成功したら、喜ぶ。

 

でも、そのたびに私自身まで採点台に乗せなくていい。

 

私は、

 

100点だから○になる存在でも、

 

0点だから×になる存在でもない。

 

そもそも、

 

私は評価という壇上には立たない。

 

それが今の私にとって、

 

「私は私」

 

という言葉に一番近い表現です。

 

いつか、もっとぴったりの言葉が生まれるかもしれない。

 

でも今は、この言葉を大切にしていたい。

 

私は私。

 

結果には○も×もある。

 

評価されるものもある。

 

でも、私そのものには○も×もつけない。

 

私は採点される答案用紙ではない。

 

誰かの物差しで自分の存在を測らなくていい。

 

評価という壇上から降りて、

 

私はただ、

 

私として、自分の人生を生きていく。






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「選ばれる私」より、「私は私」で生きていく


 

前回、

 

「たくさんの選択肢から選べることだけが、自由なのだろうか」

 

ということについて書きました。

 

誰かから与えられた100個の選択肢の中に欲しいものがなければ、全部選ばなくてもいい。

 

101個目を自分で探しに行ってもいい。

 

まだこの世にないのなら、自分で作ってもいい。

 

そんなふうに、

 

私は、自分の人生を選ぶ人でありたい。

 

そう考えていたとき、ふと今度は反対側のことを思いました。

 

私たちは「選ぶ側」になるだけではありません。

 

ときには、自分自身が「選ばれる側」になることもあります。

 

そして、そこで私はまたひとつ、大切なことに気づきました。

 

 

 

 

 

 

「選ばれたい」と思うことは悪くない


 

たとえば恋愛では、

 

「好きな人に選ばれたい」

 

という言葉を耳にすることがあります。

 

好きな人から好きになってもらいたい。

 

魅力的だと思ってもらいたい。

 

両思いになりたい。

 

付き合いたい。

 

そのために自分を磨いたり、相手に魅力を感じてもらえるようなことをしたりする。

 

私は、それ自体が悪いことだとは思いません。

 

好きな人から好きになってもらえたら、やっぱり嬉しい。

 

恋が実るか実らないかは、当事者にとって、とても大きなことだと思います。

 

でも、「選ばれたい」という気持ちが大きくなっていったとき。

 

いつの間にか、主語が変わってしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

「私はどう思う?」から「相手は私をどう思う?」へ

 

 

最初は、

 

「私はこの人が好き」

 

だった。

 

ところが、いつの間にか、

 

「相手は私を好きだろうか」

 

になっていく。

 

そして、

 

どうしたら好きになってもらえるだろう。

 

どうしたら選んでもらえるだろう。

 

どんな私なら魅力的に見えるだろう。

 

こんなことを言ったら嫌われるかな。

 

こうしたらもっと好かれるかな。

 

そんなふうに、少しずつ相手の目を通して自分を見るようになっていく。

 

そして気がついたら、

 

「私はどうしたい?」より、「相手は私をどう思っている?」のほうが大きくなっている。

 

私が以前感じていた「選ばれる側になると、自分が下になったように感じる」という感覚は、もしかするとここだったのかもしれません。

 

選ばれる側だから価値が低いわけではない。

 

相手が自分より上なわけでもない。

 

そうではなくて、

 

相手の評価の下に、自分で自分を置いてしまう。

 

私は、そこに不自由さを感じていたのだと思います。

 

 

 

 

 

 

私も、相手を選んでいる


 

好きな人に、

 

「私を選んでほしい」

 

と思う。

 

でも、そのもっと手前には、

 

「私は、この人を選びたいの?」

 

という問いがあります。

 

私はこの人が好き?

 

私はこの人と一緒にいたい?

 

私はこの人といるときの自分が好き?

 

私はこの関係を大切にしたい?

 

相手が私をどう評価するかだけではなく、

 

私にも、相手を見る目がある。

 

私にも選択する権利がある。

 

恋愛だけではありません。

 

「この会社に採用してもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はこの会社で働きたいのだろうか」。

 

「この人に認めてもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はこの人から学びたいのだろうか」。

 

「このコミュニティに受け入れてもらえるだろうか」

 

だけではなく、

 

「私はここにいたいのだろうか」。

 

相手にも選ぶ自由がある。

 

そして、

 

私にも選ぶ自由がある。

 

どちらかが上で、どちらかが下なのではなく、

 

お互いに自分の人生を選んでいる人なんですよね。

 

 

 

 

 

 

選ばれなかったら、私の価値は下がるのだろうか


 

好きな人に選ばれなかった。

 

告白したけれど、思いが通じなかった。

 

付き合いたかったけれど、付き合えなかった。

 

それは悲しいことだと思います。

 

私自身、もし当事者になったら、

 

「そんな簡単に割り切れないよ」

 

と思うかもしれません。

 

頭ではわかっていても、心はそんなに簡単ではない。

 

悲しいものは悲しい。

 

傷つくことだってある。

 

でも、

 

「悲しい」と「私の価値が下がった」は、同じではない。

 

と思うんです。

 

相手が私を選んだとしても、

 

私は私。

 

相手が私を選ばなかったとしても、

 

私は私。

 

好かれても、

 

私は私。

 

嫌われても、

 

私は私。

 

付き合えても、

 

私は私。

 

付き合えなくても、

 

私は私。

 

結果は変わっても、

 

私という存在そのものまで、その結果によって○になったり×になったりするわけではない。






 

「見る目がなかったのね」くらいでもいい


 

もし好きな人から選ばれなかったとき、

 

心のどこかで、

 

「そっか。私の魅力はこの人には響かなかったんだな」

 

くらいに思えてもいいのかもしれません。

 

もっと元気になったあとなら、

 

「まあ、私を見る目がなかったのね」

 

くらいに笑ってしまってもいい。

 

これは、

 

「私はこんなに素晴らしいのに、私を選ばないなんておかしい!」

 

と相手を見下すということではありません。

 

相手には相手の好みがある。

 

相手には相手の人生がある。

 

誰を好きになるかも、その人の自由です。

 

