こんにちは。
このブログ「まっさらな瞳」へようこそ。
ここは、あなたが本来の自分を思い出し、心をオープンにして、毎日を軽やかに、そして自分らしく生きるためのヒントをお届けする場所です。
私たちは生まれたとき、誰もが純粋な瞳を持っています。その瞳の奥には、ありのままの自分がいて、世界と柔らかくつながりながら輝く力があります。けれど、日々の生活や人との関わりの中で、その純粋さや自由さを忘れてしまうこともあります。
このブログでは、
自己信頼や内なる叡智を思い出すこと
自分らしい生き方を育む気づき
夢を叶えながら、心地よく輝く日々のヒント
などを、私自身の体験や講座での学びとともにお届けしていきます。
ヒーラー養成講座やセクシャルウェルネスなどの学びも、この「真っさらな瞳」という視点で統合され、あなたの中の本来の力を呼び覚ますきっかけになれば嬉しいです。
さあ、一緒に、目を覚ましたばかりの赤ちゃんのような、真っさらな瞳で、毎日を見つめてみませんか。

先日、断捨離をしていて、
ふと思い出したことがありました。
コロナ禍と呼ばれていた頃、
SNSではたくさんの備蓄をされている方を見かけました。
数年分とも思える食料品や日用品を
準備されている方もいたように思います。
きっと、その方々は
未来への備えとして行動されていたのでしょう。
そして、その行動自体は
決して悪いことではありません。
備蓄は、いざという時の安心につながります。
ただ、ふと思ったのです。
もし数年前に大量の備蓄をしていたなら、
今頃は賞味期限や消費期限のラッシュが
来ているかもしれないな、と。
備蓄は持つことよりも、
管理し続けることの方が難しいのかもしれません。
先の未来の自分のために準備することは大切です。
けれど、
未来への不安が大きくなりすぎると、
安心を確保しているつもりが、
今度は管理し続けるための不安を抱えることにもなります。
たくさん持つことで
安心できる場合もあります。
一方で、持ちすぎることで
常に氣にかけなければならなくなることもあります。
安心と不安は、案外
紙一重なのかもしれません。
未来への備えを大切にしながらも、
今の自分が心地よく管理できる量を知ることもまた、

夢実現の一環として、
私は断捨離を続けています。
もう10年以上になると思いますが、
それでも何かを手放すときには、毎回少なからず罪悪感を感じます。
ただ、最近の断捨離は少し違います。
今取り組んでいるのは、
「未完了を完了にする断捨離」です。
期限もなく、放置しようと思えば
いつまでも放置できるもの。
だけど目にするたびに
少し氣になっているものや、
心のどこかで引っ掛かっていることがあります。
先日、そんなものの一つを手放しました。
それは私の好きな趣味に関係するものでした。
しばらくその趣味に手をつけられずにいたため、
その道具も使われないままになっていました。
ある日ふと目に入ったのが、
ユースキンのクリームでした。
容器を見てみると、
使用期限は二か月前。
未開封のものもありましたが、
お肌につけるものなので手放すことにしました。
これまでも毎日のように目にはしていました。
けれど、使わないまま時間だけが過ぎていたのです。
期限が切れていたから捨てた。
そう考えることもできます。
でも、もし期限が切れていなかったら
どうだっただろうと考えました。
きっと私は持ち続けていたと思うのです。
だけど、その趣味を今やっていないのに持ち続けるのは、
「またやらなくちゃ」
「いつか再開しなきゃ」
そんな負い目を抱え続けることでもあったのかもしれません。
だから今回は、物だけではなく、
その思いごと手放すことが大切だと感じました。
過去の自分を握りしめ続けることは、
ときにサンクコストに似ています。
また趣味を再開したくなったら、
その時に新しいものを買えばいい。
その方が新鮮な気持ちで始められるし、
クリームも新しいものを使えます。
断捨離とは、単に物を減らすことではなく、
今の自分に必要なものを選び直すことなのかもしれません。
魂が震える歓喜の人生に Dive into Joy
現状を変えたいなら、まずはここから
どうにかしたい悩みのヒーリングセッション
心を置き去りにしていませんか?