ただ、

 

その人の選択を、自分自身の価値を測る物差しにはしない。

 

ということです。

 

「この人には響かなかったんだな」

 

それだけ。

 

そして私もまた、自分の人生を歩いていく。

 

 

 

 

 

 

結果に○×をつけても、私には○×をつけない


 

私は最近、

 

「結果に○×をつけても、自分には○×をつけない」

 

ということをよく考えています。

 

試験に受かった。

 

落ちた。

 

仕事に採用された。

 

されなかった。

 

誰かに選ばれた。

 

選ばれなかった。

 

恋が実った。

 

実らなかった。

 

現実の出来事には結果があります。

 

その結果について、

 

「今回はうまくいった」

 

「今回はうまくいかなかった」

 

と判断することもできます。

 

でも、その結果をそのまま自分自身へ貼り付けて、

 

うまくいった私=○。

 

うまくいかなかった私=×。

 

選ばれた私=価値がある。

 

選ばれなかった私=価値がない。

 

とする必要はない。

 

出来事の結果と、私という存在は別のもの。

 

私は、その感覚を大切にしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

「私は私」という静かな場所


 

これをどう言葉にしたらいいのか、私はずっと考えています。

 

自己肯定感。

 

自己信頼。

 

自信。

 

存在価値。

 

どれも近いようで、少し違う。

 

今のところ、私にはとても単純な、

 

「私は私」

 

という言葉が一番近いように感じています。

 

誰かより優れているから、自信があるわけではない。

 

何かができるから、自分を認められるわけでもない。

 

誰かに選ばれたから、自分には価値があるわけでもない。

 

反対に、

 

できなかったからといって、私そのものがダメになるわけでもない。

 

誰かに嫌われたからといって、私そのものが小さくなるわけでもない。

 

私は私。

 

そのままここにいる。

 

それは、

 

「私はすごい!」

 

と大きな声で言うような自信とは少し違います。

 

もっと静かなもの。

 

誰かと比べなくてもいい。

 

証明しなくてもいい。

 

評価されなくても、なくならない。

 

私はこれを、

 

「静かな自信」

 

と呼んでもいいのかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

選ばれることを喜びながら、自分を明け渡さない


 

もちろん、誰かから選ばれたら嬉しい。

 

好きな人から好きだと言われたら嬉しい。

 

仕事で評価されたら嬉しい。

 

自分の作品やサービスを選んでもらえたら嬉しい。

 

その喜びまで手放す必要はありません。

 

ただ、

 

選ばれることを、自分の存在価値の証明にはしない。

 

そして、

 

選ばれようとするあまり、

 

自分の気持ちを曲げたり、

 

相手に合わせ続けたり、

 

自分が本当はどうしたいのかを見失ったりしない。

 

選ばれる喜びを味わいながらも、

 

人生の主語は、

 

「私は」

 

のままにしておく。

 

私はどう感じる?

 

私は何が好き?

 

私は誰といたい?

 

私はどんな関係を望んでいる?

 

私はどんな人生を生きたい?

 

そこへ何度でも戻ってくる。

 

 

 

 

 

 

私は、私の人生を選ぶ人


 

誰かが私をどう思うかは、その人の自由です。

 

私には、それを完全に決めることはできません。

 

でも、

 

私が私をどう扱うかは、私が選べる。

 

そして、

 

私は自分の人生をどう生きるかを選ぶことができる。

 

選ばれる私になるために生きるのではなく、

 

私が私の人生を選びながら生きていく。

 

誰かに選ばれたら、一緒に喜べばいい。

 

選ばれなかったら、悲しいときは悲しめばいい。

 

でも、どちらになっても、

 

最後には自分のところへ帰ってくる。

 

私は私。

 

あなたが私を選んでも、

 

選ばなくても。

 

私という存在そのものまで、

 

あなたの選択によって大きくなったり、小さくなったりするわけではない。

 

そして私はまた、

 

「私はどうしたい?」

 

と自分に聞きながら、

 

次の一歩を自分で選んでいく。

 

誰かの評価の下に自分を置くのではなく、

 

誰かの上に立とうとするのでもなく、

 

ただ静かに、

 

私は私として、自分の人生の舵を握っていたい。






魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

現実を動かす再現性の高いヒーリングセッション




「選べること」と「自由であること」は、本当に同じなのだろうか


 

前回、情報にあふれた今の時代だからこそ、

 

「流れてきた100個の情報から1個を選ぶのではなく、自分から欲しい1個を探しに行く」

 

そんなことが大切なのではないか、ということを書きました。

 

そこからさらに考えていて、ふと気づいたことがあります。

 

それは、

 

「たくさんの中から自由に選べること」と「本当に自由であること」は、もしかしたら同じではないのかもしれない。

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

5つから自由に選べる。それは本当に自由?


 

たとえば、

 

「この5つの中から、好きなものを選んでください」

 

と言われたとします。

 

Aを選んでもいい。

BでもCでもDでもEでもいい。

 

「どれを選んでもあなたの自由ですよ」

 

と言われれば、一見とても自由に感じます。

 

確かに、その5つの中では自由です。

 

でも、そこには最初から「5つ」という枠があります。

 

本当は、

 

「どれもいらない」

 

でもいいかもしれない。

 

5つ以外のものを探しに行ってもいい。

 

自分で6個目を作ってもいい。

 

あるいは、そもそも「私は今、何も選びたくない」でもいい。

 

そう考えると、

 

与えられた選択肢から自由に選ぶことと、自分の人生を自由に選ぶことは、少し違うのではないか

 

と思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

「選ばない」が許されなかった経験


 

そう考えていて、以前のある経験を思い出しました。

 

あるメルマガを購読したときだったと思います。

 

登録の途中で、いくつもの項目の中から興味のあるものを選ぶ場面がありました。

 

ところが、

 

「最低5つ選んでください」

 

というような条件があったんです。

 

私はそのとき、

 

「別に5つもいらないんだけどな」

 

と思いました。

 

でも、登録するためには選ばなければならない。

 

だから結局、本当は読みたいとも、購読したいとも思っていないものにまでチェックを入れました。

 

そして、欲しくもなかったメルマガが届くことになりました。

 

そのとき私は、とても不自由だと感じました。

 

100個から好きなものを選べたとしても、

 

「ひとつも選ばない」という選択が許されていないのなら、それは本当に自由なのだろうか。

 

たくさん選択肢があることと、自由であることは、必ずしも同じではないんですよね。

 

 

 

 

 

 

「どれにする?」と「何がしたい?」は違う


 

私たちは日常生活の中でも、たくさんの選択をしています。

 

この中ならどれがいい?

どちらが好き?

何番にする?

このプランの中ならどれにする?

 

もちろん、こうした選択が悪いわけではありません。

 

社会生活を送るうえでは、限られた候補から選ぶ必要があることもたくさんあります。

 

でも私は、自分自身のこれまでを振り返ってみて、あることに気づきました。

 

「どれにしよう?」と考えることと、「私は何がしたい?」と考えることは、似ているようで全然違う。

 

「どれにしよう?」には、すでに候補があります。

 

あとは比較して選べばいい。

 

でも、

 

「あなたは何がしたいですか?」

 

には候補がありません。

 

自分自身の中を見なければならないんです。

 

 

 

 

 

 

自由になったのに、動けなくなった


 

これは私自身が何度も経験してきたことです。

 

私はずっと、

 

「もっと自由になりたい」

 

と思っていました。

 

そして、いざ自由になったとき。

 

最初は、

 

「自由にしていいんだ!」

 

と、とても嬉しかったんです。

 

ところが、その次の瞬間、

 

「……じゃあ、私は何をしよう?」

 

となりました。

 

何でもしていい。

 

どこへ行ってもいい。

 

好きなことをしていい。

 

誰かが候補を出してくれるわけでもない。

 

すると不思議なくらい、何も思いつかなかったんです。

 

「私は何がしたいんだろう?」

 

と戸惑いました。

 

そして考えているうちに、

 

「それなら、この3つから選んでくださいと言われたほうが楽かもしれない」

 

とさえ思いました。

 

そのとき私は、少し怖くなりました。

 

自由になりたかったはずなのに。

 

自由を手にした途端、何をしたらいいのかわからない。

 

私は、自分から「やりたいもの」を見つけることが、こんなにも難しくなっていたんだ。

 

そう気づいたからです。

 

 

 

 

 

 

与えられたものから選ぶほうが、楽なこともある


 

考えてみれば、限られた選択肢から選ぶことは楽でもあります。

 

3つなら、3つを比較すればいい。

 

5つなら、その中から一番いいものを探せばいい。

 

でも、

 

「この世界にあるもの全部から、好きなものを自由に選んでください」

 

と言われたら、一気に難しくなります。

 

さらに、

 

「まだ存在していないものを自分で作ってもいいですよ」

 

まで含めたら、可能性はほとんど無限です。

 

自由には、

 

自分で考えることが必要なんですよね。

 

私は何が好き?

 

何が嫌い?

 

何をしたい?

 

何が欲しい?

 

どんなふうに生きたい?

 

どこへ行きたい?

 

今の私は何を感じている?

 

誰かが候補を与えてくれている間は、こうしたことを深く考えなくても選択できます。

 

だからこそ私は、外から選択肢を与えられ続けることに慣れてしまうと、自分の中を見る機会が少なくなることもあるのではないか、と自分自身の経験から感じています。

 

 

 

 

 

 

SNSは、次の候補をずっと出してくれる


 

そう考えると、SNSも少し似ています。

 

自分が、

 

「次は何を見よう?」

 

と考える前に、次が出てきます。

 

これ面白くないですか?

 

こんな生き方がありますよ。

 

これ欲しくないですか?

 

こんなサービスがありますよ。

 

これが流行っていますよ。

 

こんな考え方がありますよ。

 

次。

 

次。

 

また次。

 

自分の中から、

 

「私は何が見たいんだろう?」

 

という欲求が立ち上がる前に、次の候補が供給されます。

 

すると、

 

「私は何が欲しい?」ではなく、「流れてきたものの中なら、どれがいい?」

 

という選び方が増えていく。

 

私は、それが続いていくと、自分から湧いてくる「やりたい」「知りたい」「欲しい」という感覚を感じる機会も少なくなってしまうのではないかな、と感じています。

 

 

 

 

 

 

「まあまあいい」を「好き」だと思っていないだろうか


 

そして、もうひとつ気になったことがあります。

 

流れてきたものの中から、

 

「まあ、これはいいかな」

「これはちょっと面白そう」

「この中だったらこれかな」

 

というものを選び続けていると、

 

いつの間にか、

 

「これが私の好きなものなんだ」

「これが私の求めていたものなんだ」

 

と思うこともあるのではないでしょうか。

 

もちろん、偶然出会ったものが本当に好きになることもあります。

 

知らなかった世界を外から教えてもらったことで、

 

「私、これが好きだったんだ!」

 

と初めて気づくこともあります。

 

だから、外から与えられる情報や選択肢が悪いわけではありません。

 

ただ、ときどき私は自分に聞いてみたい。

 

「で、本当のところ、私はどうなんだろう?」

 

と。

 

 

 

 

 

 

自分を見るということ


 

これは、ヒーリングやセラピーでも同じだと思っています。

 

誰かが、

 

「これは素晴らしいですよ」

「これはあなたに必要ですよ」

「こういう変化がありますよ」

 

と言ったから、それをそのまま自分の答えにするのではなく、

 

私は何のためにこれを受けたいのだろう。

 

私は何を求めているのだろう。

 

実際に受けてみて、身体はどう感じている?

 

心はどう感じている?

 

私は心地いい?

 

続けたい?

 

それとも、もうやめたい?