忙しない日々を過ごしていると、
いつの間にか自分の心を置き去りにしたまま
毎日を過ごしていることがあります。
そんなときは、不思議とお部屋が散らかっていたり、
なんとなく氣持ちに余裕がなかったりして、
今の心の状態が見えてくることがあります。
忙しさに飲み込まれていることに氣づいたら、
意識して心を緩める時間を取ることが大切です。
実は、「忙しいな」と感じるときほど、
何かに煮詰まっていたり、
思うように進まなくなっていたりすることも少なくありません。
早く終わらせようと頑張り続けるよりも、
いったん立ち止まって息抜きをした方が、
結果的にスムーズに進むこともあります。
わたしたちは、
「休むことは怠けること」
「休んでいる間に誰かに追い抜かれてしまう」
そんな価値観の中で育ってきたこともあり、
休むことや息抜きをすることが
あまり得意ではないのかもしれません。
実は、わたしも以前はそうでした。
けれど、思い切って本氣で休むようになってからは、
物事がスムーズに進むようになり、
自然とやる氣も湧いてくるようになりました。
あなたは、上手に息抜きできていますか?
もし最近少し頑張りすぎているなら、
一度、本氣で休んでみてくださいね。
きっと、
あなた本来の力が見えてくると思います。^^
わたしたちは日々、
さまざまな情報に触れながら生きています。
人との会話、SNS、仕事の場面、学びの時間。
そのすべての中で
「世界を理解している」と感じる瞬間があります。
しかし実際には、
その理解はとても限定的であることが
多いのかもしれません。
人は無意識のうちに、
「自分にとって都合の良い部分」や
「理解しやすい部分」だけを切り取って
世界を捉える傾向があります。
これは意図的なものというよりも、
むしろ自然な認知の仕組みです。
・人は「全部」を見ることができない
どれほど丁寧に誰かの話を聞いたとしても、
その人の人生のすべてを理解することはできません。
同じように、ある思想や価値観、関係性についても、
わたしたちはその一部だけを切り取って理解しています。
例えば、
ある人の言葉がとても魅力的に感じられたとしても、
その背景にある行動や別の側面までは
見えていないことがあります。
逆に、
たった一つの違和感によって、
その人全体を判断してしまうこともあります。
このように、
人は「部分」を「全体」だと
錯覚しながら世界を捉えているのです。
・認知のフィルターという仕組み
この現象は心理学的には
「認知のフィルター」として
説明されることがあります。
わたしたちは膨大な情報のすべてを
処理することができないため、無意識に
自分にとって心地よい情報
過去の経験に似ている情報
理解しやすい情報
を優先的に受け取ります。
その結果、
同じ出来事を見ていても、
人によってまったく違う理解が生まれます。
これは「間違い」ではなく、
人間の自然な働きです。
・都合の良い理解と悪意の違い
ここで大切なのは、
このフィルターは悪意ではないということです。
誰かが意図的に世界を歪めているというよりも、
ほとんどの場合は「そう見えてしまう」という
自然な現象です。
つまり、
人はみなそれぞれのフィルターを通して
世界を生きています。
だからこそ、
同じ出来事でも解釈が違ったり、
価値観がすれ違ったりするのは
当然のことなのかもしれません。
・フィルターに氣づくということ
この認知のフィルター自体をなくすことはできません。
しかし、
「自分にもフィルターがある」と氣づくことはできます。
この氣づきがあると、
一つの情報だけで判断しない
相手の一面だけで決めつけない
自分の感情も絶対視しない
という余白が生まれます。
それは、
すぐに答えを出さない姿勢でもあります。
・人を知るということ
人を知ることは、
エネルギーのいることです。
時間もかかるし、
思っていたイメージが変わることもあります。
そしてその変化が、時に
がっかりや違和感を生むこともあります。
だからこそ、
人と関わることは慎重にもなりますし、
無理に深く関わらなくてもいいという選択も
自然なものです。
一方で、
興味があるときだけ少しずつ知っていく
という関わり方もあります。
どちらが正しいということではなく、
自分にとって無理のない距離感を選ぶことが
大切なのだと思います。
私たちは世界を
「そのまま」見ているようでいて、
実際には
「自分のフィルターを通した一部」を見ています。