 

自分自身をちゃんと見る。

 

誰かが感じる私ではなく、

 

私が感じている私を、自分で確かめる。

 

それがとても大切だと思っています。

 

 

 

 

 

 

100個全部いらなくてもいい


 

100個の選択肢を与えられて、

 

「好きなものを選んでください」

 

と言われたとき、

 

その中から必ず1個を選ばなくてもいい。

 

100個全部いらない。

 

でもいい。

 

そして、

 

「じゃあ、101個目を自分で探しに行こう」

 

でもいい。

 

もっと言えば、

 

「私が欲しいものは、まだここにはない」

 

と気づいたなら、自分で作ったっていい。

 

それもまた、自分の人生を選ぶということだと思います。

 

 

 

 

 

 

欲しいものは、いっぱいあっていい


 

そして私は、自分の欲求をひとつに絞らなくてもいいと思っています。

 

これも欲しい。

 

あれも欲しい。

 

これもやってみたい。

 

あそこにも行ってみたい。

 

こんなことにも挑戦したい。

 

これも作りたい。

 

もっと知りたい。

 

いっぱいあっていい。

 

誰かから提示されたものを比較して、

 

「この中ではこれが一番マシかな」

 

と選んだときとは違う、

 

自分の中から「やってみたい!」と湧いてくる感覚。

 

そこには、ワクワクや意欲や生命力のようなものが伴うことがあります。

 

「あれをやりたい」

 

と思ったら、そちらへ動いてみる。

 

「これが欲しい」

 

と思ったら、取りに行ってみる。

 

最初から正解でなくてもいい。

 

途中で、

 

「思っていたのと違った」

 

となったっていい。

 

また自分に戻って、選び直せばいい。

 

 

 

 

 

 

自由とは、自分の中から選択肢を生み出せること


 

自由とは、

 

たくさん用意された選択肢から、好きなものを選べることだけではないのだと思います。

 

選ばないこともできる。

 

全部断ることもできる。

 

別のものを探しに行くこともできる。

 

そして、

 

まだ目の前に存在していない選択肢を、自分の中から生み出すこともできる。

 

「私は何がしたい?」

 

「私は何が欲しい?」

 

その答えがすぐに出てこなくてもいい。

 

外からやってくる情報を少し静かにして、

 

まだ言葉にもなっていない自分の欲求が、

 

「あのね」

 

と顔を出してくるのを待ってみる。

 

そして見つかったら、1ミリでもそちらへ動いてみる。

 

人生の舵を取るというのは、

 

誰かが用意した人生の中から一番いいものを選ぶことではなく、

 

自分自身を見ながら、自分で行き先を決めていくこと。

 

なのかもしれません。

 

私自身も、ともするとSNSをずっとスクロールして、流れてくる情報を次々と見てしまいます。

 

だからこれは、誰かに「こうしたほうがいい」と伝えたい話というより、

 

私自身も忘れないようにしたいことです。

 

ときどき情報を閉じて、

 

「さて、私は何がしたい?」

 

と自分に聞いてみる。

 

与えられた100個の中から選ぶ前に。

 

もしかしたら私が本当に欲しいものは、

 

まだ101個目にあるのかもしれないから。





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情報を待つのではなく、自分から取りに行く人生へ



 

今の時代は、ものだけではなく、情報にもあふれています。

 

SNSをひとつ開けば、次から次へと情報が流れてくる。

 

自分が知りたいと思って探したわけでもないのに、

誰かの暮らしや考え方、成功談、悩み、商品、サービス、ニュースなど、たくさんの情報が向こうからやってきます。

 

そんな今だからこそ、私はふと思いました。

 

 

これからは「自分から取りに行く」ということが、ますます大切になるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

生きるものは、自分から動く


 

 

たとえば野生動物は、お腹が空けば、生きるために食べ物を求めて動きます。

 

獲物を探しに行く動物もいれば、自分自身は大きく動かず、仕掛けのような方法を使って餌を得る生き物もいます。

 

 

もちろん人間の人生は、命をつなぐためだけにあるわけではありません。

 

「あれが食べたい」

「あそこへ行ってみたい」

「これを知りたい」

「こんなことをしてみたい」

 

そんな自分の中から生まれた欲求をきっかけに、私たちは自分から動いていくことができます。

 

私は、この**「自分の中から何かが生まれて、それに向かって自分から動く」**ということが、とても自然な生命のあり方のように感じています。

 

ところが今は、自分から探しに行かなくても、情報のほうからどんどんやってきます。

 

 

 

 

 

 

「いらない」と判断することにも注意を使っている


 

流れてきた情報に興味がなければ、見なければいい。

 

確かにそうです。

 

でも最近、私はこんなことを思いました。

 

 

「これはいらない」と判断することにも、ほんの少しずつ自分の注意を使っているのではないだろうか。

 

これは認知科学の考え方とも重なる部分があります。

 

人間は目や耳に入ったものをすべて深く処理しているわけではありません。

 

それでも、たくさんの刺激がある中で、

 

「これは自分に関係がある」

「これは関係がない」

 

と選別したり、不要なものから注意を外したり、また自分がしていたことへ注意を戻したりすることには、認知的な処理が伴います。

 

SNSを眺めながら、

 

これはいらない。

これもいらない。

これは何だろう?

あ、やっぱり興味ない。

次。

次。

 

そうやってスルーしているだけでも、まったく何もしていないわけではないんですよね。

 

ひとつひとつは、とても小さなことかもしれません。

 

でも私は、その**「小さな注意の浪費」も、なんだかもったいない**と思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

100個から1個を選ぶより、自分から1個を探しに行く


 

たとえば100個の情報が流れてきて、その中に自分に必要なものが1個あったとします。

 

その1個を見つけるためには、残りの99個についても、

 

「これは違う」

「これはいらない」

 

と選別しなければなりません。

 

だったら、

 

「今の私は何を知りたいんだろう?」

 

と自分に問いかけて、

 

「これが知りたい」

 

と思ったものを、自分から探しに行く。

 

必要な情報を見つけたら読む。

 

そして、終わったら閉じる。

 

私は、そんな情報との付き合い方をしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

情報が悪いわけではない


 

もちろん、偶然流れてきた情報によって、知らなかった世界に出会うこともあります。

 

思いもしなかったことに興味を持ったり、新しい可能性に気づいたりすることもあります。

 

だから私は、外から入ってくる情報そのものが悪いとは思っていません。

 

ただ、流れてくるものを拾うことばかりになってしまったらどうだろう。

 

拾って、拾って、また拾って。

 

気がついたら両手がいっぱいになっている。

 

そのとき、自分の中から、

 

「本当はあれが欲しい」

「あれを知りたい」

「あそこへ行ってみたい」

 

という小さな声が聞こえてきても、それを取りに行く余白がなくなってしまうかもしれません。

 

それどころか、何度も見せられたものを、

 

「私はこれが欲しいのかもしれない」

「これって私にも必要なのかな」

 

と、自分自身の欲求のように感じることだってあるかもしれません。

 

だからこそ私は、ときどき外から入ってくる情報を静かにすることが必要なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の欲求が動き出せる余白をつくる


 

情報を減らすことは、世界を狭くすることではないのかもしれません。

 

むしろ、外から押し寄せるものを少し静かにすることで、

 

「私は何がしたい?」

「何を知りたい?」

「どこへ行きたい?」

「何が欲しい?」

 

そんな自分自身の声が聞こえてくる。

 

そして、その声を聞いたら、自分から取りに行く。

 

情報を減らすことは、

 

自分の欲求が動き出せる余白を取り戻すこと。

 

そんなふうにも思います。

 

 

 

 

 

 

だから私は、メルマガではなくブログを書いている


 

現在、私は自分のホームページでメルマガを発行していません。

 

その代わりにブログを書いています。

 

メルマガにも、もちろん素敵なところがあります。

 

自分で「読みたい」と思って登録するものですから、そこにも読者の自発的な選択があります。

 

ただ、今の私は、あえてブログという形が好きです。

 

私が書いたものを、ここに置いておく。

 

そして、

 

「今これについて知りたい」

「これを読みたい」

 

と思った人が、自分から取りに来る。

 

必要なものを読んだら、また自分の人生へ戻っていく。

 

そんな関係がいいなと思っています。

 

私は、誰かに私の情報をずっと追いかけてほしいわけではありません。

 

必要なときに、必要なものを、自分から取りに来てもらえたらいい。

 

これからの時代、本来の自分の力を思い出し、自分の願いや希望に沿った人生を生きていくためにも、

 

外からやってくるものを受け取り続けるだけではなく、

 

「私は今、何を求めているんだろう?」

 

と自分に戻り、

 

そこから自分の足で取りに行く。

 

そんな小さな自発性を、私は大切にしていきたいと思っています。

 

情報にあふれた時代だからこそ、

 

何を見るかだけではなく、何を見ないかも自分で選ぶ。

 

そして、空いた両手で、

 

本当に欲しいものを、自分から取りに行く。

 

私はそんなふうに、自分の人生を生きていきたいと思います。






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夢の世界には、自分から会いにいく


 

最近、よく思うことがあります。

 

自分の人生を変えていくのも、夢に向かって進んでいくのも、結局は自分が「そちらへ行こう」と思って動かなければ、現実はなかなか動いていかないんだな、と。

 

夢について考えているときは、

 

「こんなふうになりたいな」

「こんな人生を作っていきたいな」

「よし、そのために行動してみよう」

 

と思います。

 

そのときは、その未来がとても近く感じられるんです。

 

ところが、いつもの日常生活に戻ると、ふっと忘れてしまう。

 

目の前の家事をしたり、仕事をしたり、スマホを見たり、いつもの生活をしているうちに、さっきまで思い描いていた未来が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられてしまうことがあります。

 

 

 

 

 

 

本を閉じた瞬間、日常の世界に戻ってしまう

 

これは本を読んでいるときにも、よく起こります。

 

素敵な本を読んで、

 

「なるほど」

「私もこういうふうに生きてみたい」

「これなら私も実践してみよう」

 

と心が動く。

 

本を読んでいる間は、その世界にどっぷり浸っています。

 

著者の言葉を読み、その考え方を感じながら、いつの間にか自分もその世界の中にいる。

 

ところが本をパタンと閉じて、いつもの生活に戻った途端、いつもの日常の方が一気にリアルになる。

 

そして数時間後には、

 

「そういえば、あの本を読んだとき、何かやってみようと思ったような……」

 

なんてことになってしまう。

 

せっかく心が動いたのに、それが日常の行動にまでつながらない。

 

これは意志が弱いというより、今ここにある現実の臨場感が、それだけ強いからなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

感動した思い出だって、少しずつ遠くなる


 

これは夢だけではありません。

 

たとえば、とても素敵なコンサートに行ったとします。

 

美しいピアノの演奏を聴いて、

 

「なんて素敵なんだろう」

 

と胸がいっぱいになった。

 

その瞬間は、音も、空気も、その場所の雰囲気も、自分の中に起きている感動も、とても鮮明です。

 

ところが一週間、一か月と時間が経っていけば、その感覚は少しずつ薄れていきます。

 

「あのときは本当に感動したな」

 

という記憶は残っていても、あの日の感動を100%そのまま感じ続けているわけではありません。

 

でも、ある日ふと目を閉じて、

 

あのときの会場を思い出してみる。

ピアノの音を思い出してみる。

自分がどんな気持ちで演奏を聴いていたのかを思い出してみる。

 

そうすると、完全に同じではなくても、あの日の感動が少し蘇ってきたりします。

 

つまり、自分からその記憶に会いにいくことで、その世界の臨場感をもう一度呼び起こすことができるんですよね。

 

夢も、それと少し似ているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

夢の世界には、自分から会いにいく


 

今の現実は、何もしなくても毎日やってきます。

 

目の前には今日の予定があり、家事があり、仕事があり、スマホがあり、いつもの生活があります。

 

だから「今の現実」の臨場感は、放っておいても強くなります。

 

でも、まだ実現していない未来は違います。

 

未来の家も、

未来の仕事も、

やってみたいことも、

なりたい自分も、

 

まだ目の前にはありません。

 

だから、こちらから会いにいかなければ、どうしても今の現実の中に埋もれてしまいます。

 