そのことに氣づくだけで、
人との関係や物事の捉え方は
少し柔らかくなるのかもしれません。
完璧に理解することよりも、
「理解はいつも途中である」という前提を持つこと。
それが、

何か夢ややってみたいことを思いついたとき、
最初はとてもワクワクして、
「これやってみたい」
「きっと面白いかもしれない」と
心が動く瞬間があります。
でもそのすぐ後に、
「本当にこれでいいのだろうか」
「批判されたらどうしよう」
「失敗したら恥ずかしい」といった
氣持ちが出てきて、
氣づけば一歩も動けなくなってしまうことがあります。
そしてそのまま、
考えるだけで夢がしぼんでしまう、
そんな経験を繰り返してきた人も多いのではないかと思います。
かつての
わたし自身もそうでした。
頭の中ではいろいろと想像しているのに、
外に出すことができないまま、
その夢は自分の中だけで終わってしまう。
でも今振り返って思うのは、
「外に出していないものは、誰にも届かない」という、
とてもシンプルな事実です。
どれだけ素敵なアイデアや思いがあっても、
それを表現しなければ、
誰かにとって必要なものかどうかも分かりません。
そして多くの場合、
自分が「これは普通だ」と思っていることや、
「これくらいなら誰でもできる」と感じていることほど、
他の人にとっては価値があるものだったりします。
だからこそ、
それを外に出してみないと、
本当の意味での需要や意味は分からないのだと思います。
一方で、
行動を止めてしまう背景には、
「失敗したくない」
「恥ずかしい思いをしたくない」
「批判されたくない」
という自然な怖さがあります。
でも失敗というものは、
本来それほど悪いものではなくて、
むしろ新しいものを生み出すための
過程の一つなのだと思います。
うまくいかない経験があるからこそ、
より良い方法にたどり着いたり、
新しい発想が生まれたりする。
実際に、
わたしたちが日常で使っているものの中にも、
失敗から生まれた発明はたくさんあります。
例えば青色LEDのように、
最初の試行錯誤があったからこそ
今の形になったものもあります。
もちろん、
一度でうまくいく人もいますが、
その裏には見えない経験や積み重ねがあることがほとんどです。
だから本当は、
「失敗しないこと」を目指すよりも、
「やってみた結果から何を受け取るか」
のほうが大事なのかもしれません。
夢は、

ふと「こじらせ女子」という言葉が氣になったことをきっかけに、
その意味を考えていました。
一般的には、恋愛や人間関係で素直になれず、
うまくいかなくなってしまう女性を指す言葉として使われているように思います。
でも実際に自分の経験や周りの人間関係を振り返ってみると、
それは単純に「その人の性格の問題」とは
言い切れないように感じました。
相手の態度が曖昧だったり、
急に距離が変わったり、
何を考えているのか分からないまま関係が進むと、
人は自然と不安になります。
その不安の中で
「どう受け取ればいいのか」
「自分が悪いのかもしれない」と、
自分の中で答えを探し始めてしまう。
本当は、分からないことは相手に聞けばいいのかもしれません。
でも、嫌われるのが怖かったり、
自分に原因があると思い込んでいたりすると、
その一歩がとても難しくなってしまいます。
その結果、外から見ると
「こじらせているように見える反応」に
なってしまうことがあるのだと思います。
でもそれは、
ただ単にその人が面倒な性格なのではなくて、
「安心して確認できる関係性になっていなかっただけ」
なのかもしれません。
また一方で、相手側にも、
無意識のうちに態度が揺れたり、
距離感が安定しなかったりすることがあります。
その曖昧さが、
さらに相手の不安を大きくしてしまうこともある。
つまりこれは、
一方の問題というよりも、
関係の中で起きる“相互作用”のようなものだと感じました。
そしてもう一つ感じたのは、
「恋愛がある・ない」
「結婚している・していない」
といった表面的な状態だけでは、
人の誠実さや人間性は分からないということです。
現実には、関係があることと
人としての成熟度は必ずしも一致しませんし、
逆に関係がないからといって問題があるとも限りません。
そうした
“社会的なイメージ”と
“現実の人間関係”の間にはズレがあって、
そのズレの中で、
人は自分を責めてしまうこともあるのだと思います。
私はこれまでの経験の中で、
「自分に何か欠けているのではないか」
と感じてしまうことがありました。
でも今振り返ると、
それは必ずしも自分の問題ではなく、
関係の中で起きていたことを
自分の中に引き受けすぎていたのかもしれません。
今は、人との関わり方そのものを

前回、「相手の自由を尊重するということ」
という記事を書きました。
その後、改めて考えていて気づいたことがあります。
それは、
自由に選ぶことと、自己信頼は
深くつながっているということです。
わたしは、人が自由に選択するためには、
自分自身を信頼できていることが大切だと思っています。
なぜなら、
自分を信頼できない時、
人はどうしても外側に答えを求めてしまうからです。
「あの人が正しいと言うなら。」
「みんなが選んでいるなら。」
「有名な人が勧めているなら。」
そんなふうに、
自分の外側にある基準を頼りたくなります。
もちろん、
人から学ぶことは大切です。
経験者の知恵や専門家の知識に
助けられることもたくさんあります。
わたし自身も、多くの人から学んできました。
けれども、
本当に良い学びとは何だろうと考えた時、
わたしはこう思うのです。
それは、
その人が最終的に自分の足で立てるようになること。
自分で考えられるようになること。
自分で選べるようになること。
そして、
自分自身を信頼できるようになること。
もし学び続けても、
「あの人がいないと決められない。」
「あの人が何と言うかが気になる。」
「正解を教えてもらわないと不安になる。」
そんな状態のままだとしたら、
それは本当の意味で力になっているとは言えないのかもしれません。
わたしは時々、それを
補助輪に例えることがあります。
補助輪は悪いものではありません。
自転車に乗る練習をする時には、
とても役立ちます。
けれども、
補助輪の目的は、
ずっとつけ続けることではありません。
いつか外して、
自分で走れるようになることです。
もし補助輪を外せないままになっていたらどうでしょう。
本人は進んでいるように感じるかもしれません。
けれども、本当の意味で
自分の力で走っている感覚は得られないかもしれません。
これは、
人間関係や学びの世界でも同じように感じます。
人によっては、
恐怖や不安を使って人を引き留めようとすることがあります。
「これをやめたら不幸になる。」
「この人から離れたら成功できない。」
「今すぐ決断しないと手遅れになる。」
そうした言葉は、
一見すると人を導いているようにも見えます。
けれども、その奥では、
「自分では選べない。」
「自分では判断できない。」
「外側に正解がある。」
という感覚を強めてしまうことがあります。
結果として、
自分を信頼する力は育ちにくくなります。
人生のハンドルを握っているようで、
実は誰かに握ってもらっている状態です。
わたしは、本来の人間の姿は
そうではないと思っています。
人は一人ひとり、
自分で感じる力を持っています。
考える力を持っています。
選ぶ力を持っています。
もちろん、
間違うこともあります。
迷うこともあります。
失敗することもあります。
けれども、
それらを含めて人生なのだと思います。
誰かが用意した正解を
追い続ける人生よりも、
「私はこう感じる。」
「私はこう選ぶ。」
と生きる人生のほうが、
生きている実感があるのではないでしょうか。
自分で選び、自分で責任を引き受ける。
その積み重ねが
自己信頼を育てていくのだと思います。
そしてわたしは、
人と人との理想的な関係も、
依存ではなく自立の上に成り立つものだと感じています。
誰かに従う人と、従わせる人。
正解を持つ人と、正解を教わる人。
そんな関係ではなく、
それぞれが自分の足で立ちながら出会う関係です。
それぞれが自分の感覚を持ち、
それぞれが自分の考えを持ち、
それでも互いを尊重しながら関わる。
そこから新しい発想や創造が生まれていく。
わたしはそんな関係に希望を感じます。
だからこそ、
相手を尊重するということは、
相手をコントロールしないことなのだと思います。
相手を不安で動かさないこと。
相手の選択を奪わないこと。
そして何より、
相手の選ぶ力を信頼すること。
それが本当の意味での
尊重なのではないでしょうか。
そして同時に、
自分自身の選ぶ力を信頼すること。
その自己信頼こそが、

最近、SNSを見ていて感じることがあります。
それは、人に何かを伝える時の「伝え方」についてです。