だったら私は、自分から夢の方向へ接触しにいく時間を作ることが大切なんじゃないかなと思うようになりました。

 

一日5分でも10分でもいい。

 

「私はどこへ行きたいんだっけ?」

 

「どんな人生を作りたいんだっけ?」

 

「それが叶った世界って、どんな感じなんだろう?」

 

そんなふうに、自分が向かいたい世界をもう一度感じてみる。

 

これは単に願望を頭の中で繰り返すというより、自分が向かう方向を思い出す時間なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

そして、今日の現実を1ミリだけ動かす


 

ただ、夢の世界を感じるだけでは、現実は変わりません。

 

だから夢の世界に会いにいったあと、

 

「じゃあ今日、その方向へ1ミリだけ何をしよう?」

 

と、自分に聞いてみる。

 

調べる。

申し込む。

一行書く。

一ページ読む。

練習する。

片づける。

誰かに連絡する。

 

本当に小さなことでいい。

 

大切なのは、夢を「いつかの世界」に置いたままにせず、今日という現実の中に、その未来につながるものを一つ持ってくること。

 

夢の世界に会いにいく。

 

そして、現実に戻って1ミリ動く。

 

また夢の世界に会いにいく。

 

そして、また1ミリ動く。

 

この往復を繰り返していったら、少しずつ夢と現実の距離が縮まっていくのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

未来は、待っているだけでは近づいてこない


 

夢を忘れてしまうことがあってもいい。

 

日常に飲み込まれてしまう日があってもいい。

 

大切なのは、また自分から会いにいけばいいということ。

 

素敵な思い出を自分から思い出すことで、あの日の感動にもう一度触れられるように。

 

夢もまた、自分から思い出し、自分から感じ、自分から接触しにいく。

 

そして、その世界から今日の自分へ、小さな一つを持ち帰る。

 

今の現実は、放っておいても目の前にある。

だから未来には、自分から会いにいく。

 

そして今日も、夢の方向へ1ミリだけ動いてみる。

 

そんな小さな積み重ねが、いつか振り返ったとき、

 

「あの頃は夢だったものが、今は私の日常になっている」

 

という場所へ、自分を連れていってくれるのかもしれません。






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夢を叶える1ミリの一歩

 

 

夢を叶えたい。

 

こうなりたい。

こんなことをしてみたい。

こんな人生を生きてみたい。

 

そんな夢を持っていても、現実を見ると、夢とはあまりにもかけ離れているように感じることがあります。

 

「今の私には無理かもしれない」

「お金がないから」

「家族がいるから」

「失敗したら怖い」

「人からどう思われるだろう」

 

そうしているうちに、夢は「いつか」のものになっていく。

 

いつかできたらいいな。

いつかチャンスが来たら。

いつか状況が変わったら。

 

でも、その「いつか」は、待っているだけではなかなかやってきません。

 

だから私は思うのです。

 

今日、自分の人生を夢の方向へ1ミリ動かしてみる。

 

それだけでもいいんじゃないか、と。

 

 

 

 

 

 

夢を小さくするのではなく、今日の一歩を小さくする


 

「夢を叶えるために行動しよう」と言われると、なんだか大きなことをしなければならないように感じます。

 

仕事を辞める。

大金を用意する。

告白する。

申し込む。

新しい場所へ飛び込む。

 

そんな大きな一歩を想像してしまったら、怖くなるのも当然です。

 

でも、最初からそんなに大きく動かなくてもいい。

 

お金が必要なら、まず必要な金額を調べてみる。

 

家族との調整が必要なら、まず「こんなことをやってみたいんだけど」と話してみる。

 

本を書きたいなら、最初の100文字を書いてみる。

 

行ってみたい場所があるなら、交通手段を一つ調べてみる。

 

誰かに気持ちを伝えたいなら、いきなり答えを求めるのではなく、自分から少し話しかけてみることだってできる。

 

夢を小さくする必要はない。

小さくするのは、今日の一歩。

 

1ミリなら、動けるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

考えているだけなのに、行動したつもりになっていた


 

私は以前、恋愛について振り返ったとき、とても驚いたことがありました。

 

その当時の私は、自分ではいろいろ行動していたつもりでした。

 

相手のことを考えたり、

どうしたらいいのか悩んだり、

誘おうと思ったり、

自分の気持ちについて考えたり。

 

たくさんのエネルギーを使っていたので、私はてっきり「自分は動いている」と思っていたのです。

 

でも、あとから振り返ってみると、

 

「あれ? 私、現実では何をしたんだろう?」

 

と思いました。

 

もちろん多少の行動はしていました。

 

でも、頭の中で使っていたエネルギーの大きさに比べると、現実ではそれほど動いていなかった。

 

極端に表現するなら、

 

「自分では告白したくらいのつもりなのに、実際には何も伝えていなかった」

 

そんな感じです。

 

このことに気づいたとき、私はとても衝撃を受けました。

 

考えることにもエネルギーを使います。

 

悩むことにもエネルギーを使います。

 

想像することにもエネルギーを使います。

 

だからこそ、たくさん考えたことで「私はこんなにやった」と感じることがあるのかもしれません。

 

でも、

 

考えることと、現実を動かすことは違う。

 

考えることは、行動するために必要なこともあります。

 

でも、頭の中だけでどれほど遠くまで行っても、現実の自分が同じ場所に立ったままなら、現実はまだ動いていないのです。

 

 

 

 

 

 

「頭の中」ではなく「現実」を1ミリ動かす


 

だから最近、こんな問いを自分に向けるのもいいなと思っています。

 

「私は今、頭の中だけで動いている?