自分自身が本当に良いと思える技術や知識、考え方に出会うと、
それを誰かにも伝えたくなるのは自然なことだと思います。
実際、私自身にもそんな時期がありました。
「こんなに素晴らしいものがあるなら、もっと多くの人に知ってほしい。」
そう思うこと自体は、
とても自然なことです。
けれども最近、
少し気になる発信を見かけることがあります。
それは、自分の知っている方法や技術を伝えるために、
他の方法を否定したり、見下したりするような発信です。
「あれは間違っている。」
「本物はこれだけだ。」
「これを知らない人は騙されている。」
そんな言葉を目にすることがあります。
もちろん、その発信者の方も悪意があるわけではなく、
本当に良いと思っているからこそ伝えているのかもしれません。
けれども私は、その内容そのものよりも、
そこにある姿勢に違和感を覚えるのです。
なぜなら、本当に大切なのは
「相手が自分で選べること」だと思うからです。
わたしは、
「私はこれが良かった。」
「こういう考え方もある。」
「こんな可能性もある。」
そんなふうに伝えることは素敵だと思います。
一方で、
「これを知らないと損をする。」
「今すぐ決めないとチャンスを逃す。」
「本物を知らない人は騙されている。」
という伝え方には、どこか息苦しさを感じます。
そこには、相手が考える余地や
選ぶ余地が少なくなってしまうからです。
以前、SNSでは
「飛ばすと幸せになれません。」
「飛ばすと運を逃します。」
といった投稿をよく見かけました。
私はそういう投稿を見るたびに、
そのまま通り過ぎていました。
なぜなら、その内容が正しいかどうか以前に、
不安や恐怖を使って人を動かそうとしているように感じたからです。
危険を伝えることと、不安を煽ることは違います。
本当に相手を大切に思うなら、
相手が安心した状態で考え、
自分で選べるように伝えることができるはずです。
けれども不安や恐怖を利用した発信は、
考える時間や余白を奪ってしまいます。
「今すぐ。」
「急いで。」
「逃したら終わり。」
そうやって焦りを生み出し、人を誘導していく。
わたしはそのやり方に魅力を感じません。
また、「成功する人は決断が早い」
という言葉もよく耳にします。
もちろん、決断力が大切な場面はあります。
けれども、その言葉が
「迷う人はダメだ。」
「考える時間を取るのは間違いだ。」
という圧力として使われるなら、
それもまた違うように思います。
大切なのは、早く決めることではなく、
自分で納得して選ぶことではないでしょうか。
そして私は、こうした発信が増えた背景には、
現代社会の流れもあるのではないかと感じています。
長い間、多くの人が
「みんなが選んでいるから」
「多数派だから」
「有名な人が言っているから」
という基準で判断することに慣れてきました。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
けれども、その結果として、
自分で考え、自分で選ぶ力を使う機会が
少なくなってきた面もあるのかもしれません。
そこへSNSやマーケティングの技術が加わり、
人の不安や焦りを刺激する発信が広がりやすくなったようにも感じます。
だからこそ、
これからの時代に大切なのは、
自分で考えることではないでしょうか。
誰かを盲信することでもなく、
誰かの不安に乗せられることでもなく、
「私はどう感じるだろう。」
「私にとって本当に大切なものは何だろう。」
と問いかけること。
そして発信する側もまた、
相手を動かすことよりも、
相手の自由を尊重すること。
相手を説得することよりも、
相手が自分で選べること。
そんな姿勢を大切にできたら素敵だなと思います。
なぜなら、本当に人を尊重するということは、

不足すると、人はなぜ踊らされるのか
最近、「ビニール手袋が不足するかもしれない」という話を聞きました。
実際、遠い親戚の方から、「不足するかもしれないから」とビニール手袋を少し分けていただきました。
もちろん、その気持ちはとてもありがたかったです。
ただ同時に、私はふとこう思いました。
「そんなに騒ぐことなのだろうか?」と。
思い返せば、これまでもいろいろなものが「不足する」と言われてきました。
お米、マスク、トイレットペーパー、ゴミ袋……。
すると、それまでそこまで重要視されていなかったものまで、
急に“とても大切なもの”に見え始め、