それとも、現実を1ミリ動かした?」

 

たった1ミリでいい。

 

メールを一通送る。

 

一つ調べる。

 

必要なお金を計算する。

 

一ページだけ読む。

 

一行だけ書く。

 

誰かに相談してみる。

 

興味のある場所まで行ってみる。

 

その一つひとつは、とても小さなことかもしれません。

 

でも、そこには大きな違いがあります。

 

それまで、

 

「いつかやってみたい」

 

だったものが、

 

「私はもう、その方向へ動き始めている」

 

に変わるからです。

 

 

 

 

 

 

夢を叶えられないことより、やらなかった後悔


 

もちろん、行動したからといって、すべての夢が思い通りに叶うとは限りません。

 

お金の問題もあります。

 

家族や仕事との兼ね合いもあります。

 

自分だけではどうすることもできないこともあります。

 

人が関係することであれば、相手にも相手の意思があります。

 

だから、どれだけ自分が行動しても叶わないことはあるでしょう。

 

でも、私が怖いと感じるのは、夢が叶わなかったことだけではありません。

 

もっと怖いのは、

 

本当は行きたい場所があった。

本当はやりたいことがあった。

それなのに、一度も自分からその方向へ動かないまま、いつもの日常を繰り返してしまうこと。

 

そしてずっと後になって、

 

「あのとき、やってみればよかった」

 

と思うことです。

 

結果は、自分だけでは決められません。

 

でも、

 

今日1ミリ動くかどうかは、自分で選ぶことができます。






 

動いたからこそ「違った」と気づくこともある


 

そして、一歩踏み出した結果、

 

「やっぱりこれは違った」

 

と分かることだってあります。

 

それも私は、失敗ではないと思っています。

 

やってみたから分かった。

 

動いたから、自分の本当の気持ちに気づいた。

 

「これが夢だと思っていたけれど、本当に欲しかったものは別のものだった」

 

そんな発見があるかもしれません。

 

何も動かなければ、頭の中で想像することしかできません。

 

でも現実を1ミリ動かせば、現実から返事が返ってきます。

 

楽しかった。

 

怖かった。

 

思っていたものと違った。

 

もっとやってみたい。

 

これは好きじゃなかった。

 

こっちのほうが好きだった。

 

そうやって、自分のことも少しずつ分かっていく。

 

だから夢への一歩は、

 

夢に近づくためだけではなく、自分自身を知るための一歩でもある

 

のだと思います。

 

 

 

 

 

 

人生の操縦席に、自分が座る


 

夢を叶えるというのは、何もかも一人でやることではありません。

 

誰かに助けてもらっていい。

 

家族に協力してもらっていい。

 

詳しい人に教えてもらっていい。

 

偶然のチャンスに乗ってもいい。

 

人との出会いによって、思いもしなかった方向へ進むことだってあります。

 

でも、その始まりには、

 

「私は、こっちへ行きたい」

 

という自分の意思があります。

 

自分が一歩動く。

 

その姿を見て誰かが力を貸してくれる。

 

必要な情報と出会う。

 

次の一歩が見えてくる。

 

そうして少しずつ、止まっていた車輪が回り始める。

 

途中で止まったら、また自分に聞けばいい。

 

「私は、どうしたい?」

 

そしてまた1ミリ動けばいい。

 

 

 

 

 

 

今日、夢の方向へ1ミリ


 

夢があまりにも遠くに見えるとき、

 

「どうしたら夢を叶えられるんだろう?」

 

と考えると、答えが分からなくなることがあります。

 

そんなときは、もっと小さな問いでいいのかもしれません。

 

「今日、夢の方向へ1ミリ動くとしたら、私は何ができる?」

 

1ミリでいい。

 

夢を小さくする必要はありません。

 

大きな夢のままでいい。

 

ただ今日の一歩だけ、小さくする。

 

そして一つ動いたら、昨日まで遠い未来にしかなかった夢が、ほんの少しだけ今日の現実の中に入ってくる。

 

夢は、いつかの未来だけにあるものではない。

 

今日、夢の方向へ1ミリ動いた瞬間から、

 

もう私は、その夢を生き始めている。





魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy

 

 

 

 

 

現状を変えたいなら、まずはここから

どうにかしたい悩みのヒーリングセッション

「成功する人は決断が早い」に惑わされない——誰かのYESで、自分のNOを上書きしない


 

今日、もう一つ気づいたことがありました。

 

それは、

 

「成功する人は決断が早い」

 

「チャンスをつかむ人は、すぐに決める」

 

「本当にやりたいことなら、借金してでもやったほうがいい」

 

というような言葉についてです。

 

私は以前、こうした言葉を聞いて、

 

「そういうものなのかな」

 

と思っていました。

 

そして実際に、決断を急いだこともありました。

 

でも今日になって、ずっとどこかにあったモヤッとした感覚が、ようやく言葉になりました。

 

その人にとっての正解と、私にとっての正解は違う。

 

当たり前のことのようですが、私はこの大切なことを、以前は十分に理解できていなかったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「借金してでもやった」の前には、何があったのだろう


 

例えば、

 

「私はどうしてもこれをやりたかったから、借金してでも飛び込みました」

 

という人がいたとします。

 

その人にとっては、本当にそれほどやりたいことだったのかもしれません。

 

「借金という負担を引き受けてでもやりたい」

 

と思うほどの、強い気持ちがあった。

 

だからその人は、自分でそのリスクを引き受けて、その道を選んだ。

 

それは、その人自身の選択です。

 

でも、それを聞いた別の人が、

 

「私はそこまでではないんだけど……」

 

と思っていたとしたらどうでしょう。

 

借金してまではやりたくない。

 

少し興味はある。

 

できるならやってみたい。

 

でも、大きな負担を抱えてまでやりたいわけではない。

 

本当はそう感じている。

 

それなのに、

 

「でも成功した人が、借金してでも飛び込んだほうがいいと言っている」

 

「ここで決めなかったらチャンスを逃すのかな」

 

「運をつかめない人になるのかな」

 

「決断できない人になってしまうのかな」

 

「この機会を逃したら損するのかな」

 

そんな不安から飛び込んだとしたら。

 

外から見える行動は同じ、

 

「借金をしてでもやる」

 

だったとしても、その二人の内側で起きていることはまったく違います。

 

 

 

 

 

 

同じ行動でも、出発点が違う


 

一人目は、

 

「どうしてもやりたい」が先にあり、そのためにリスクを引き受けた。

 

もう一人は、

 