人々は不安になり、買いだめを始めます。
でも、その光景を見ていると、私は時々思うのです。
人は、「不足」という言葉に踊らされすぎていないだろうか、と。
コロナの時、私自身も不安を感じました。
何が本当なのかよく分からない状態でしたし、
「マスクがなくなる」と言われれば焦りもしました。
でも、結果的には、当初言われていたほど
極端な状況にはならなかった部分もありました。
そして何より、その過程で
たくさんの工夫や代替案、新しい商品も生まれていきました。
歴史を見ても、不足が起きれば、
必ず誰かが新しい方法を考えます。
企業が代替品を開発したり、
今までになかった発明が生まれたり、
むしろ従来より便利なものが生まれることだってある。
人間には、本来それだけの
知恵や創造性があるのだと思います。
だから私は、
「これがないと絶対ダメ」という考え方に、
少し寂しさを感じます。
もちろん、備えは大切です。
不安になること自体も自然なことです。
だけど、
「みんながやっているから」
「みんなが買っているから」
という理由だけで流されてしまうと、
自分で考える力を手放してしまうことにもつながる気がするのです。
本当に必要なのか。
他の方法はないのか。
工夫できることはないのか。
そうやって、一度立ち止まって自分で考えること。
それは、ただの節約や買い物の話ではなく、
「自分の人生の舵を誰が握るのか」ということにもつながっている気がします。
私は、安心というものは、
外側の物だけが与えてくれるものではないと思っています。
もちろん、物に助けられることもあります。
でも最終的に、
「大丈夫。考えればきっと道はある」
そう思える力こそが、
本当の安心の種なのではないでしょうか。
安心の鍵は、外だけではなく、
自分の内側にもある。
私はそんなふうに思っています。

舌切り雀は「得したら幸せ」という話なのかな
「損したくない」
「得したい」
そんなことを考えていた時に、
ふと昔話の
『舌切り雀』を思い出しました。
優しいおじいさんが、
舌を切られた雀を助けます。
すると雀は、
自分たちの家へおじいさんを招待して、
ごちそうでもてなしてくれました。
帰る時に雀たちは、
「大きなつづらと、小さなつづら、
どちらを持っていきますか?」
と聞きます。
するとおじいさんは、
「私は小さいもので十分ですよ」
と言って、
小さなつづらを選びました。
そして家に帰って開けてみると、
中には金銀財宝が入っていた。
それを聞きつけた、
雀の舌を切った意地悪なおばあさんは、
「自分も金銀財宝が欲しい」
と思って雀の家へ向かいます。
でも、
おもてなしを楽しむことには興味がなく、
頭の中は、
「大きなつづらには、もっと宝が入っているはず」
ということでいっぱいです。
そして大きなつづらを持ち帰ります。
けれど、
開けてみると、
中に入っていたのはお化けたちでした。
子どもの頃は、
「欲張るとダメなんだな」
くらいに読んでいた気がします。
でも大人になって改めて考えると、
この物語って、
単純に
「良いことをしたら得をする」
という話ではないように感じます。
むしろ、
“損得に囚われすぎると、
本当に大切なものを見失う”
そんな話にも思えるんですよね。
意地悪なおばあさんは、
「もっと得したい」
「大きいほうが価値がある」
という気持ちに飲み込まれていました。
でもその結果、
本当に欲しかったものとは
逆のものを持ち帰ることになった。
これって、
現代でもよくあることかもしれません。
損したくなくて辞められない。
もっと得したくて無理をする。
周りより良く見られたくて頑張り続ける。
そうしているうちに、
自由さや、
安心感や、
自分らしさのほうを失ってしまうこともある。
逆に、
小さなつづらを選んだおじいさんには、
「これで十分ですよ」
という感覚がありました。
あれは、
“足りない”ではなく、
“満ちている”感覚だったのかもしれません。
その場のつながりや、
“今ここ”の豊かさを感じて
だからこそ、
豊かさが自然と巡ってきた。
そんなふうにも感じます。
昔話って、
子どもに読み聞かせるものでもありますが、
大人になってから読むと、
また違う景色が見えるものなんですね。幸せの魔法使い☆まみ
性を通して本来の自分に還る
心・身体・性を整え、人生を再構築する
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