「そこまでやりたいわけではない」があるのに、恐れから自分の気持ちを押し切った。

 

この二つは、同じ行動ではあっても、同じ選択ではないと思うのです。

 

私は以前、この違いをよく分かっていませんでした。

 

だから、

 

「決断が早い人がチャンスをつかむ」

 

と言われると、

 

早く決めなければ。

 

チャンスを取り逃したくない。

 

損をしたくない。

 

乗り遅れたくない。

 

運をつかめない人になりたくない。

 

決断できない人になりたくない。

 

そんな気持ちから、勢いで決めてしまったことがありました。

 

でも今振り返ると、それは「やりたい」という気持ちからの選択というより、

 

恐れや不安に急かされた選択

 

だったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「決断が早い」と「自分で決断する」は違う


 

早く決めること自体が悪いわけではありません。

 

本当にやりたいことなら、

 

「やりたい!行く!」

 

と一瞬で決めることもあります。

 

それも自分の答えです。

 

でも、

 

「魅力的ではあるけれど、今は分からない」

 

と思うことだってあります。

 

そんなときに、

 

「成功する人は即断即決する」

 

という言葉を使って自分を追い立てる必要はないと思うのです。

 

「今日は決められないから、今日は決めない」

 

これだって、一つの決断です。

 

「今日までに決めなければ、この機会はなくなります」

 

と言われたときに、

 

「それなら今回は見送ります」

 

と決めることだってできます。

 

大切なのは、

 

決断の速さではなく、自分が納得して決めているかどうか。

 

なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「そこまでではない」も、大切な答え


 

私が今回とても大切だと思ったのは、

 

「そこまでではない」

 

という感覚です。

 

やってみたい。

 

でも借金してまでではない。

 

興味はある。

 

でも今ではない。

 

欲しい。

 

でもその金額では選ばない。

 

魅力的だと思う。

 

でもリスクを引き受けてまで欲しいわけではない。

 

これは優柔不断なのではなく、

 

自分の気持ちの濃淡を感じ取っている

 

ということなのだと思います。

 

すべてが、

 

「絶対YES!」

 

か、

 

「絶対NO!」

 

である必要はありません。

 

30%くらい興味があることもある。

 

70%くらいやってみたいこともある。

 

「お金に余裕があったらやってみたい」ということもある。

 

それも全部、自分の本当の感覚です。

 

その微妙な感覚を、

 

「成功する人ならやる」

 

という誰かの強い言葉で上書きしなくていい。

 

 

 

 

 

 

その人が「何をしたか」だけを真似しない


 

成功した人の体験談を聞くとき、私たちはつい、

 

「その人が何をしたのか」

 

に注目してしまいます。

 

借金して飛び込んだ。

 

会社を辞めた。

 

即決した。

 

大きなリスクを取った。

 

知らない土地へ行った。

 

でも、本当に大切なのは、その行動だけではないのかもしれません。

 

その人は、なぜそれを選んだのか。

 

そこまで見てみる。

 

もしかすると、その人には、

 

「どうしてもこれをやりたい」

 

という、とても強い気持ちがあったのかもしれない。

 

だとしたら、その人の人生から受け取るものは、

 

「成功したければ借金しなさい」

 

ではなく、

 

「その人は、自分が本当にやりたかったことを自分で選んだ」

 

ということなのかもしれません。

 

それなら私たちが真似するべきなのは、表面的な行動ではありません。

 

その人と同じ選択をすることでもありません。

 

むしろ、

 

「では、私はどうしたい?」

 

と自分に戻ってくることなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

誰かのYESで、自分のNOを上書きしない


誰かにとって、

 

「借金してでもやりたい」

 

が本当のYESなら、それはその人の答えです。

 

でも私にとって、

 

「借金してまではやりたくない」

 

が本当の気持ちなら、それが私の答えです。

 

そこに優劣はありません。

 

勇気がある、ないでもありません。

 

成功者だから正しい。

 

迷っているから間違っている。

 

そんなことでもない。

 

その人には、その人の人生があります。

 

私には、私の人生があります。

 

だから私は、

 

誰かのYESで、自分のNOを上書きしない。

 

これを大切にしたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

人生の決定権を、自分に戻す


 

経験豊富な人から話を聞くことはできます。

 

専門家から知識を教えてもらうこともできます。

 

成功した人から、その人がうまくいった方法を聞くこともできます。

 

それらは、とてもありがたい情報です。

 

でも、それはあくまでも、

 

自分が決めるための材料

 

なのだと思います。

 

その人が、私の人生の答えを持っているわけではありません。

 

最終的に、

 

「私はどうしたいのか」

 

を決められるのは、自分だけです。

 

そして、その答えがすぐに分からないことだってあります。

 

そんなときには、

 

「今は分からない」

 

でもいい。

 

「私は迷っている」

 

でもいい。

 

分からない自分を追い立てて、誰かの答えを借りてこなくてもいい。

 

私は私の声が聞こえてくるまで、私と一緒にいる。

 

それも、自分との信頼関係なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

自分の人生の操縦席には、自分が座る


 

誰かから地図をもらうことはできます。

 

「私はこの道を通って、ここへたどり着いたよ」

 

と教えてもらうこともできます。

 

その地図が、とても参考になることもあるでしょう。

 

でも、その人と私では、出発地点も違えば、行きたい場所も違います。

 

持っているものも、背負えるリスクも、価値観も違います。

 

だから最後にハンドルを握るのは、自分です。

 

右へ行くのか。

 

左へ行くのか。

 

今日は進まないのか。

 

少し戻るのか。

 

それを決める席は、誰にも渡さなくていい。

 

大切なのは、

 

「早く決められる私」になることではなく、

 

「自分の声を聞いて、自分で決められる私」でいること。

 

チャンスを逃さないことよりも、

 

自分自身を置き去りにしないこと。

 

誰かの人生の正解を生きるのではなく、

 

自分の人生を、自分で選んでいくこと。

 

今日ずっと感じていたモヤッとしたものを言葉にしてみて、私は改めてそう思いました。








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